(民衆闘争報道 <朝鮮民主主義人民共和国・訪問記2>2011年5月16日)
(※以下の文中の中で”朝鮮共和国”と表記されているのは、”朝鮮民主主義人民共和国”の誤りです。)
晴れた5月、あんずの花咲くピョンヤンは、
強盛大国に向かう社会主義朝鮮の力強い建設の鎚音が響いていた。
朝鮮民主主義人民共和国訪問記<その2>
△5月1日・メーデーの日、テソンサン(大城山)遊園地で運動会を楽しむ親子。メーデーは、家族連れで弁当を持って行楽に出掛ける休息の日。軍事パレードもデモ行進もありません。 (写真/時事研)
●人道主義的で、人間的な、ピョンヤン(平壌)空港の入管職員
夕刻、中国瀋陽から1時間余りで着いたピョンヤン空港は、厳戒体制の緊張した雰囲気を期待していた我々を、少し「がっかり」させた。南朝鮮のインチョン(仁川)国際空港の様な自動小銃を構えたペアの兵士の姿もなく、簡単な入国審査のゲートが、日本のJRの改札の様に並んでいた。少し大きな地方空港の、のんびりした雰囲気だ。
しかし、暫くして或るトラブルが起こった。
審査ゲートを乗客全員が出たと思って振り向くと、ゲートの向こうで一人だけ、ダブルの背広にネクタイで決めた日本人らしき若者が取り残されていた。
彼は1枚の書類を示して、日本語で何やら弁明をするが、その書類にはめもくれず、高い断固たる声で拒絶の態度を示す女性係官の前で途方にくれている様子である。
我々は、見ず知らずとは言え、青ざめる彼を「見捨てて」、我々だけが朝鮮共和国に入国する雰囲気ではなくなって来たのである。ハングル会話が堪能なK氏に事情を聴きに行ってもらった。K氏の話はこうだ。
彼は、あの青い、朝鮮民主主義人民共和国の入国ビザを持っていなかったのだ!どうして瀋陽飛行場の出国審査をパスし、ピョンョンヤン行きの飛行機に乗れたのかは、中国係官の見落としである事は明らかだが、本人の問題意識として、共和国ビザも持たずに入国を試みるとは何事かと、みんなの気持ちは同情から怒りにシフトした。
しかし、彼の持つ日本語の旅程表は、朝鮮共和国旅行を扱う中国の旅行社との契約に従って、その旅行社が瀋陽の共和国総領事館でパスポートを代理申請し、出発当日、瀋陽飛行場で彼に手渡す事となっていたが、受け取ることが出来ないまま、コリョ航空に搭乗したのだと言う。(もし入国拒否され、帰りの便は3〜4日後しかないとすると、その間どうするつもりなのか心配になる)、
しかし、事実その旅程表に書かれた通り、共和国側のガイドがピョンヤン空港に迎えに来ていることが確認できた。その段階で、女性係官は、上司と打ち合わせの上、パスポートを中国から直ちに送付することを条件に、「300ユーロの罰金の上、入国を許可する」と彼に通告した。
彼は、連休を利用し、インターネットで朝鮮旅行を扱う中国の数社の中から、1番安い会社だったのでそこに決めたと言い、300ユーロ(5万円)の罰金負担はショックな様子であった。しかし、暫くすると困惑する彼の前へ、彼女の上司らしき人が出て来て、我々のK氏に、彼に次の様に伝えるように言ったのだ。
「我が共和国は、敵対的行動を取る日本政府を許す事は出来ないが、君の様に、自分の意思で我が国を知ろうとやって来た若者を歓迎しないわけにはいかない。罰金はよろしい。ビザは、早く送って貰いなさい。」と言っていると伝えた時、入国ゲートから出てきた彼を迎えて、我々は思わず、全員が拍手をしてしまった。様子を見ていた周囲の人々も共和国の各係員も、それを見てみんなニコニコと喜こんでくれている様子だった。
どんな理由にしろ、ビザを持たない人間を受け入れる国は考えられない。まして、1953以降、未だ朝鮮戦争が休戦状態のまま、日、米、韓をはじめとする帝国主義とその同伴者の、軍事的政治的圧力に曝されてきた共和国が、「正体不明の日本人」を簡単に受け入れる事はある意味では、極めて危険な事である。それこそ「人道的配慮」以外の何ものでもない。この国を、自らの数々の所業を包み隠し、政治的捏造を積み重ねて、「非人道国家」、「非人権国家」と騒ぐ国家は、この、小さい事実のなかの、大きい意味を学ぶべきであろう。
●宿舎・高麗ホテルは、西欧人と中国人ビジネスマンであふれていた。
我々は、朝鮮対文協の人達に迎えられ、宿舎である「高麗ホテル」に向かった。45階建て高層ツインホテルのロビーは、西洋人と、中国のビジネスマンで溢れていた。
△宿舎である「高麗ホテル」のロビー。我々はここに連泊することになる。この45階ツインタワーホテルは、プール・サウナ・レストラをはじめ、日本のホテル同様あらゆる設備が揃っている。(写真―時事研)
中国・瀋陽のホテルでは、湯がぬるくバスに入る事が出来なかったが、ここでは問題無く熱い湯がでて、二日ぶりに風呂に入りシャワーを浴びる事が出来た。シャンプーその他の備品も完備し、訪朝前、日本のホテルと同じだからと言う説明を聞いていたものの、万一を考えて、バス・洗面用品、「停電」を想定した懐中電灯まで、こっそり持参した事が、いささか気恥ずかしい。
部屋は、スタンダードとの事だが、別室まであって一人では広すぎる。備えつけのテレビはブラウン管だが、NHKの衛星放送も入る。ロシアとの関係が深いと見えてロシア語放送のチャンネルもある。
自室の19階の窓からピョンヤンの町を見下ろしていたら、ビル(高層ビルは、公的建造物もあるが、多くは労働者住宅である。)の窓の明かりが、日暮にはあまり点灯せず、暗くなってから一斉に点いたように見えた。自主的な節電であろう。
今我々は、カミングスが「朝鮮戦争の起源」に記述した、朝鮮戦争直後のピョンヤンを始め、朝鮮半島北半分の有様が、アメリカ軍の絨毯爆撃によって、「北の地には、ビルと名付けられる建物は無く、ピョンヤンその他の町は文字通り瓦礫の山であった。工場はがらんどうであり、かっての巨大ダムも破壊され、ひび割れの湖底が見えるだけであった。洞窟やトンネルの中に土竜のように潜んでいた人々が外に這い上がってみつけたものは、照り輝く白昼の中での悪夢であったのだ。」
アメリカの介入によって、戦前人口の20%の人間が殺された、そのような大量虐殺戦争は、歴史上存在しないと言われている。―そのようなピョンアンが、美しい街並みで聳え立っているのは、如何なる力によってなのか?
これからの、社会主義朝鮮の本当の姿を探究することに期待が膨らむ。
●朝のピョンアンは、活気に溢れていた。
△朝、高麗ホテルそばの、ピョンヤン駅前を出勤に急ぐ労働者、学生。トロリーバスが主流。白バイは、交通警察。(写真―時事研)
△写真 左が軌道電車(無軌道電車―トロリーバスも数多い。すべて無公害だ)右側に昼間から(北欧の様に)ライトを付けて自動車が走っている。先頭の車はタクシー。ガソリンスタンドも勿論ある。車が多くなって来たとの事。(写真―時事研)
△地下鉄の降口とトロリーバス。(写真―時事研)
△地下鉄構内。大理石とシャンデリアが美しい。料金は、全区間1円だ。(写真―時事研)
△地下鉄構内、大理石は、共和国に無尽蔵にある。すべて国産品。(写真―時事研)
△遅れていた柳京ホテルの完成は、間近かだ。地上205階、地下5階、「苦難の行進」時代、建設が一時ストップした。(写真―時事研)
●錦繍山記念宮殿で思った事―
我々一行は、日本帝国主義の植民地支配に対する抗日武力闘争を組織して植民地解放を勝ち取り、朝鮮民主主義人民共和国を建設。その後米国とその連合国による革命干渉戦争としての朝鮮戦争を勝ち抜き、今日の社会主義朝鮮の基礎を築いた金日成主席を祀る、「錦繍山記念宮殿」を訪問し、主席の遺体に厳粛に表敬対面した。
△かっては錦繍山議事堂で、金日成主席の執務と生活の場でもあった。死後改築し廟として整備された。入場するときは当然正装し、主席に対面する。(写真 時事研)
―1960年代、朴正煕軍事政権と米帝国主義による共和国への侵略行動に対し、“我々は、戦争を恐れない、朴軍事政権と戦う南民衆を見捨てない”と言う金日成主席の植民地解放闘争の理念を、“日本の民主勢力に被害をもたらす”と批判した日本共産党の言動―
筆者はこの記念宮殿で、次の様な歴史の記録を思いだす。それは、1967年7月3日、朝鮮労働党第16回中央委員会の結語での、主席の発言を批判的に伝える当時の日本共産党赤旗編集局(編)「北朝鮮覇権主義への反撃」 (1992年3月14日〜5月7日まで赤旗に連載された記事を編集し、1992年に新日本出版社から発刊)からの引用である。
‘「もし、明日にでも南朝鮮で革命が起こり、南朝鮮の兄弟が援助を求めて来たら、我々がこの会場の様な建物が破壊される事を恐れて、援助の手を差し伸べずに座視していられるでしょうか。我々は決して、そうするわけには行きません。・・朝鮮革命に責任を持つ共産主義者として、南朝鮮から米帝国主義者を追いだして祖国を統一する為には、いずれは必ず彼等と解放戦争をしなければならないと言う覚悟を持たなければなりません。」’
日本共産党は、主席の発言を、“戦争を恐れるなと言うこの主張は、北朝鮮が米帝国主義を南朝鮮から追い出す解放戦争を覚悟すべきと言うだけでなく、「主動的」に解放戦争の名による「南進」政策を意味する”と一方的に断定し、“世界の正義の世論の支持共感を得られないばかりか、日本と世界の民主勢力に被害をもたらす”と批判した。これを、1968年8月24日、主席の招待によって(ポーランドの貨物船で二日がかりで清津に上陸し、)訪朝した宮本顕治書記長以下日本共産党代表団が、南朝鮮での「武装遊撃隊」活動への批判も含め、金日成主席に対し主張した。(当時、中国は、毛沢東の文化大革命の最中であり、中国共産党と日本共産党は決裂状態であり、中国経由の訪朝は出来なかったからか?)
これに対し、主席は、‘「敵が<武装遊撃隊>と報道しているのは、双方がやっている偵察行動の事だ。また、我々の側が戦争をしかける事はない。」と一蹴した(同上)。 当時は、日本でも上映され反響を巻き起こした、韓国軍傘下の共和国侵入軍事特殊部隊の悲劇を暴露した映画「シルミド」に見られる様に、南韓軍事政権の共和国への侵略戦争策動は常態化していた。米帝国主義は、トンキン湾事件をでっち上げ、北爆を正当化しベトナムへの侵略戦争を拡大。ベトナム人民虐殺の最前線に、韓国軍を投入した。さらに米国は、共和国深く「プエブロ号」を侵入させ偵察活動を行い、共和国人民軍に拿捕された。南韓朴軍事政権下で抵抗する、南の民衆闘争は、捕らわれれば水責め拷問と死刑が待つ戒厳部隊の暴力に、民衆の街頭デモと言論活動による抵抗闘争が頻発し、人民党事件などいくつものフレームアップで活動家の死刑が執行されていた。
日本はこの朴軍事体制に対し、日韓条約(1965年)によって、有償・無償。民間借款をあわせ、8億ドル(当時の韓国国家予算が、3・5億ドル、日本の外貨準備高が18億ドルである事を考えると、いかに巨額かが分かる)戦後賠償見合いとして支払い、日本帝国主義40年にわたる植民地支配による、朝鮮半島全域の民衆と国家への責任を南部政権との単独賠償で処理しようとしたのである。日本はこれによって朴軍事ファシズム政権の経済的後ろ楯となり、更に朴は、米国のベトナム戦争の最前線(米兵による掃討作戦の先頭には、常に韓国軍がいた)に延べ30万の兵士を送り込み(ハンギョレ21・第273号)10億ドル以上の特需を手に入れた。現在までの検証でさえ、3千余件の韓国軍によるベトナム民衆虐殺事件が明らかになっている(同上)。朴時代に於ける韓国経済の“漢江(カンガン)の奇跡”と言われるものがこの二つの経済効果によるところが大きいことは歴史の通説となっている。
△万寿台・金日成主席と解放記念の彫像
この様な朝鮮半島を取り巻く日米韓の政治的軍事的動きが、南部朝鮮の民衆運動の高揚を抑圧し、70年安保改定を迎えた日本の民衆闘争の解体を狙い、ひいては朝鮮共和国への侵略戦争を挑発する危険をはらんでいたとき、日本共産党の役割こそ、日本における日米軍事同盟(安保)を解体する大衆闘争を強化し、日米帝国主義と朴軍事政権の戦争挑発から社会主義朝鮮を断固擁護することにあった。しかし、カミングスがその著で指摘するように、「朝鮮戦争が本来、内戦的要因に由来するものであったと言う事実が曖昧にされてはならない。朝鮮人としては、朝鮮人同士で決着をつけるべき問題があったのであり、戦争そのものの始りは、日帝下の植民地時代にまで遡る。」にも拘らず、当時宮本書記長と日本共産党は、「朝鮮戦争は、北朝鮮の主導的な南進によって始まったのであり、今回の金日成主席の主張も同じものだ。」(同上)と、帝国主義者の歴史観に基づいて批判し、主席の植民地解放闘争の遂行に反対したのである。60年安保闘争もそうであったが、日本共産党は、階級闘争の利益ではなく、自らの党の利益と、何よりも資本主義日本の議会制度とその選挙で、国民の票を1票でも多く取ることを目的に、社会主義朝鮮の国際主義と解放闘争が、「日本と世界の民主勢力に被害をもたらす」と詭弁を弄したのである。
その後の、「拉致問題」「核問題」での共和国批判は言わずもがな、「チョナン艦爆破北朝鮮説」「ヨンピョン島砲撃事件」全てについて一方的な共和国非難を、今もって続けている。今日、資本の攻撃に対する明確な方針を求める労働者民衆の数は、1500万を下るものではない。党がいまもって500万〜450万の票しか集め得ない理由こそ、宮本・金日成主席会談で明らかになった日本共産党の階級的立脚点の喪失にある。
●5・1国際労働節(メーデー)は、家族中心の楽しい休日
我々は、ピョンヤンの国際労働節の会場である「大城山遊園地」にやってきた。ここは、パンダのいる動物園もあるあるピョンヤン市民の憩いの場だ。また、今日の中国東北地方(満州)から朝鮮半島北部一帯を領域とした高句麗王朝がBC427年に都を遷都し、安鶴宮を建てたところで、今も遺跡発掘作業が進行している。今のピョンアンは、その外城地域だったと言う。
メーデーは、それぞれの単位の催しや家族単位の行楽の日で、デモ行進や軍事パレードも勿論ない。
△テソンサン(大城山)遊園地で運動会が行われていた。向こうのプラカードに、「ピョンヤン○○工場」の字が見える。工場の党委員会か、職場委員会の主催かも知れない。西欧人も参加している。
△同上 子供達の景品取り競争が始まった。(写真―時事研)
△大城山遊園地は、高句麗の安鶴宮があったところ。(写真―時事研)
●社会主義朝鮮において、働くすべての勤労者は、基本的に<衣・食・住>及び<医・教育>において、平等な生活条件を国家が保障している。
2012年を「強盛大国」への入り口にしようとの社会主義朝鮮の意気込みが、憲法が保障する人民生活の向上の中身を、さらに具現する。
「強盛」とは、@政治・経済・軍事において国力を強くする事。Aすべての面で栄える事。B人々の生活に不自由がない状況を作り出す事。
即ち、人民すべてが栄え、なに不自由ない生活を保障すること。経済の分野で、自力更生を基本に最先端技術開発を推し進め、農業も工業の様に労働者との差をなくすこと。帝国主義の侵略に備え軍事もおろそかにしないこと。以上3点をさしているが、現地で我々が集めた情報によると、それらを支える基本的なシステムは次の様なものである。
○住宅は、光熱費は自己負担であるが、住宅家賃は無料である。
○食費も、主食(米)と基礎食品(みそ・醤油・塩・砂糖など)は、無料である。
○一家族に、渡される「わが家族手帳」(?? ????)
これは、食費の無料きっぷの役目もあり、日本式に訳せば「配給手帳」だが、かなり意味が違う。家族の内訳で、子供の数、退職した老人の同居数、障害者への特別きっぷなども支給する情報がはいっている。例えば妊婦に対しては、お腹の赤ちゃんを子供一人と認定するなど、地域の人々の生活を見守る総合手帳の様だ。当然その手帳にもとづき専門に支給する店舗がある。社会主義朝鮮において、子供を沢山生む事は不幸な条件ではない。
○医療費は、全て無料である。
○教育費は、義務教育(幼稚園1年、小4年、中高6年)は、無論の事、各種大学、専門学校等すべて無料である。
○農村(農民)では、基本的に都市勤労者と同じであるが、都市が光熱費を有料としているのに対し、無料である。これは、都市労働者と農民の格差を縮める施策でもある。共和国憲法でも、わざわざ「国家は、協同農場(注―里、郡、道、国の協同組合)の、生産施設,および農村文化住宅を、国家負担とする。」と具体的に明記している。
○交通手段は、都市(ピョンヤン)を例にとると、地下鉄、バス、軌道電車、連結無軌道バス(トロリーバス)が多いが、運賃は、日本円換算1円で、ほとんど無料に近い。
社会主義朝鮮において、共和国憲法は第63条で、「公民の権利・義務は、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと言う集団主義原則に基づく」とし、第64条で「国家は、すべての公民に真の民主主義的権利・自由、幸福な物質文化生活を実質的に保障する」と明記、それを具体的に実施して行っていると言うことが出来る。
しかし、1960年代の大洪水、1980年代の旱魃、1995年と2010年の大自然災害(洪水)は、ただでさえ食料(米)の自給率の低い朝鮮にあって、食料危機を招いただけでなく、特に1995年(金日成主席の死去1年後)の大洪水は、各地の鉱山が水没し、工業と農業の同時危機を迎え、それ以降「苦難の行軍」の時期と呼ばれた。
恐らくこの時期、「わが家族手帳」で支給される食糧の量も少なかったことが推測される。
しかしこの時期、人心的に結束し、人民生活の向上を科学技術開発と農業分野での機械化・技術開発、食料自給のための農地の拡大を通して、それ(苦難の行軍)を乗り切って来たと言う。
△ピョンヤン・万寿台(???)地区で、10万戸の労働者のための最新集合住宅建設が、急ピッチで進められている。3DK~4DKの間取りで、家族構成で決められる。後で紹介する全自動化された「大同江タイル工場」は、この住宅建設のためのものだ。(写真―時事研)
● 我々が会った共和国の多くの人々は、1980年代のソ連・東欧の社会主義国家には、「人民が主人と言う思想がなかった。」ことが、体制崩壊の大きな要因の一つであると指摘する。
「労働者・農民・勤労インテリおよび全ての勤労人民の」主権によって、共和国の社会主義的生産関係と計画経済を守り支えるのは、この働くすべての勤労人民の確固とした社会主義思想によらなければならないと言うのはまさにその通りと言える。
3大革命(思想革命、技術革命、文化革命)において、第一に挙げる思想革命は、社会主義の獲得物を自分たちのものとして守る思想であろう。
それは、次の様なシステムで支えようとしている事が理解出来る。
○農繁期における、労働者、軍(主として「内務軍」)による援農活動。
地域職場で、その時期、その状況で協議され場所や内容がきめられる。
6月、田植え時期など。労働者、勤労インテリが農業の実態を知り農民と交流を深め、社会主義思想を共有するのだ。
○金曜労働と土曜学習
社会主義朝鮮の勤労者は、基本的に週4日労働8時間制であるが、金曜日は、工場労働者から勤労インテリまで、彼等の職場単位で取り決め、他業種或いは農村に入り、その労働を経験し、勤労者の交流をふかめるものである。土曜学習は、詳しい事は聞き洩らしたが、文字通り、社会主義の学習に割く時間である。
前回も触れたように、資本主義は、商品経済自体が持つ自律的運動に従って、その障害となる条件を取り除く国家の施策により生き延びることも可能だ。(労働者階級・民衆の意識的な反資本主義社会革命が起こらない限り)
しかし、社会主義は、今、それを取り囲む、圧倒的な資本主義世界市場との連動の中で、私的資本による社会的所有の浸食が進み「価値法則」が進行すれば、社会主義計画経済の投資と国家の資源が、社会の主人公である働く勤労者階級にとっての社会的効果に向かうことがない。
労働の商品化(搾取)→資本主義的経済の復活が下部構造で進行することとなり、思想的にもそれを受容する動きが生まれれば、資本主義への復活が(中国の様に)少しづつ進む事となる。
「金曜労働・土曜学習」は、社会主義朝鮮は、その様な状況を決して招来させずと、社会の主体であるすべての働く勤労者が、意識的・自立的・創造的な実践として遂行する、経済と政治と軍事のなかでの実践活動だと考えられる。豊富な天然資源を利用した先端科学技術の開発、農業の機械化と生産技術の開発を通して、食料の自給にも近ずくと言うものが、主体思想なのであろう。
次に我々は、各施設を訪れることによって、その具体的な姿を見る事が出来た。(続く)
|