自民党「新憲法草案」は、日本国憲法の「平和主義、人権主義、福祉主義」を全面否定する、許すことが出来ない反憲法的クーデターである。
日本国憲法の原理(根本法則)は、その「前文」と「国民の権利と人権」を規定する各条文によって、次ぎの様に説明できる。
即ち、1、権力を監視する「国民主権」、2、戦争と軍隊の放棄に基づく「平和の内に生存する権利(平和的生存権)」、3、人が生まれながらに有する「基本的人権」、4、資本主義社会の下であっても、法の下での平等と社会的弱者に対する国家の責務、国民の生存権を保障するとする「福祉主義」である。
一言で言えば、日本国憲法は、「平和主義、人権主義、福祉主義」を原理としているのである。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる事のない様にする事を決意し、ここに主権が国民に存する事を宣言しこの憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。」(憲法前文)
日本帝国主義と天皇制軍国主義者によって引き起こされた戦争の惨禍を、国民主権の行使によって二度と起こしてはならぬとする平和主義と、そのなかに国民の幸福と利益を求めることが、憲法の理念であるといっている。
更にこの前文の後半で、この平和主義を、他の諸権利と同様に一つの権利と規定し「国民が平和の内に生存する権利(平和的生存権)」として行使すべきものとして、次ぎの様に言っている。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会にあって、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」(同前文)と。
これは、日露日清戦争から朝鮮の植民地支配に至る日本のアジア侵略において、アジアと自国の民衆の血の犠牲の上に、私的利益を追求した日本の資本家と天皇制国家主義者どもに対する断罪であり、日本国民の、アジアに対する不戦の誓いと平和立国への展望を、「平和的生存権」の行使によって実現しようと宣言しているのである。この日本国憲法の規定する「平和的生存権」こそ、アメリカ帝国主義とその追随者による軍事的暴力的手段の破綻が明らかになった今日、一層、世界の政治的課題を解決する理念として輝きをましているのである。
日本国民が「国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」(同前文)日本国憲法は、世界の国ぐにと国民が共有すべき理念に他ならないのだ。
この、憲法前文によってその歴史的原理的に規定された「平和主義、人権、国民の幸福」は、具体的に第九条の二項において「前項の目的を達成する為、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と、軍隊の放棄を定め、紛争の解決を如何なる軍事的手段にも依らず、「諸国民の公正と信義に信頼」して解決することを「全力を挙げて」取り組む事を国家の理念としたのである。
これは日本国憲法を貫く原理の中心軸でありこの理念から人間の生まれながらに有する基本的人権の尊重(第12条及び第99条)と思想良心の自由(第19条)、個人の尊重(第13条)と法の下の平等(第14条)、人間としての生存権(第25条)を保障する思想を規定することが出来たというべきである。
前文によってその根拠を明らかにし、各条項によって、国民の平和的生存権を含む基本的人権の尊重と、生存権を規定し、日本国家の国是を「平和主義、人権主義、福祉主義」とした日本国憲法の根本的な原理は、なん人によっても変えられる物でもなく、また変えようとする行為があるとすれば、それは、反憲法的、超法規的行為、つまり「クーデター行為」として司法と国民によって取り締まりの対象とすべきものと、言わなければならない!!
憲法第96条、「改正の手続」権は、憲法の基本的原理を除く改正手続きである事は、後述する様に、広く憲法学者と学会によって認められているばかりでなく、そもそも憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」の規定は、自民党や公明党、民主党の多くの議員たちの、日本国憲法の基本原理にかかわる「改憲運動」や、まして「改憲発議」と言う行為を、決して許してはいないのである!!
この99条の「憲法尊重擁護義務」を負うのは、天皇から公務員まで国家権力に関係する人々であって、国民ではない。何故なら、現憲法は、国民が国家権力を監視し権力に法を遵守させる立場にあることを明確にし、権力に関係する者と区別しているからである。憲法前文に言う、国民に由来する権威としての国民主権によって、戦争の惨禍を生み出した「政府の行為」を監視するのが日本国憲法の原理だからである。
2005年11月に発表された自民党の「新憲法草案」は、まず、日本国憲法の原理的記述である「前文」を全面的に削除した。「政府の行為による戦争の惨禍」と言う、軍国主義と天皇制国家主義の破綻に対する歴史反省に基づく、戦後日本の出発点を否定し、「平和的生存権」による「世界の諸国民の公正と信義に信頼した」平和構築に向けて、日本国民の「国家の名誉をかけた」世界への呼びかけを拒否した。
日本国憲法の根本的な原理と理念を根底から破壊しようとしているのだ。平和的生存権の否定は、紛争の解決を武力の行使で行うことを準備する。憲法9条2項を放棄し「自衛軍」(軍隊)を保持するとした。
自民党「新憲法草案」は、国民の権利規定を12条・13条において「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しない様に自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と制限された権利とし、個人が生まれながらにして持つ固有の基本的人権の上に「公益や公の秩序」を置き、国家による国民に対する抑圧体制を準備しているのだ。
現憲法は、法の下で平等であるべき国民の生存権を保障し弱者に対する人権の尊重として、福祉国家への理念を25条で規定する。1項で「全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と、2項で「国は、全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定し、国民の「生存権」と国家の責務を明確にしている。
しかし「自民改憲草案」は、この国民の生存権及び国家の責務を全面的に削除し、彼らは何と25条の国民の生存権を「国の環境保全の責務」に置き換えたのだ!!
非正規労働者が、違法な偽装労働契約によって社会保険逃れと低賃金でこき使われ、明日の労働力の再生産さえ、ままならないにも拘らず、彼らの過酷な犠牲の上に2兆円の利益(例えばトヨタ)を上げる日本の資本家階級は、増大する貧困層を「自己責任」と切り捨て、働く民衆の生存権を蹂躙してきた。
国家もまた、資本家階級と歩調をそろえ、命の綱(生活保護)に頼らざるを得ない民衆を、その窓口で追い返している。安倍自民党は、彼らが現在行っている福祉切捨て政策と、弱者自己責任論を「改憲草案」第25条において実現しようとしているのである。
「自民改憲草案」は、単なる「憲法改正」ではない。
「自民党改憲草案」は、日本国憲法の基本原理である、国民主権、平和的生存権、基本的人権、生存権を悉く否定し、現憲法そのものの全面的廃棄を意図している事はあきらかである。憲法が、国家権力の恣意的な行為から国民の権利と人権を守り、国民に対する責務を実行するものから、国民の基本的人権を制約し、国民に権力の為の義務を強制するものに変質させられようとしているのだ。
これは、国民にとって許すことが出来ない安倍自民党による右からの超法規的クーデターであり、国家主義的ファシズム国家にむかう準備であると言わなければならない。(次号へ続く)
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