キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載 24)
―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―
[第四部] 現代版日本アジア主義の台頭
日本主義とアジア主義の共通性
(原書 200p~204p)
アジア主義が、明治執権層の西洋化=ヨーロッパ化=近代化政策に対する対抗理念として現れた様に、日本主義は、明治時代中盤(1880~1900)西洋化に対する抵抗として頭をもたげた。
それが今日、日本主義と呼ばれる理念の嚆矢(こうし=最初の矢)だ。その後、軍国主義が跋扈した時期である1930年代に登場した日本主義は、‘大正民主主義’と指称される民主主義的思潮とコスモポリタン的傾向に対する反動として形勢を広げ始めた。学者によっては、1930年代の日本主義を、日本のファッショ主義の、また異なる観念形態として規定することもある。
この様に、日本主義が現れた時代的背景と、対抗或いは排斥しなければならない対象とした敵対理念は少しずつ違う。しかし、日本主義が標榜する理念の中枢は同一だ。その同一性は国粋主義の守護と宣揚にある。
日本主義は、主として昔から伝えられて来る日本の伝統的な精神と価値を、日本国と日本社会の基調にしようとする国粋主義を意味する。
そして、国粋と言う言葉の辞書的意味は“物質的或いは精神的な面で、その国特有の長点、国民の特性、国土の状態、歴史の事実などに基づき発展してきたもの”と、定義されている。(≪廣辞林≫三省堂)
従って、日本主義と国粋主義は同義異語だ。
国粋主義の守護と宣揚
日本人が守り通し、志さねばならない日本特有の貴重な精神と価値、それが日本国と日本社会を発展させる宗教経典の信仰対象とも同じ‘日本的なもの’として昇華される時、日本主義は日本イデオロギーに発展する。歴史的には1930年代、ファッショ軍国主義の理念を理論的に支えた日本精神主義が即ち日本イデオロギーの典型となる。
著名な文化史家であると同時に倫理学者として日本の伝統文化を高く評価した和辻哲郎は、清日・露日の二つの戦争を、‘日本民族精神の発揚運動’だと規定した。また司馬は、‘世界の片田舎に過ぎないアジアの小さい国’明治国家が、ヨーロッパの巨人国ロシアに勝った露日戦争で、偉大な明治の‘リアリズム’を導き出し、それを今日の日本人達が誇りにする事を促した。のみならず、司馬は、武士道と呼ばれる‘社会学的美学’‘美学的倫理’の価値を、貴重な日本人の伝統的財産として把握した。これら二人の日本主義者達の共通点は、日本の伝統と歴史から‘日本固有’の価値を探し出し、それを大切に保管して発揚しなければならないと認識した所にある。
ここで我々は、日本主義者達の特徴が歴史依存的であり伝統重視的である事を知る事が出来る。1930年代に、日本主義と日本イデオロギーを批判する論文を相次ぎ発表し、学会の注目を受けたことがあるマルクス主義哲学者・戸坂潤(1900~1945)は、その時代の日本主義を‘国史的日本主義’と呼んだ。
“固有な意味で、日本主義は‘国史’の日本主義的‘認識’に立脚している。日本精神主義、日本農本主義、ひいては(さらには)、日本アジア主義(日本がアジアの盟主だとする主義)が、即ち‘国史的’日本主義の内容なのだ。”
‘国史の日本主義的認識’という言葉は、日本国の歴史の中で‘日本主義的なもの’を探し出し、認識すると言う意味だ。言い換えれば、結論を予め仮定して置き、そこに合う‘日本主義的なもの’を歴史から探し出すのが、日本主義者達が最も容易く利用する方法だと言う言葉(話し)だ。戸坂は、その為に(そうであるから)いろんな形態で現れたあらゆる日本主義は、結局絶対主義に帰着する他はないと結論付けた。
この様に、‘国史’を唯一の拠り所とする1930年代の日本主義の帰着点が、絶対主義だった見た戸坂の分析は、日本主義に対する卓越した解釈だった。その当時、日本国と日本民族を絶対化し、日本人の選民意識を鼓吹させた軍国主義と日本精神主義が、歴史的事実としてその点を立証している。
日本主義と言う名札
司馬は、絶対主義者ではなかった。晩年の司馬は、日本が絶対主義に向かうのは駄目だと警告しながら、日本の未来の進路を‘相対主義’と‘小日本主義’から探す事を促したし、その点で、司馬と1930年代の日本主義者達は差別化される。そうであっても、過去の歴史から日本的な価値を探す、(戸坂の表現を借りれば)‘日本主義的なもの’を認識する司馬史観は、日本主義と言う名札を取り除いてしまう事は出来ない。
司馬史観を、(位牌を扱うように)とても大事に持ち上げ、追従する日本主義者達が、日本国を絶対化する作業を粘り強く広げているのも、彼等が他でもなく、司馬史観の教えに恩恵(利益)を受けたからだ。
戦前の事でも、戦後の事でも、日本を本位に(中心に)すると言う点で日本主義の特質は、岡倉のアジア盟主論と互いに連結されている。
これが、日本主義とアジア主義を考察しながら得た最終結論だ。
さらに驚くべきことは、司馬の同文同祖論と遊牧民族文明論が、アジアの連帯を主唱した戦前のアジア主義者達の観点と同一だと言う点だ。経済大国日本が、東アジア諸国の経済発展を先導すると言う意味を持った‘雁の行列形’の発展モデルや、先に紹介した石原(慎太郎)の‘新アジア攘夷論’は、すべて同じ日本中心のアジア発展、日本中心のアジア連帯を押し立てる点で日本主義の特質を代表すると見る事が出来る。
司馬の場合、アジア連帯、或いはアジア盟主論を主唱するのでは無かった。しかし、日本文化がアジア大陸文明の影響を受けはするが、独自的な様式で発展したのであり、明治以降の日本が、中国文明の‘周辺’で近代文明の‘中心’に入って行ったと見る司馬の観点は、近づくアジア・太平洋時代の日本が、主導的役割をしなければならないと言う論理に延長される素地を内包している。
これが即ち、司馬史観とその史観を継承した日本主義者達の策動に、警戒のまなじりを疎(おろそ)かにしてはならない理由だ。
これと関連して戸坂は、日本主義がその属性上、結局アジア主義として発展する以外にないと言う結論を下した。
“日本主義は、決して、そのままありふれた日本主義としてだけで停滞することはない。日本主義は、東洋主義或いはアジア主義にまで発展する。それはそのまま、ありふれたアジア主義でなく、日本主義の発展としてのアジア主義、言わば日本アジア主義なのだ。”
日本をアジアの盟主とする‘日本アジア主義’は、結局大東亜共栄圏思想として変貌した。60余年前に、はっきりと記録された歴史の事実を、今日我々は如何なる教訓として受け入れなければならないのか?
(続)
(訳 柴野貞夫 2011・1・11)
参 考 サ イ ト
日 本 を 見 る - 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集
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