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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載⑱)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第3部]



自由主義史観とは何か

 

 

(原書 153p~160p)

 

 

 

 

藤岡は、自由主義史観とは何かと言う問いに、それは‘史観自由主義’と呼んでも差し支えないと答えた。この言葉は、ある一つの歴史観に捉われず‘史観から自由な’立場で、歴史を新たに解釈するという意味として説明される。この様な‘史観自由主義’の立場は、藤岡が司馬史観の特徴の中の一つとみなした‘イデオロギーからの自由’と同一の概念だ。司馬はイデオロギーを、‘空虚な定義の体系’として罵倒し排撃した。また、イデオロギーとは‘土木機械’の様なもので、人間をその機械の奴隷にしてしまうと言ったりした。そのため司馬は、‘土木機械’で取り出された歴史では何も発掘出来ないのであり、考古学者達が用心深い手作業で貴重な遺跡を掘り出す様に、‘手で掘り出す歴史’だけが、イデオロギーの呪術に引っ掛からない歴史となる事が出来ると言った。その点で‘史観自由主義’と見ても良いと言う藤岡の‘自由主義史観’は、司馬史観の‘イデオロギーからの自由’を基礎として導き出された概念だと呼ぶことが出来る。

 

 

 

日本中心の日本優先史観

 

 

ところで、藤岡はこの命題から、抜け出してしまわなければならない対象としてのイデオロギーや事情、あるいは理念として、‘東京裁判史観’と‘コミンテルン史観’を選んだ。さらにその二つの史観は、日本と言う国家を悪逆無道な存在として押しやり、日本と言う国家自体を否定し、外国の利益の為だけに奉仕する外来史観であるから、当然歴史教科書から排除しなければならず、その代り、日本の利益に奉仕し誇るべき日本の魂、言い換えれば、輝くナショナリズムを植えつける事が最も切実な歴史教育改革の基本課題と叫んでいる。その点で、藤岡の自由主義史観は日本の国益を優先視する日本中心のナショナリズムとして規定する事が出来る。その場合、ナショナリズムは、民族主義・国民主義・国家主義の特徴を網羅する概念として理解しても差し支えない。藤岡の史観が国益優先史観である事は、彼の次のような発言から明白に露見している。

 

“近現代史を考えるとき、最も1番目に必要なことは、自国の生存権と国益追求の権利を明確に認定する事だ。”

 

藤岡はこの一節に続けて、“その次に2番目として、他の国も同様に、まったく同じ権利を主張する事が出来る主体である為に、個別的な争点に対しては相手国の立場で考察する必要がある。”と明らかにしている。彼はこんな但し書きを付ける事で、形式上では、相手国の立場を考慮し日本の国益を考察することを強調してはいる。しかし実際には、藤岡がそんな立場を守りながら行動しているのかと言えば、そうではない。歴史教科書で、(日本)軍隊慰安婦と南京大虐殺等に関する記述を削除しなければならないと言う彼の主張を当たって見れば、相手国の立場を考慮するという国益追求の均衡感覚は後ろに追いやられ、もっぱら、日本の利益だけを絶対視する日本主義イデオロギーが彼を縛っていることを発見する事となる。これに関しては、従軍慰安婦問題を言及するとき、詳細に批判しようと思う。

 

 

 

第3史観の虚構

 

 

藤岡はまた、自由主義史観が‘第3の史観’だと主張した。これは、日本を侵略者・加害者とだけ描写する‘東京裁判・コミンテルン史観’を排撃する事と同じ論理で、過去日本は一度も間違った事がないと言う、所謂‘大東亜戦争肯定史観’も排撃するのが自由主義史観の立場だと言う意味だ。

 

藤岡は、自由主義史観研究会を組織し歴史教科書改革運動を繰り広げ始めた初期段階では、‘大東亜戦争(太平洋戦争)’の侵略性を否認しなかった。日本近現代史で間違った事もあったことをある程度是認したのだ。その点で彼は、太平洋戦争を正当化しながらその侵略性を否定する保守的な戦前世代また極右派らと、確然と区別される民族主義的な教科書改革派として見なされた。

‘大東亜戦争を肯定’する右翼保守主義者達と区分されると言う点で、藤岡史観は司馬史観と一応(ひとまず)似ていた。

 

軍国主義の昭和時代を否定した司馬は、‘明治日本’と‘昭和日本’を別個の国家、言い換えれば‘明るい明治’と‘暗い昭和’を‘不連続’の別個の時代として取り扱った。即ち、司馬は‘暗い昭和’の歴史が‘明るい明治’の時に生成され現れた事を否定し、二つの時代を断絶してしまう便法的(便宜的)思考方式の下、‘偉大な明治’に対する賛歌を唱えたのだ。

藤岡は同様に、当初には司馬史観の明治―昭和時代の不連続論をそのまま受容し、大東亜戦争肯定論者達と一線を引いていた。しかしその類似性は、自由主義史観と言う看板を掲げた初期段階に局限されるだけだ。その後、少しもしないで、藤岡の隠された正体は、ありのまま明らかになった。

 

 

 

大東亜戦争肯定論へ

 

 

当初藤岡は、≪近現代史教育の改革≫で、‘大東亜戦争肯定史観’を三つの種類に分類した。①意図的な肯定、②状況に依る肯定、③結果に依る肯定がそれだ。ここで①は、植民地のアジア諸国を解放する為の‘聖戦’論などを言い、②は、戦争勃発の原因を他の国の行動に対応する不可避な状況で求める肯定論であり、③は、‘大東亜戦争それ自体に対する評価は控え(引っ込め)、とにかく戦争の結果、アジアのいろんな諸民族が独立した’と見る、‘結果としての解放戦争’を言う。

 

日本の保守主義者達は、この中のどれか一つに基づいて、太平洋戦争を肯定する立場を取る。それに反し、藤岡の当初の立場、即ち‘第3の史観’の立場では、どれによっても太平洋戦争を肯定しなかった。

しかし1996年中盤に入ってから、彼の太平洋戦争観は変わり始める。

文部省が1997年4月から使用される中学校歴史教科書の検定内容を公表した直ぐの頃だ。軍隊慰安婦と南京大虐殺などに関する記述が、初めて新しい教科書に入ることを知る事となった藤岡は、これを削除しなければならないと要求しながら、政治的色彩が濃い教科書の書き直し運動を積極的に広げ始めた。

 

‘大東亜戦争否定’の立場から、‘大東亜戦争肯定’側に急速に傾いて行ったのだ。そのようにして1996年下半期に至ると、‘第3の史観’の仮面の後ろに隠していた‘大東亜戦争肯定’の本性を露骨に顕わし、1997年に差し掛かる時には、最後まで拒否した‘意図的な戦争肯定論’を主唱する言説さえ躊躇しなかった。

 

何年か前、日本人の戦争観に関する卓越した著書を刊行し注目を引いた事がある一ツ橋大学社会学部の吉田裕教授(日本近現代史専攻)によれば、藤岡は<THIS IS 読売>1997年3月号に掲載された対談で、明らかに太平洋戦争を引き起こした日本の侵略性を否定する発言をした。

“私は、大東亜戦争を丸ごと侵略戦争だと規定しません。自衛戦争の側面もあったと考え、殆んどイデオロギーではありますが、アジア解放と言う理念も何処かにあったと見ます。そして、その結果がアジアの民族独立に繋がったと考えます。即ち多様な側面を持っていたのです。”

藤岡が、戦争の多様な側面を強調しながら言及した“アジア解放と言う理念もあった。”と言う評価は、すなわち‘聖戦論’であり同時に‘意図的’な、戦争肯定論だった。

この対談前だけ言っても、藤岡が太平洋戦争を肯定したものは、②の状況論と③の結果論に立脚していた。しかし、事実‘聖戦論’までは叫ばなかったが、それ以前にも既に藤岡の仮面は剥がれていた。

教科書改革運動の同伴者である西尾幹二と共著で発行した≪国民の油断―歴史教科書が危険だ≫とか、≪現代教育科学≫1996年10月号に載せられた<論争:近現代史教育の改革7>などで藤岡は、‘第3の史観’の正体を暴露し、太平洋戦争を肯定する変身の姿を見せた事がある。彼は19世紀末葉と20世紀初めに跨ったロシアの脅威を強調することで、明治日本の膨張政策を正当化するだけでなく、中日戦争はコミンテルンの‘挑発’として、太平洋戦争は米国の‘挑発’として規定し、状況論に立脚した戦争肯定論を弄した。そうであるかと思えば、“日本の東南アジア戦争が、結果的にその地域の国々の独立に貢献した言う事実認識を最初から持っていた”と明らかにした。これは結果としての戦争肯定論だ。

 

こんな言説らを通して太平洋戦争肯定論をさらけ出した藤岡は、‘アジア解放’と言う‘聖戦論’まで認めることで、自身が分類した‘大東亜戦争観’の3種類の範疇すべてに縛られる事となった。彼の聖戦論は‘結果が良く現われたとしても、その原因が正当化される事はない。’と言う吉田の論駁に屈服することで完全に露出されてしまった。吉田が‘結果逆算方式による歴史解釈’が不当なものである事を指摘するや、藤岡は、‘アジア解放’の理念もあったと言ういいかたで太平洋戦争を正当化した答弁をしてしまったのだ。

 

 

 

日本主義イデオロギーで、‘脳内革命’の試み

 

 

今これ以上、藤岡がイデオロギーから自由な立場で、自由主義史観運動を広げることがないと言う事実は明白となった。彼は明らかに明治―昭和時代を含んだ日本近現代史を肯定する日本主義イデオロギーの下、歴史教科書書き換え運動を広げている。即ち、藤岡とその追従者達は、ナショナルアイデンティティーを探そうとする日本人の頭の中に、日本主義という偏狭で自己中心的なナショナリズムを注入する‘脳内革命’を意図したのだ。歴史認識の新しい観点を頭に注入させれば、日本近現代史は‘明るい明治’の様に、栄光の歴史として変身するだろうと言うのが藤岡式の‘脳内革命’だ。

藤岡グループは今、過去の間違った点と嫌な点を、現代日本人の記憶からすっかり消してしまおうと言う‘記憶との内戦’(在日政治学者・カン・サンジュン東京大学助教授の表現)を、今展開している。無論歴史的に‘あった事’を‘なかった事’として消してしまう彼らの記憶抹殺戦略が、究極的に成功するとは思えない。しかし、繰り返す事が出来ない確実な失敗として判明されるまで、彼等はどんな作戦を駆使しても粘り強く歴史の記憶に挑戦するだろう。藤岡グループのそんな挑戦は、現段階ではたとえ一部に局限されているとしても、多くの日本人に呼応を得るだろうからだ。

藤岡グループを、支援したり同調する同盟勢力の分布を調べる前に、藤岡グループとその同盟勢力が粘り強く試みた途中、一旦挫折した1996~97年、‘従軍慰安婦’問題の歴史教科書記述削除運動の始末を探って見る事としよう。ここで、‘一旦挫折’と言う表現を使ったのは、彼らが文部省の中学校社会科教科書検定結果を覆す事は出来なかったが、未だに慰安婦記述削除を貫徹し慰安婦に関する教育を中高等学校で除去しようと言う運動を、根気強く広げている為だ。




(訳 柴野貞夫 2010・9・19)

 

 

次回予告

 

「‘従軍慰安婦’記述削除運動」





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