(キム・ヨンボム著、「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、
日本語訳連載G)
<その8>
(77p〜82p)
○日本国家の帝国主義的利害を奪取するため、事もあろうに他民族の領土の中に「利益線」を設定し、それを「守るため」に軍事力を行使した帝国主義戦争=「日露戦争」。それを司馬は、「祖国防衛戦争」と正当化した。
○(朝鮮)民族の自主独立と(日本をはじめとする)外国勢力の排撃を叫ぶ東学党農民軍を、「日本国家の利益線の守護」の名の下に残酷に鎮圧し(1894年),朝鮮朝廷の(日本に対する)撤兵要求を無視した明治日本を、司馬遼太郎は「栄光の明治」と称賛してきた。
(司馬は、その歴史物語の叙述で、日露戦争の残酷な事実よりも日本軍の対露勝利を称賛し、その軍事技術の事細かな描写を好み、東学党の蜂起については全く触れないか,まったくの無知をさらけ出している。―訳者注)
第2部 再び明治の栄光を
―司馬遼太郎史観、その日本主義の正体―
論理を現さない、巧妙な話術
司馬の‘露日戦争=祖国防衛戦争論’を本格的に批判する前に、相当な説得力があり、巧みな司馬の話術と話の展開法に関して、少し言及する必要がある。この点を予め明らかにする事こそ、司馬の露日戦争礼賛論に感動する多くの読者たちが、そうであるにも拘らず揺れ動く事が出来ない厳然たる現実、即ち司馬が明治国家を称讃するとき、楽しげに使用した明治のその冷情なリアリズムに、帰ってくることが出来る為だ。
一部では、司馬が論理的な作家でないと評価されることもある。
平素近くで過ごした人たちに、司馬は、“論理が強くなれば傷つくならわし”と言う言葉をたびたび語ったと言う。司馬と近い間だった大阪のカン・ジェオン(姜在彦)教授もそんな話を伝えてくれた。しかしこれは、彼の小説と多くの評論、そして数多い講演を含んだ司馬の話の展開が、整然とした論理体系の中で日本の歴史を語らなかったと言う意味にすぎず、彼が非論理的な作家だと言う意味では決してない。
彼は、まことに巧妙な話術を駆使する卓越した語り手だ。他人の気分を損ねず、いつの間にか味方に、それとなく引き込むこの天才的な語り手の巧妙な話術に対して、太田昌国は次の様に語った。
“司馬の世界は、矛盾に満ち溢れている。彼には、きのう或る問題に対して‘A’だと発言したとしても、まったく同じ問題に対して、今日は‘反A’だと語る様なたぐいが、極めて自然な事である様だ。それを出鱈目とか、節操が無いと言ってしまうのは余りにも単純だ。
対人関係で決して攻撃的でない彼は、特に対談や座談では、相手方の発言によって自身の立場を微妙に修正して行きながら話を展開する。司馬が、歴史と文学と政治に関し、価値観が全く異なる人々と座談しながらも、鋭い対立と葛藤を引き起こさないのは、こんな性格から起因するようだ。司馬の発言に正誤表を作り、これはこうだ、あれはああだと批判しても、恐らく彼は、それとなく姿勢を取り換え、泰然と対応するのだ。どんな断定も嫌い、結論もはっきり語らない司馬のスタイル、即ちその点が読者達に彼の‘主張’を伝達する方式だと言う批判もある。”と。
特に露日戦争に関する先の引用文の中で、司馬が“当時の明治としては”とか、“当時の日本の立場”と言う表現法を使ったことに注目する必要がある。ちらっと、「当時の日本人としては露日戦争を‘祖国防衛戦争’として見る他はなかったが、今の日本人は他に解釈する事も出来る」と言う式に、解釈し易い表現だ。
司馬にとって、これをそんなやり方で言葉を取り換える可能性も無いことも無い。司馬の、伸縮性あって柔軟な話術と、話しの展開法で見れば、決して不可能ではない。
しかし司馬の真意は、最後まで露日戦争を‘祖国防衛戦争’として見る事にあるのを見過ごすことはいけない。もし、司馬が現在の時点で露日戦争を日本の侵略戦争として認識したのなら、かれは当然、自身のそんな歴史認識をはっきりと語調に明らかにしなければならなかった。しかし、司馬は絶対にそうする事はなかった。“今になって振り返って見ると、露日戦争は韓半島を争取するためにロシアと争った侵略戦争だが、訳はどうであろうとも、当時の明治の人々としてはロシアの脅威を現実的なものとして信じ、祖国防衛戦争をしたのだ。”司馬がこの様に言えば、今まで日本人の間で公認された<坂の上の雲>の燦爛たる光と明治の栄光は、その根底から崩れてしまうはずだからだ。
明治の目標は、韓半島の植民地化
繰り返すまでもなく、露日戦争は韓半島を植民地化するために、日本が19世紀末葉に確立した基本外交戦略により遂行した侵略戦争だ。明治初年以来、日本が追及してきた基本外交戦略であると同時に目標は、強大国と結んだ不平等条約を改定し韓半島を植民地化する事だった。
この二大目標の中で、韓半島獲得のための明治政府の戦略理論は、幕府末期時から持続的に開陳されてきた征韓論に、その土台を置いている。日本の利益のために、韓半島を征服しなければならないと言う征韓論は、明治初期にも支配権力層の内部で提起された。そんな征韓論が外交戦略として具体化されたのは、清日戦争(日清戦争)が起こる4年前である1890年だ。現在までに暴露された文書記録は、その様に明らかにしている。
当時の内閣総理大臣・山形有朋が、作成した日本外交・軍事問題に関する意見書を見れば、‘国家独立自衛の道’は、いわゆる「主権線」と「利益線」を設定し、これを守る事で理論化されている。この外交戦略書は、日本が何のために清日戦争と露日戦争を引き起こしたのか理解するのに、極めて重要な文書であるので、正しく見極める必要がある。
主権線と利益線
主権線と言うのは、日本の領土を言う。従って主権線を守ることに対して異論はあり得ない。問題は、「利益線」と言う見せかけの概念にある。利益線は、日本領土と隣接する地域として、日本本土の“安危と、緊密に連関されているところ”だと、定義されている。そこは他でもなく(日本領土ではなく)韓半島だ。
利益線と言う概念をよくよく噛みしめてみれば、極めて曖昧であるだけでなく、至極日本中心的で主観的な思考方式の産物であることを知ることが出来る。日本本土の安全と緊密な関係にある為に、‘利益線=韓半島’を確保し守らなければ駄目だと言うこの論理は、循環論法に過ぎない。利益線を確保しない本土の安全を確実に保証する事が出来ないので、利益線で“各国が行うことが、仮にでも我々に不利な時は、我々が責任をもってそれを排除し、道理がない場合には武力を使用し、我々の意志を達成する。”これが当時の日本の支配者たちの確固とした方針だった。
ところで、今日の、米・日防衛協力指針(ガイドライン)でも、利益線位曖昧な‘周辺地域’と言う概念が言及されている。この指針で、自衛隊は‘周辺地域の有事時’に米軍を後方支援することとなるので、その‘周辺地域’の概念に対し、日本政府は“それは、地理的概念ではなく日本の平和と安全に深刻な影響が及ぶ事態が発生する地域”だと公式的に表明した。
“本土の安危と緊密な相関関係があるところ”と言う意味の利益線と、20世紀末の“周辺地域”の概念がどれほど類似するのか、現在の日本政府の思考方式が、108年前の政治指導者のそれと、殆んど同じと言う事に驚かざるを得ない。
その概念が理知に適うかどうかの間に、明治の日本はそんな思考方式の下で韓半島を自身の影響力の下において、そこに利益を掠め取ろうとする政策を激しく推進してきた。これは否定する事の出来ない歴史的事実だ。そんな政策を推進した中、山形が言ったように、武力を行使してでも、韓半島を守らなければならないぐらい利益線の問題が切実となったのは、ロシアのいわゆる‘南進の脅威’の為だと言う。
清国との戦争で勝つことで、韓半島に対する支配権をある程度確保した日本は、ロシアがシベリア鉄道を完成する事となれば、韓半島まで進出するだろうと仮定した。そして、ロシアが韓半島まで進出すれば“我々(日本の)對馬諸島の主権線は、頭の上に刃を突き付ける形勢”になると、予め推量した。こんな事態に対応しようとすれば、どうしなければならないか、山形は利益線を守るためには、陸・海軍の軍備を増強し万一の事態に備えなければならず、それと同時に英国・ドイツ等韓半島の中立に利害関係がある国をそそのかし、“東洋共同利益の範囲内に連合”させなければならないと考えた。同様に、その様にし
て日本の独立と安全を確実にしようとすれば、少なくとも20年にまたがるので、日本人は‘臥薪嘗胆(がしんしょうたん)’し、一致団結して努力しなければ駄目だと強調した。
そこで山形が言った利益線、即ち韓半島の確保問題を中心として作られた日本の対外政策は、その予想よりもはるかに早く達成された。
1894年清日戦争で勝利する事で、韓半島で事実上支配権を掌握する事となった。しかし日本はここでとどまらず、台湾を植民地にしたのであり、ひいては、海の向こうの中国本土・福建省にまで勢力を広げようと企図した。こうなれば日本は、否定する事が出来ない帝国主義国家となったのだ。
同様に、利益線の守護と言う仮面の下で、民族の自主独立と外勢排撃を叫ぶ東学党農民軍を鎮圧した(1894年)日本が、朝鮮朝廷の撤兵要求を無視した事も弁明の余地がない帝国主義的行動だ。
(次に続く)
(訳 柴野貞夫 2010・3・6)
参考サイト
○「日本主義者の夢」@〜F
○07年2月2日更新
☆ 歴史を学ぶ視点について
○7年1月30日更新
☆ 日露戦争の世紀(著者 山室信一)を評する!!
○☆ 174 《<雲揚>号事件と<江華島条約>に、光を当てた強盗的蛮行》 (朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞 2009年7月2日付け)
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