(キム・ヨンボム著、「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、
日本語訳連載F)
<その7>
―司馬遼太郎の歴史観を糺すー
○司馬史観は、転換期の歴史の入り口で、日本人のナショナリズムをひときわ高揚させる‘舵とり’の役割をしている。
○それは、日本資本主義の危機に国民を動員し、企業と国家の危機突破の教科書として利用されている。
○司馬は、「ロシアの脅威」と言う客観的根拠に乏しい論拠で、露日戦争を「祖国防衛戦争」と規定し、称賛する。
○司馬は、西欧列強の序列に入った日本国家による、帝国主義諸国家間の利益獲得争奪戦争に過ぎない露日戦争を、「偉大な防衛戦争」と合理化し、極東アジアの植民地政策を正当化した。
(本文より)
(以下本文)
第2部 再び明治の栄光を(39p〜112p)
―司馬遼太郎史観、その日本主義の正体―
司馬人気の秘密 (本文69p〜73p)
司馬の小説が人気を集める秘訣に対して、日本の評論家達は、司馬の小説が登場した時点とその時の時代の潮流を関連させ指摘した。これは、彼の二つの代表作が人気を享有した1960〜70年代、日本人達が何を考え、何を渇望したのかと深い関係がある。
<坂の上の雲>は、<龍馬が行く>が青年学生達の‘精神的飢餓感’と渇きを快く充足させてやり人気を集めた後その土台の上に登場した
<坂の上の雲>が、いちばん最初に<サンケイ新聞>に連載され読者の前に公開されたのは1968年であり、新聞連載が終わったのは1972年8月だ。そのひと月後、すべてで六巻となった単行本(文庫本は8巻となっている)が完刊されたが、本が出るや否や<坂の上の雲>の人気は、天を突き勢いとなった。間もなくベストセラーの目録に上り、継続して粘り強く売れて行った。
坂本龍馬が夢と希望、誇りと情熱の象徴として、或いは幕府末期の英雄として登場したとすれば、<坂の上の雲>は、<龍馬が行く>が構築した人気の土台の上に、誇りとした過去日本の姿をあまねく知らせる伝道師として現れたのだ。
‘日本ナンバーワン’の自負心
広く知られている様に、<龍馬>の新聞連載が終わった次の年、1973年は、原油価格が急騰し石油危機が起こった年だ。第4次中東戦争で引き起こされた全世界的な石油危機は、米国・欧州と日本など先進工業諸国は無論のこと韓国の様な開発途上諸国の経済も大きく揺り動かした。ドイツとともに‘戦後の奇跡’を引き起こした国として功績を讃えられた日本が、石油危機で受けた打撃はどの国より大きかった。
石油価格の高騰によるインフレは、‘狂乱物価’と言う言葉が流行するほどで、買占め売り惜しみ・便乗価格引き上げなどと重なりながら加速し始めた。日本人達は、インフレ・不況・国際収支の赤字を、当時の石油危機が追い込んできた‘三重苦’だと呼んだ。このときの後遺症が1978年まで継続されたと言う見解もあるが、大部分の日本人達は90%を超える原油供給を中東地域に依存する無資源国家であることに対しても、国民・政府・企業の3者協力による生存戦略を講じた末に経済危機を賢明に克服したと自ら評価している。日本は当時経済と企業の体質改善を断行して、1978~80年の第2次石油危機時には、すでに十分な対応能力を整えた。
ところで、これとは対照的にベトナム戦争の泥沼に深深とはまり、身をもがく米国の姿は、そのころ日本の目には、苦境に嵌ったものとして映った。国際基軸通貨としての、ドルの揺れ動く地位が象徴するように、米国の地位は国際政治と国際経済の両面で揺れ動いていた。
そして、ベトナム戦争が終わる1975年に至ると、戦争の敗者である米国は、これ以上日本の師と成ることは出来なかった。その時まで、米国だけ信じ米国式方式を追従した日本の企業経営者達の中では、`日本型経営体制が、けた外れに優秀だ’と言う自負心が漸次強まり始めたし、1970年代末に来ては、ハーバード大学のエズラーボーゲル教授の≪ジャパン イズ ナンバーワン≫での様に、‘日本ナンバーワン’が躊躇なく主唱された。米国の安保の傘の下で、経済大国の位置に上った日本は今、米国と完全に異なる日本型システムをつくるのに、成功するものとして、これ以上米国には学ぶことはないと言う慢心を持つこととなった。今日本経済は、米国の恐ろしい競争相手となったのだ。
危機克服の教科書
一大転換期を迎えた1970年代中盤期、日本の経営者達は、この様に問い始めた。
‘一体全体米国は何をしているのだ?’
その頃、<フォーチュン>誌の日本語版を出す米・日合作会社で仕事をしていた作家、諸井薫が語った言葉は示唆するところが大きい。
日本経営者達の間で、“‘米国は一体全体何をしているのか?’と言う疑問が年ごとに高く成って行くのを、皮膚で感じた。”
諸井はまた、この様に語った。
“それと軌をいつにして、もっぱら米国だけ追従しようと、自国の歴史を振り返る余裕がなかった日本の高学歴のビジネスマン達の間で、日本の近現代史に対する関心が高まって行った。”
こんな思潮の変化を考慮して、<フォーチュン>の日本語版で、編集方針を近世日本の再点検に置き、その具体的な方法論として歴史もの大特集を企画した。
司馬の<坂の上の雲>は、この様に、危機を克服して行く転換期の日本が、次々活力と自信感を持つ事となって、それと合わせて、近現代史に対する関心が高められていく中で、日本人の渇きを解消させてくれる一つの器の泉水となった。そうして、<龍馬が行く>と一緒に、すでに1972年に上昇の形勢を打ち始めた<坂の上の雲>の人気に加速度がついた。明治の‘代表的人間’たちが、乱世に透徹したリアリズムと現実感覚で国家の危機を克服して行く過程を盛った小説<坂の上の雲>は、オイルショックによる経済危機を克服する教科書として活用された。日本の経営者らは、<坂の上の雲>に描写された露日戦争の‘奇跡の様な勝利’で経営危機を克服する知恵を学び始めたのであり、ついに<坂の上の雲>は、企業人達の経営哲学の教科書となった。
それだけでなく、政治家たちは、国家経営の原理と方法を会得する道として、また組織に忠実な‘会社人間’達は、組織を生かし立身出世する方案として、<坂の上の雲>を読まなければ駄目だと考えた。
<坂の上の雲>は、そんなやりかたで相乗作用を引き起こし、現在まで確固不動の地位を確保したようだ。そして、今もその人気が相変わらずなのは、日本人達が、司馬史観の中に21世紀の日本が指向しようとする道が盛られていると信ずるからだ。この様に、1960年代高度成長時代には若者達に夢と希望を植えつけ、日本型システムの優秀性を誇った1970〜1980年代には、過去の歴史から日本人の自衿心と誇りを発掘する歴史的眼識を開いてやった羅針盤としての役割を着実に遂行した司馬史観は、21世紀を迎える現在 転換期の歴史の入り口で、日本人のナショナリズムをひときわ高揚させる舵取りの役割をしている。
露日戦争、果たして‘祖国防衛戦争’なのか?!(74p〜87p)
司馬は、彼自身が‘異常な国’と規定した‘暗い昭和’を除外すると、言う、もともと日本の近現代史を楽観的な立場で解釈した。
このために、彼が書いた歴史小説、彼が説明する近現代史の話では、日本の‘明るい面と誇らしい面’だけが浮き彫りにされた。
露日戦争を扱った小説<坂の上の雲>もそうだ。
そして、明治時代を開幕した多くの歴史的人物たちの群像と明治と言う国民国家の建設過程を、小説技法で記述しながら論評をした<明治と言う国家>で、讃辞の記録で満たされている。
無論<この国のすがた>の様なエッセイ集や講演録では、軍国主義の昭和時代の、恥部と暗い面を辛辣に批判することもするが、司馬は基本的には、日本の歴史を作ってきた日本人に敬意と信頼感を抱き、彼らを評価する。その最も顕著な例の中の一つが、<坂の上の雲>で描写された露日戦争だ。
“ロシアにあっては、単純な侵略戦争の延長線上に起こった煩わしい性格が強いが、日本としては、弱小国家の為に国の存亡をかけた国民戦争である他はなかった。元老達は、戦争を回避しようとした。いずれにせよ、日本は別途の文明体系に転換して以来、30年たった後、その能力を試験する他はなかった。それが露日戦争だった。”
‘文明国家の能力試験、祖国防衛戦争’
司馬は、この様に露日戦争をロシアの南進政策に対抗するため、文字通り、‘不可避に、弱小国家として立ち向かった国民戦争’であるとともに、同時に‘文明’の国民国家として誕生してから幾ばくもない、新生日本の能力を試験した、‘文明能力の試験戦争’だと規定した。この様に規定された露日戦争は、当然にも‘祖国防衛戦争’として帰結される。
“例えば、戦争をしないと言う選択をする事も出来る。しかし、そんな場合、ロシアが朝鮮半島に進出し、日本の目前にまで近付いて来て、遂には日本に押し迫るとも我慢して(戦争をしないで)耐えることができたのか。万一耐えたとすれば、国民的気力は消えてしまったのではないか。こんな気力が無くなってしまえば、国家は消滅してしまうと言う事ではないか。−今なら消滅しても構わないと言う見解が出るかも知れないがー当時は国民国家が成立されたあと30余年しかならなかったし、新生国民であるほど、自身と国家の関係以外に自分を考えることが困難だった。そうであるから、明治の状況で露日戦争は祖国防衛戦争であったと言う事が出来る。”
ロシアの日本脅威論
要するに、‘祖国防衛戦争’と言う司馬の露日戦争称賛論は、‘ロシアの韓半島進出=日本安保脅威’と言う公式が前提されている。即ちロシアの韓半島進出は、火を見るより明らかな事であり、それは必ず日本と言う国家の消滅に繋がる為、自己と国家を一体化する新生国民としては、到底、耐えて我慢する事が出来ないと言うことだ。そうであるから、不可避に西洋の強大国ロシアに対抗し、争う他になかったと言うのが司馬の論理だ。
ロシアの韓半島進出と言うのは、前提自体も客観的根拠の上に成り立ったものでない上に、たとえロシアが韓半島に進出するとしても、どうしてそれが、直ちに日本の脅威に繋がるのか、そのわけをはっきりと知る事は出来ない。当時の日本支配層がそのように考えたとしたら、それは支配層の誤判だ。さらに、当時の状況をいま新しく考えて見ても、ロシアの脅威を懸念する以外にないと解析すると言うなら、それは、もっぱら間違った司馬の歴史理解だ。
そうであっても、司馬は死ぬ2年前まで、一貫してロシアの脅威論を弄した。1994年12月、陸上自衛隊幹部学校で行った講演でも、ロシアに対する恐怖が描写された。
“ロシアの本質は膨張にある。ロシアはヨーロッパでも膨張し、アジアでも膨張しようとする・・・。当時日本では、朝鮮がロシア領となることもあると言う恐れが湧き上がった。万一そのようになれば、それは、寝て覚めて見たら横腹に匕首(あいくち)を突き付けたような驚くべき事だ。こんな恐怖を理解出来なければ、当時日本の立場を知るのは難しい。”と。
露日戦争に対する司馬の性格規定を長ったらしく思うほど引用したのは、その程度の理由があるからだ。さほど論理的でない事で知られた司馬が、露日戦争については極めて明確な語調で首尾一貫して性格規定をしている為だ。
<坂の上の雲>が大ヒットし、日本全域がことごとく司馬の称賛の熱い熱気であふれた1970年代中盤は言うまでもなく、1980〜90年代に入って来ても司馬は機会あるごとに、いわゆる‘祖国防衛のための国民戦争’の不可避性を強弁した。
西欧帝国主義の順列に上った日本国が、ロシアを奇襲攻撃し繰り広げた帝国主義国家間の利益確保・争奪戦争が、どのように(司馬が主張する様な)‘偉大な祖国防衛戦争’へと化ける事が出来るのか?
司馬を好む人々の為であっても、この点は必ず究明されなければならない。
(次につづく)
(訳 柴野貞夫 2010・3・1)
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