この文章は「ニイハオ」(74号)という機関誌に掲載したものです。
度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐(魯迅) 矢崎 千坊
【紹興・咸享酒店の思いで】
その時、魯迅の「故郷」紹興を訪れたのは二度目だった。一回目は高校生達十数人を連れて「魯迅の故郷を訪ねる旅」の訪問だった。魯迅の「故郷」「藤野先生」は教科書にも載っており、何度も子供達と読み、その度、私は感動を新たにしていた。
1881年〜1898年、1910年〜1912年に魯迅が住んだ故居や、十二歳〜十七歳まで学んだ塾、「三味書屋」、「博物館」の辺りを一人で歩き回った。夕方「孔乙己」の舞台となった、有名な酒場「咸享酒店」に入り、名物の臭豆腐・回香豆を肴にうま酒、勿論紹興酒を飲んで好い気分に酔い、私は「孔乙己」となった。
飲んでいるうちに前のテーブルにいる中国人老夫婦と目が合う。旦那の方が「こっちに来て一緒に飲まないか」という。
私はつまみと紹興酒をもって移動する。話をしているうちに分かってきたのだが、彼らは中国東北部(旧満州)の鞍山に住んでおり今、旅の途中だという。旦那は鞍山の炭坑を、奥さんは小学校の教員を定年退職し、中国国内のあちこちを夫婦で旅行して回っているのだという。
旦那はがっちりした体格で、かつては有能な炭坑労働者であったろうことを思わせる。しばらく当たり障りの無い話をしているうちに彼は紹興酒が大分回ってきたようだ。
私に、
「昔、俺達は日本人にひどい目にあった。だから、日本人は嫌いだ」という。
奥さんが旦那の肘をつついて、やめなさい、と合図をしている。
私は密かに、「あんたの持っているそのカメラは日本製だぞ。日本が嫌いなら、そんなカメラ持つなよ」と思いつつも
「日本の中国侵略は、私個人としては生まれていなかったので、責任はない。しかし私は、侵略は国家のなせる犯罪とは言え、父や祖父達の世代はとんでもないことをしでかしたものだと思っている。何よりも同じ日本人として恥ずかしい」と言うと、彼は杯を置き、やにわに私の前に手を突き出してきて握手を求めて来た。
うち解けた私たちはしばらく差しつ差されつ会話と紹興酒を楽しんだ。夜も大分更けてきたので握手をして老夫婦と分かれた。
私の泊まる安ホテルまでブラブラ一人で歩きながら、彼ら老夫婦はもう死ぬまで日本人に会って、話をすることもないだろうなぁと思う。私はささやかな庶民外交ができたのかな、とも思う。
魯迅がもし日本人で今生きて私の立場なら、こんな時はどう応対したかなぁ、などと考えながら火照った身体を醒ましながら歩いていると、にわか雨が降り出す。軒を借りた小さな雑貨屋の主人と世間話などをしながら雨が小止みになるのを待ってホテルに帰った。
魯迅は「藤野先生」で、心が挫けそうになった時は、裏に惜別と書かれた先生(仙台の医学専門学校の解剖学教授)の写真を見ては、心を奮い立たせた、と書いている。
私は大分前、上海の魯迅博物館で買った小さな陶製の魯迅のレリーフを机の前に飾り、時々魯迅を思う。
筋金入りの怠け者の私は魯迅を読むと、ドーパミンが滲み出し、私の怠惰な心を叱咤激励する。「人生双六」のゲームを早く切りあげ、安楽の「上がり」に早くたどり着きたいと思う私を、「未だまだやり残している事があるだろう、この未熟者めが!」と、スタート地点からサイコロを振ることを命じる。
【紹興・三味書屋の思いで】
紹興が好きで(紹興酒が好きで、と言っても良いのだが・・)もう何回も訪れているが、その時は四度目の訪問だった。
私は三昧書屋の机に彫った魯迅の「いたずら書き」を又見たいと思い訪れたのだった。
魯迅少年は小刀で自分の机の右下の角に「早」と言う字を刻んで修業時代の座右の銘としている。
魯迅少年の周家は士大夫の家柄だったが、周家は当時没落寸前だった。小説「故郷」は、没落した先祖からの家、周家を始末するために故郷の紹興に戻り、少年時代を懐かしむ。しかし当時の中国は日本を初め列強に蝕まれ、国内も混乱し人々は希望を無くしていた。そんな状況に絶望しながらも次世代に希望を託す、と言う物語だ。
「故郷」の最後は、希望とは道のようなものだ、歩く人が多ければ道ができる、と結んでいる。
魯迅は現実の中国社会を嘆き悲しみ、絶望しつつも一筋の希望の道を探求し文学によって人々に道を指し示し続けた。新時代の生みの苦しみを体現した人物と言えようが、そこには時代や国境を超えた真実がある。
振り返って現代の日本の社会状況を見てみると暗澹たる思いにとらわれる。家庭や学校は本来のあるべき姿から遠ざかり、先生と生徒の信頼関係は崩壊し、親が子を殺し、子が親を殺す。役所や会社の組織は総ぐるみでその社会的役割をかなぐり捨て、効率優先・利益優先に走る。私には日本社会のあらゆる場面でモラルハザードが広く深く進行し、日本の行く手には大きな砂漠が広がりつつあるように思われる。