知って下さい東京大空襲
    絵・文 河合節子
    ちば・戦争体験を伝える会作成

 

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菜の花畑って歌 
知っていたら一緒に歌ってください。
♪菜の花畑に 入日うすれ
 見渡す 山の端(は) かすみ深し
 春風 そよ吹く 空を見れば
 夕月 かかりて 匂い 淡し

この歌は 私が小学校一年生の時
いとこのお姉さんが教えてくれました。
その頃 日本は戦争をしていました。
私たち家族は 東京下町に住んでいましたが
爆弾が たびたび落とされるので
疎開することになりました。
それで
私だけ一足先に 茨城のおじの家に預けられました。
その時 教えてもらった歌です。

 

A
昭和六年 日本は中国で戦争を始めました。
ロシア・イギリス・フランスなどの中国侵略の列に加わり
中国内での権益の拡大と、広大な農地を求めたのです。
私が生まれた昭和十四年に
ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まり
その二年後 昭和十六年には
日本は連合国に戦争をしかけ
太平洋戦争となりました。
四方八方を敵に回した日本は 
次第に追いつめられていくのですが 
その頃の日本人は 
「日本は神の国だから絶対に負けない」と教えられていました。
翌年にはアメリカ軍の空襲が始まり
昭和二十年になると 
それが度重なるようになりました。
空襲を知らせるサイレンが鳴ると
3歳の弟に靴をはかせ 防空頭巾をかぶせて 
一緒に防空壕に逃げ込むのが私の役目でした。

B
東京を脱出することになった私の家族は 準備の足手まといになる私を先に
茨城県中部にあるおじの家に預けました。
二歳と三歳の弟は 母から離れられなかったのです。
ある夜 おじの家から見た東京の空は
あかあかと美しく 輝いていました。
昭和二十年三月十日の未明のことです。
この時 東京は 米軍機330機から
雨のように大量の焼夷弾をふり注がれたのです。
下町一帯は 炎の地獄となりました。
次から次へ 空一杯に襲ってくるB29
二時間半で 百万人が家を失い 逃げまどい十万人が殺されたのです。

 

C
東京の空が輝いていた意味を 
私は 知りませんでした。
その後 
父の友人が 東京の様子を知らせに来てくれました。
大人たちが泣いている訳を 私は知りませんでした。
その四月 おじに手をひかれて
茨城の小学校 当時の国民学校一年生になりました。
そして 七月ころだったでしょうか。
包帯をグルグル巻きにした 
ミイラのような姿の父が 私を迎えにきました。
この時 やっと私は 母や弟たちが
もういないのだと悟ったように思います。

D
父の火傷の傷は
まだジクジクしている状態でしたが
父の実家のある愛知県に
移ることになりました。
まだ戦争が続いていたので いつ飛行機が襲ってくるかわかりません。
汽車をいくつも乗り継いで
川を渡る鉄橋の枕木を 
おそるおそるまたいで歩いたり
知り合いの家に 一晩泊めてもらったり
困難な旅でした。
途中 大雨にあって 
増水した川で 私が流されそうになった時
包帯グルグル巻きの父が 必死で助けてくれました。

E
やっとたどり着いた父の実家ですが
四世代同居 子だくさんの貧しい農家です。
父は 私を預けて 東京へ帰って行きました。
名古屋の空襲で焼け出されたおばの家族と一緒に
牛のいなくなった牛小屋で暮らしました。

八月十五日 晴れた暑い日でした。
大事な放送があるというので 
近所の人も集まって ラジオを聴きました。
やっと 戦争が終わりました。
日本は負けました。
絶対に負けない神の国ではなかったのです。
一年生の私は わらぞうりを履いていました。
同じくらいの歳の子どもたちと一緒になって
川で魚をとったり 
田んぼで いなごを捕まえたりしました。
これは 当時 大事な食料でした。

 

F
その一年後
住まいと仕事を得た父のもとに引き取られ
千葉市での 二人の生活が始まりました。
それはそれは貧しい暮らしでしたが 
たいして苦にはなりませんでした。
父と手をつないで街を歩けば 
顔中ケロイドの父とすれ違う人は 
みんな振り返ります。
耳たぶは 熔(と)けてなくなり
まぶたや唇は ひきつれて外側に反り返っています。
その頃 道は舗装されていないので 
ちょっと風が吹けば砂ぼこりが立ちます。
眼をつぶれない父は 
飛行機乗りが使うゴーグルをつけ
耳たぶも無く ゴムひもで止めるので 
余計目立ちます。
私は 振り向いて 
にらみ返しながら歩いていました。
こんな父に 何か文句があるのか! てね。

G
父の傷は 外見だけでは ありませんでした。
妻や子を 守ってやれなかったことを
生涯 くやみ続けました。
毎晩のように 何百回も
火の海の夢に うなされていました。

H
二時間半の 無差別爆撃の下で
白骨になるまで火に焼かれたり
真っ黒な遺体となって幾重にも折り重なったり
火に追われて 隅田川や 中小の川
プールなどに逃げて 溺れたり 凍死したり
十万人もの人が 死んだのです。
そんな中で 
父は気を失っているところを助け出され
聖路加病院に運ばれ 更に東京郊外の清瀬療養所へ
トラックに積み込まれて 運ばれました。
当時を知る人の証言では 到着した時には 
半数くらいの人はもう生きていなかったそうです。
父は あまりの苦しさに
「殺してほしい」と訴えたこともありましたが
娘の私が生きていることを 強く意識して
生き延びてくれたのでした。

 

I
幸いにも 
私は ひとりぼっちにならずに済みましたが
家族がみんな死んでしまって
孤児になった人は たくさんいました。
東京だけでも 三万五千人以上と推定されています。
「防空の邪魔になる」とか
「次の世代の戦力となる子どもを空襲から守る」
という理由で 
東京の子どもは三年生から六年生まで
先生とともに親もとを離れて 
地方のお寺や旅館で集団生活をしていました。
「学童疎開」といいます。
家族がみんな死んで疎開先に取り残された子
卒業式のために東京に戻って空襲に遭い
家族の中でただ一人助かった子
この子どもたちは
どうやって生きていけばいいのでしょうか?

J
この子どもたちのために 
この国の大人たちは 何をしたのでしょうか? 
何もしなかった。
それどころか むしろ迫害したのです。
親戚に押し付けられた子どもたちは 
子守や 厳しい労働をしなければなりませんでした。
食糧の乏しい中で 
家族以外の やっかいものに食べさせるものはないとことごとく差別されました。
学校にも行かせてもらえませんでした。
あまりにつらい状況から逃げ出して 
多くの子が東京に戻って浮浪児になりました。今でいう ストリート・チルドレンです。

 

K
食べ物を盗むとか 汚いとか 目ざわりだとかで
雨露をしのぐために地下道に集まる子どもたちを
取り押さえて収容所に送り込みました。
ひどいところでは 逃げ出さないよう

に子どもたちを裸にして 
檻に詰め込みました。
ここも飢えと虐待の修羅場です。
いいところへ連れて行くとトラックに載せられ
栃木県の山の中に捨てられた子もいます。
せっかく生きて終戦を迎えたのに
病死・餓死・凍死・絶望の果ての自殺などで
たくさんの子が死にました。
やっと成人しても 空襲での怪我・火傷(やけど)・
栄養失調
学校へ行けなかったこと等によって
できる仕事が限られました。
苦学しても 
身元引受人がいないと就職を断られたり
結婚するにも 「どこの馬の骨か」と見下される
そんな厳しい運命を はねのけはねのけ 
大勢の戦災孤児は 生きてきたのです。

 

L
幼かった私たちも歳をとりました。
孫たちの健やかな成長を見るのはうれしいことです。
この子たちの未来は平和でしょうか? 
とても心配です。
戦争が終わった時こんな悲惨なことは
二度と起こしてはならないと大勢の人が心に誓い
それは死んでいった全ての人の願いだと思います。
しかし 近年 
「憲法改正のための国民投票法」など
「戦争ができる国」へ戻そうとする動きがあります。
私は今東京大空襲の被害者の一人として
国に被害の実態調査と補償を求める
集団訴訟の原告になっています。
軍人・軍属とその遺族には恩給や補償がありますが
「逃げ遅れて死んだ」民間人には 何もありません。
戦争で奪われた一人一人の命の重さを訴え 二度とこの国に戦争を起こさせないための裁判です。

M
今も世界のあちこちで
戦争が続いています。
20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれています。
21世紀は「平和の世紀」にしたいものですが その始めの年に ニューヨークの高層ビルに
乗客を乗せたままの大型機が突っ込みました。
9。11です。
その報復としてアフガニスタンへの空爆が始まり
イラク戦争へとつながりました。
戦争は人間の行為です。
「どうすれば効率よく人を殺せるか」 
ではなく
「どうすれば世界中が平和になれるか」
知恵を絞りたいものです。
自分の足許を見つめることから始めませんか。
私の今できること それが 
東京大空襲のことを
多くの人に知ってもらうことです。