←2020                         上里和子さんの戦争体験の紙芝居 那覇∼座間味島

                            ☆この紙芝居は、上里和子さんが養護学校の教員の時、教職員の皆さまと制作した紙芝居です。
                                        
この話は今から75年前、私が6歳の頃、那覇と座間味島(ざまみじま)での戦争体験を紙芝居にしたものです。

1 私の家は宗元寺(そうげんじ)前の橋の近くにありました。
家族は祖母と両親、当時6歳の私、3歳の妹、6か月の弟の6名家族でした。
太平洋戦争が始まったころ、1943年の4月に両親が座間味島の学校へ転勤となり、妹と弟を連れて座間味へ行ってしまいました。私と祖母はガランとした大きな家に残ることになりました。
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2 秋風のさわやかな朝の1010日のことです。

家の前の通りでは、人力車や街の人々が忙しそうに行きかっていました。

3 3 1010日の午前9時頃、祖母と朝ごはんを食べている時でした。
急に祖母が立ち上がって
「何だ、あの音は?たくさんの飛行機が低空してくるよ!」と言いました。
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4 祖母:「あれ!見てごらん、すごい数の友軍機だ!演習かな?」「おかしいよ、見たことのない飛行機が来た」     「おや、アメリカみたいだ!すごい、何列もならんでやってくるよ!」

和子:「おばあさん、早く、逃げようよ!」臆病者の私は、避難場所の壕の方へいちもくさんにかけていくのでした。

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5 放送が聞こえてきます。

放送:「空襲警報発令!空襲警報発令!」  「近くの防空壕に逃げろ!逃げろ!」

祖母:「急いで、急いで、早く、早く!」 
和子:「怖いよ、おばあちゃん、怖いよ~!」

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6 飛行機の大群が那覇軍港のあたりから低空して街の方へ空爆を始めた。
艦船を目指して「ピュードン!ピュードン!」と次から次へと爆弾を打ち込んで空高く去って行った。

7 7 こんどは何列にも並んだ飛行機の群れが街に襲いかかり次々と爆弾を落とし、たちまちのうちに街は火の海に変りはてた。 8 8 私たちは火の波に追われるように、かくれていた壕を抜け出し、次々と逃げ場を見つけて走りまわりました。
道端には、爆弾に打たれ倒れている人もいました。又、子どもが一人で泣き叫び走り回っている場面もありました。
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9 米軍機の群れは次々とやってきて1日中、街中を爆撃しました。

日が暮れかかった頃、米軍機はようやく潮がひくように南の海のかなたへ去って行った。

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10 私たちはブルブルふるえあがった。おそる、おそる、避難場所から出てみると我が家はもうもうとけむりの山になっていました。

火につつまれた我が家を見て、ただ茫然とたちすくむだけでした

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11 その時の那覇市の死傷者は住民が1,500名、軍人が300名程だと言われました。

食糧は灰となり、90%の人々は家もなく焼け出されました。その日は1010日でしたので、恐怖の十・十空襲(じゅうじゅうくうしゅう)と呼ばれています。

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12 私たちは近所の人や親せきの人を見つけにあっちこっちへとさまよい歩きました。

13 13 近所の人達は、荷物をかついで山原(やんばる)へ山原へと歩き出す人、また南部の方へ身内の人をたずねていく人もいました。 14

14 私と祖母は住む家もなくどうしようと迷いましたが、両親のいる座間味島へ行くことにしました。

祖母がサバニ()のおじさんにお願いし、海をわたって両親と一緒に住むことにしました。

夜の海は静まりかえっていました。

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15 両親の住んでいる家は座間味島でも大きな家でした。三つの部屋にはたくさんの日本兵が宿泊していました。中でも田中さんという兵隊さんは家族に小さい子がいるらしく、いつもコンペイトウのお菓子を与え、抱っこして下さいました。
16 16 兵隊さん達は毎朝、暗いうちにラッパの音で起床し、隊列を組み、軍歌に合わせて山手の方へ行進して行きました。戦争の準備なんです。そんな時でも静かで平和な日もありました。 17 17 私は来年の4月から小学校の1年生になります。両親に新しい鞄を買ってもらいました。時々、近所のいくこちゃんに見せたりして遊ぶこともありました。校長先生の奥さんにおいしいお菓子をもらうこともありました。校長先生の奥さんは大変やさしい方で、空襲警報のサイレンが鳴ると私たちを連れに来て山手の教員壕まで一緒に避難することもありました。 18 18 そんな日々が過ぎたある日のことです。「ウォーウーウーウー」「空襲警報発令!」サイレンがけたたましくなりひびきます。私は日頃、訓練している頭巾にモンペ、リュックを手早く背負って防空壕へ走って行くのですが、臆病者の私はときどき床下へもぐって震えて動けなくなり、家族の者を心配させていました。
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19 1945(昭和20)326日の早朝「米軍が慶良間(けらま)列島上陸開始」というニュースが入りました。山手の教員壕から海を眺めると、アメリカ軍の大艦隊が二重、三重に島をとりまいていました。

「ええー!あれはなんだ!あの船を見ろ!」大人たちの声が震えてあらあらしくなりました。空をとぶ飛行機もいかめしく見える。嵐の前の静けさとは、このことなのかというほどです。しばらくすると、

 

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20 B29の飛行機が山の峰をすれすれに低空してくる。みんな息をひそめてうずくまっている。何列もの飛行機の群れが島におそいかかるかのように過ぎ去ったかと思うと、海からすごい爆音を立てて大砲があみの目のように打ち込まれる。そのたびに地響きと爆音がとんでくる。「ピュードン、ピュードン、ドドドドドドーン!「パラパラパラパラパラー」空と海から交互に攻撃する。「パラパラパラパラパラパラー」「ピュードン、ピュードン!」「ドドドドドドードン!」

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21 山火事がどんどんおしよせてくる。みんな必死に走り出す。爆風に押し倒される人もいる。私は谷間の水たまりに爆風と共にうちのめされた。

 運が強いというか、臆病が手伝っていつの間にか家族に追いついていました。

 母親は妹と弟を連れて走り出した。私のことなど振り向く様子もない。

「お母さーん!」「お母さーん、お母さーん!」

「助けて、待って!待ってよー!助けてー!」

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22 砂浜からは、何台もの戦車が「ゴーゴーゴー」「ゴーゴーゴー」大きな音を立てて上陸してくる。戦車からは銃をもった大きな兵隊さんがどんどん駆け下りて、陸や山へと上がって行くのです。

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23 まわりの山は真っ赤に燃え上がり、人々はどこへ消えたか見あたらない。

空からは大きな飛行機が「バラバラバラ」と爆撃し海の方へ空高く舞い上がったかと思うと、又同じような飛行機がおそってくる。爆弾の目をくぐりぬけるかのように逃げ回っているうちに、日が暮れかかりやっとガマ(自然壕)の近くの広場についていました。

 

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24 ガマの前の広場にはたくさんの村人が集まっていました。すると母が私の手を引いて隅の方できれいな服に着替えさせてくれた。皆さびしそうな顔でうつむいた。村の偉い人が黒い石みたいなものを手渡した。これを持った家族は畑の中、大きな木の下へと行った。暗闇の中から突然「死なない!死なない!」とさけびながら走り出す人もいた。時折、けたたましい爆音が聞こえる。大人の人がひそひそ話をしている。「手榴弾のない人は自分で考えて死ぬんだ」と言っているようです。

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25 父が「これで家族は一緒になった」「さぁ、家族はみんな一緒なんだ、こっちへおいで。ちっとも痛くないからね」妹はいつも「死んだらお菓子も砂糖もいっぱい食べれるでしょう!」と言っていました。臆病な私は「お母さん、こわいよー!私は死なない!」と言ってそのたびに逃げ出し、家族を困らせていました。その時も私はいちもくさんにガマの外へ出て逃げ出しました。

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26 ガマの中には、たくさんの村人が集まっていました。時々、赤ちゃんの泣き声がする。誰かが「泣き声はやめさせろ!」という。「飛行機に聞こえる!口に何かぼろでもおしこめ!」とどなる。夜になると大人は食べもの探し、水をくみにガマを出ていく。ガマの中には人がひしめき合って悪臭がする。私は水がほしくて時々アダンの木の葉をなめていたが、ますます喉が渇いた。そんな時、父がどこからともなく姿を現した。「みんな集めなさい。和子はいるか」という声にまわりの人が寄ってきた。他の家族の人々も一緒に死にたいと父の方へ集まった。「いや、これ1個ではこれだけたくさんの人は殺せない。

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27 その時、米軍の艦砲射撃は止み、あたりは夜の静かなしじまに包まれていた。煙が薄れた夜空にはこうこうとお月様がかがやいていた。

「水がほしい!水がほしい!」と歩きまわっているとアダンの葉に光っている夜露の玉を見つけた。なめるとのどがヒリヒリ痛い程塩辛い。今でも、アダンの葉を見るたびにあの場面を思いだす。

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28 それからものの数分もたたないうちにあちらこちらで手榴弾の爆発の音が聞こえた。「バン!」「ドン!」「ボオン!」一瞬にして、血の海になった。私はガマを出て、恐怖で押しつぶされそうになりながらも1人でさまよい歩き続けた。

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29 私は山の中を逃げ回っているうちに色々な場面に出会った。私の家に宿泊していた田中さんという兵隊さんが片足が折れたまま、這いまわっていた。

頭を岩にうちくだかれた女の子が血を流していた。アダンの木に縄で首をしめてぶら下がっているお母さん。いつ死んだのか、大きなお腹をふくらませた兵隊さん。その上を踏んずけながら逃げ回る。時々、ぶすっとくさいにおいがする。何日たったことでしょう。

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30 「死なない!死なない!」と1人で逃げ回っているうちに、弟をおぶった母が追い付いてきた。4人で歩いていると、山を下りて、岩壁の下の砂浜についた。海水に首のきわまでつかり、向こう岸へと渡った。そこには負傷兵や老人や子どもがいた。父は怪我をして祖母と二人で壕に残っていると聞いた。私たちはどんどん歩き続けた。ある小屋の中には白い布がかけられ死んだ人々が横たわっていた。母の知っている人もいたようだった。私たちは4人で合掌し、また歩き続けた。

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31途中で鼻の高いアメリカ人に連れられてテント小屋のある所へ着いた。そこにはたくさんの村人達がいた。校長先生の奥さんが首に穴をあけゴムの管から食事を流していた。聞くところによると、校長先生が最初にカミソリで奥さんの首を切り、奥さんが死んだと思い自分の首を切って校長先生はその場で即死した。奥さんは生き残ったが、それから間もなく死んでしまいました。

32 32 捕虜になって私たちはテント小屋で暮らすことになりました。時々、アメリカ兵が集落を襲いかかり村中が大騒ぎになりました。特に婦人や女の子に襲いかかるようで、落ち着いて眠ることもできませんでした。父はアメリカのMP(軍の警察)と一緒になって村中を見回って歩いていました。日本のおまわりさんと同じ仕事をしているのです。 33

33 私たちの苦しい体験をだれにもしてほしくない。 その為にも、生きている限りこの愚かな戦争の恐ろしさを多くの人に伝えて行くことが戦争を体験した私たちの大切な役目だと思っています。