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◇空襲までの歴史  
戦争体験談 ◇世界の平和を願って 戦中・戦後の教育

                  星野光世さん「戦争と子どもたち」から 

                   「戦争と子どもたち」は2016年に自費出版され、この本から「もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記録」(講談社)が作られました。

戦争孤児が生まれるまで
        【学童疎開】 

「戦争と子どもたち」 星野光世

はじめに 
日本が、アメリカやイギリス、中国、ソ連などの連合国を相手の戦争が終結してから、早や70年が過ぎました。

 194112月から19458月までの38カ月続いた戦争で、日本の家屋は空襲で焼き尽くされ、広島、長崎には原子爆弾が投下され、310万人という多くの犠牲者を出し、国中がボロボロになり、日本は戦争に負けました。
 この戦争で、両親が死んでしまった子どものことを「戦争孤児」と言います。その数は、戦後間もない1948年の厚生省の調査によると、全国で12万3千人あまりといわれています。
 年齢別では小学生の孤児が全体の80%を占めていたそうです。
小学生の時に、戦争で両親を亡くした子どもたちも、今では80歳前後の高齢となりました。「おじいちゃん、おばあちゃんが子どものころ、この日本の国で、こういうことがあったんだよ・・・」と戦争に翻弄されながら生きてきた大勢の子どもがいたことを多くの人たちに伝えたい・・・・との思いから、絵を学んだことのない私ですが、この冊子作りを思い立ちました。 戦争で親が死んでしまったあと子どもたちはどのように生きてきたのか。私の体験を含め、孤児ご本人から聞いたお話をもとに、必死で生きてきたその姿を追ってみました。     
 

        星野光世さんの体験

母との別れの朝


我が家の焼け跡


妹と弟を連れて、3人で逃げ出す


学業をあきらめ、農作業に精を出す










          【空襲】 

       
      金子トミさんの体験

父も母も疎開先の空襲で死亡(山形県真室川)


上野駅での浮浪児生活


山で二晩野宿を


弟は、毎日、奴隷の生活
学校も小学4年で止まったまま


打ち明けられなかった浮浪児生活
 私は23歳で結婚しました。45年間添い遂げ、
夫は17年前に旅立ちました。とても優しい人でした。優しかった夫に、私の浮浪児だった過去を、最後まで、打ち明けることができませんでした。夫の心変わりが怖かったのです。
 「お父さんごめんなさい。結婚する前、東京上野で、何年も浮浪児生活をしていた過去を、とうとう隠し通して・・・・・」
 呼吸が止まった瞬間、わあっと泣き伏し、優しかった夫に謝りました。
   金子トミさん(当時15歳)の手記より

















  
  【上野公園に集まる親のない子どもたち】

     
       永田郁子さんの体験


学童疎開が始まる


家族5人が死亡


ふろしき包みを持って、知らない町をさ迷う

真っ暗闇の神社で、ひとり野宿を

◇永田郁子さんの体験談

看護婦になれた喜び
 看護学校で2年間勉強をして、資格試験に受かり、正式に看護婦として自立することができた喜びは格別でした。何よりも嬉しかったのは、これからは人に力を借りずに自分の力で生きていける。そして、もうひとつ、これからは、朝、昼、晩と三食、食べられる。これも嬉しかったですね。
 親を亡くしたあと、何が嬉しかったといえば、何よりも「自立できたこと」です。あれほど望んでいた勉強も一応できますし、住むところも、食事の心配もしなくてよくなり、本当にありがたいと思いました。
 永田郁子さん(当時9歳)の手記より


















   【戦争を知らない子どもたち】


    山田清一郎さんの体験
(神戸空襲)

トマトに染まった「いのち」
   ◇アキラへの鎮魂歌


ごみ箱をあさる


夜は地下道でごろ寝

鉄格子の檻の中

19歳でやっと定時制高校へ
 
私は、品川の児童相談所から、米屋、うどん屋、飲食店など転々として、神田の本屋に住み込み、そこから、やっと定時制高校に入学しました。19歳の時でした。
 長野の同級生は、すでに高校を卒業していました。
‥‥昼間は労働者、夜は学生、私は、定時制高校を卒業してから夜間大学に進み、27歳で中学校教師になりました。・・・・
 山田清一郎さん(当時10歳)の手記より





◇【防空法】

◇紙芝居動画「知って下さい東京大空襲」

◇空襲被害者等援護法について】