証詞

本日は、召天者記念会を催して戴き感謝申し上げます。
Aが洗礼を受けて、亡くなるまでの経緯を簡単にお話したいと思います。
Aが他界して丁度17年になります。明治40年生まれですので、生きていれば105歳になりましょうか。他界したのは、2月14日丁度バレンタインの日でしたので、命日を忘れることはありません。88歳で亡くなりましたが、翌月が誕生日ですので、正確には
89歳と申していいと思います。
Aが、洗礼を受けた時、70歳を過ぎていたと思います。Bが、敬虔なクリスチャンですので、Aに百万人の福音を送って寄越したり、帰省した時も、事ある毎にAと一緒に聖書の学びをして、導いていました。Aは、素直な人ですので、Bから聖書の話を聞き、受
け入れて信じていたものと思います。
教会が、ユニバースの近くの民家を借りて宣教伝道していた時、BがAを連れて初めて教会の門をくぐったわけです。そして直ぐさま、ノーダス先生の司式のもとに、洗礼に与かりクリスチャンとなったということです。
もともと病弱な人でもあり、高齢でしたので、教会へ赴いたのは、受洗のときだけで、その時が初めて、最後でした。
その後は、笹木先生が、自宅にお出でくださって聖書の学びをさせて戴いてましたがAは、ある冬の日、氷の上でころび大腿骨骨折をしました。入院手術をして一応怪我は快復しましたが、リハビリもせず、そのまま寝たきりとなってした。そうこういている内、今でいう認知症にもなってしまいました。
当時は介護保険制度もなく、従って凡そ10年近く在宅介護となりましたが、その時は、私も若かったので、Aの在宅介護に頑張れたと
思っています。
笹木先生は、その間ずっと足を運んでくださり、枕元で聖書のみことばをお話してくださいました。先生には大変お世話になり、感謝しております。
ある時、いつものように聖書のお話をしていた時、私は不遜にも、「Aはもう何も分からないと思います。」と、失礼なことを申しました所、先生は、「そんなことありません。神様の霊がちゃんと通じておられます。」と、おっしゃられ、私は自分の不明を恥じたことを覚えています。
最後に付け加えさせていただきますと、Aは誕生して間もなく二週間余りで生みの親、つまりお母さんと死別しました。当時流行のスペイン風邪にかかったと言われますが、よく分かりません。そういうわけで、Aは、お母さんの胸にいだかれた経験もなく、また、乳すら飲んだこともなく、極めて愛に飢えていた寂しい幼児期であったことは間違いありません。しかし、最後は、親の愛に優る神様のご愛に満たされて、幼子のよう、幼子のようになって、旅立って行ったと、私は信じています。(私も、洗礼の恵みに預っております。)
聖書配布ボランティアの活動より

 今日は、柏崎教会の礼拝に参加させていただき、ギデオン協会の証と報告をすることができますことを感謝いたし
ます。

八戸のギデオン協会の長い歴史の中で、この柏崎教会の何人かの方々が、ギデオンの働きをささげて来られました。本当に感謝しております。私たちは、まだ1,2年の経験しかない、本当にうまれたばかりの者たちでございます。先輩たちのこれまでのお働き、また、教会の皆様のお祈りとご支援をいただかなければ、とうてい活動してくることができました。そのことを覚えつつ、神さまがお与え下さいました恵みを、ここで証詞させていただきます。

 私たちの教会に今、一人の求道者がおります。毎週教会に来て聖書を熱心に学んでおります。ある日、ふと、その方が緑表紙の聖書を持っていることに気がつきました。「その聖書はーー?」と聞きましたら、「あ、これ。若いころに学校でギデオンの方からいただきました。」という返事でした。その方は、弘前出身の方です。ずいぶん前のこと、それこそ40年余りも経っているようです。ギデオンの聖書贈呈や配布活動は、日本及び世界各地で行われていて、時間的に遅い、早いはありますが、こうして実を結んでいるんだな、と神さまの御業を拝させていただいております。

  もう一つの証詞。私たちが、初めてある中学校の校門近くで、聖書をプレゼントした時のことです。一人の先生が、登校してくる生徒さんの一人ひとりとあいさつをかわしておりました。「何をしているのか。そんなことは止めて欲しい。――」など、言われるのではないか、と、私は、内心ドキドキしておりました。しかし、その先生は何も言いませんでした。優しそうな眼差しで、私たちから受け取った聖書を背広のポケットに入れておられました。そこの中学校の生徒さんも7割か8割くらい、聖書を受け取ってくれました。後で、その先生が校長先生だったことがわかりました!!それは5月の時のことでしたけれども、協会会員のHさん、Jさんたちが、11月にお店の開店20周年記念コンサートを開いた時、この校長先生を招いてくださったところ、喜んでいらしてくださいました。本当にうれしくてみんなで喜び合いました。続けて福音の恵みに触れていただきたいと願っております。神さまのなさることは本当にすばらしいです。 私たちが、主イエスさまにしっかりつながって行くとき、神さまは、その時機にかなった恵みの実を結ばせてくださることを確信することができました。ヨハネ15:7,8

2008年2月3日  柏崎教会を訪問して証する

最近のことから
 私の息子は現在一歳7ヶ月を過ぎたところです。 彼を産む前に1ヶ月ほど入院をしました。人生30年で初の入院でした。自分では体調の悪さを感じていなかったので,急に入院と言われ,とても動揺しました。病院の診断や対応を受け入れられませんでした。不安定な血圧は,自分で計ると落ち着いているのに,病院の人が計ると値がはね上がるという,その繰り返しの毎日に苦しめられました。一日7,8回に及ぶ測定検査や面会はできるだけ避けなさいという指導にすっかり気持ちの方が病人になってしまいました。こんなはずじゃない,家でゆっくり過ごした方がどれだけよいか,病院が私を病人にしていくんだ,と思い続け,とても暗い気持ちで過ごしました。そのときお世話してくれた家族が私の取り乱した姿をよく知っています。
 結局,手術で出産を終えたわけですが,私の心は晴れませんでした。自分の出産について納得がいきませんでした。生まれた赤ちゃんをお世話しながらも,かわいいな,よく生まれてきたね,と思う心の余裕がしばらくありませんでした。まわりには「手術で産んだんだ」と平気なように話していましたが,心には暗いものがありました。「一人っ子では寂しいからすぐ次の子をね」という声もありましたが,また同じ苦痛を味わうかもしれないと思ったら,怖くて二人目は考えられませんでした。そのことがまた心に深く影を落としていました。
 そんなとき2つのテレビ番組を見ました。どちらにも印象的なセリフがありました。一つはガンのドラマで乳ガンにおかされた少女が「こんなにたくさんの人がいるのに,なんでわたしなんだろう。神様どうして?なんで私が選ばれたの?」という言葉です。もう一つはドキュメント番組で,石綿金網の関連工場で働いていた方がアスベストのために病気になり,亡くなる数日前に話された一言。「数十年まじめに働いてきて定年まぎわでこの姿ですわ。わしの人生パアですわ」この二つのセリフに何だかとても心動かされ,泣きながらテレビを見たのを覚えています。自分の気持ちを重ね合わせていたのかもしれません。ああ誰も自分が病気になるとは思っていないんだよなあ。この身に降りかかってきたときにじぶんがどうあるかが試されるのだなあと思ったものです。
 でもふっと思いました。あれ?だったらもし人生が何一つ病気にならず,何一つ事故やケガなく,失敗や不幸や哀しいことが一つもなく天寿を全うすれば,幸せなんだろうか。いわゆるそれが人生の「勝ち組」の生き方なの・・・?それは違うよなあ。
 このようなことを考えていたとき,佐竹先生が八戸にいらしてメッセージの中で言われました。「私が死んでもかわいそうとかかなしいとか思わないでください。残された家族は寂しく悲しい思いをしますからそちらはかわいそうだと思いますが,私の肉体は滅びても魂は神の御許に行くのですから,全然かなしくないのです」このことを聞いたとき,とても心が楽になるのを感じました。そうか,そうだった,私もこの世では旅人だった。あまりに自分の身に起きたことにとらわれていて,キリスト者としての生き方を見失っていたことに気づきました。この世での苦しみや試練も旅の途中なんだ,神様はすべてご存じでいてくれる,旅の終点は神様だった。そう思ったときに今までのこだわりはスッと消えていきました。
 「苦しみにあったことは私にとって幸せでした」と聖書にあります。苦しみの中にある最中はとてもそのような心境にはなかなかなれませんが,でも振り返ると確実に神様がその中から何かを得させてくださっていることが分かります。また困難にぶつかったときにはたぶん気持ちが揺らぐでしょう。でもその試練は,人生の旅の通過点であることをわすれずに神様に寄りすがって生きたいと思わされます。
 もう一つ,祈りについて少しだけお話したく思います。手術台にのって目を閉じたときにレイ子先生をはじめ教会の皆さんが祈ってくださってる姿が,まぶたの裏にはっきりと浮かんできました。祈られている,と感じ,とても心強く気持ちが落ち着いていたのを覚えています。同じ経験を浪人時代のときもしました。机に座って試験開始というときにまぶたの裏にグルグルと皆さんの姿が浮かんできたのです。祈られているいう確信が気持ちを落ち着かせ,試験に集中できたのを覚えています。神様に自分のことをとりなしてくださるという幸せを感じました。試練や苦しみに会うことはそのような素晴らしさを味わうことができる機会でもあるんですね。これからもみなさんとともに祈り祈られるクリスチャン生活を送っていきたいと願う者であります。
感謝の気持ちで一杯になり涙があふれました
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父なる神様の御名をあがめ賛美します。

 まだ寒さの残っているある夕暮れ時、家の向かいの田んぼの角に、紙芝居を見せる二人の女の人がやってきて、近くで遊んでいた数人の子どもたちに話しかけました。

 まず色紙の白を見せて、「これは何色?」「白」、「これは?」「黒」「じゃあこれは?」「赤」そこで答えが良いとほめられて得意でした。

「じゃあ皆さん、この色の心はどんなこころでしょう。」「・・・」「これは真っ白い汚れの無い良い心ですね。じゃあこれは?」「・・・」「これは黒くて暗い悪い心です。この」赤い色は何の色かわかりますか?」「・・・」「これは血の色、イエス様の血の色ですね。」その時、赤が血の色だということに強く印象づけられました。

 そのような説明があり、内容は忘れましたが紙芝居を見せていただいて終わりにもう一度、色と心の答えを子どもたち全員で声をそろえて歌うように答え、「皆さんもこのような良い心をもって過ごしましょう。」と言われ嬉しく思ったものを覚えています。色紙を子どもたちにくれてその方々は帰られましたが、その時わたしだけがどういう訳だったのか小さな十字架の首飾りをいただきました。これがイエス様との最初の出会いでした。

 それから数年して祖父から古いラジオをもらい、夜の放送で「ルーテルアワー。暗いと不平を言うよりもすすんで明かりをつけましょう。」と軽やかなメロデイ―で始まるドラマを、それから日本の牧師さんによる聖書のみことばやハヤット神父様の片言の日本語で語る神様についてのお話や、「心の貧しい者は幸いです。」「心の清い者は幸いです。」というみことばを聞く度に、貧しさに不満だらけの自分でしたが、清い心を持って生きたいという希望と憧れを持ったものでした。

 その頃聞いたラジオ放送のおかげで、自分は心の罪人であることは悲しい程知っていました。心は清く、態度は正しく生きたい。でも、体は弱く心は常に揺れ動き、意志弱くしか生きられない自分が心の底から悲しく悩み続けました。

 ラジオを聞いて、何回か「聖書の手引き」を送っていただき、悩んだ時手引き書にある「求めなさい、与えられます。」「人はパンだけで生きるものではない。」などのみことばに何度となく救われました。みことばには慰められ救われても、神様とその御子イエス様の十字架のことになるとそこに乗り越えられない厳しさを感じ、時を過ごしていました。

 結婚し、二人目の子ができた頃から、今一つ強く成長しきれない自分に悩み初め、聖書を読んでみたら何かつかめるのではないかと思い切って書店で買い求めました。聖書は神様の教えが書いてある本であって、よく読んだら私にもわかるものと思っていたのです。しかし、やはりひとりでは理解することができず、悩み迷った時だけ、解る部分を都合よく解釈して過ごしていました。いつか本当の答えをみつけなければと思いつつ。

 それから十数年過ぎた夏のある日、英会話教室へ行っているお子さんのお母様からお誘いを受けて、教会主催の野外コンサート(ブラザレンバンド)にご一緒させていただきました。神様を讃える詩と現代的なエレキバンドとボーカルの歌声に心地好く聞き入ったことを覚えています。最後に女の方がつつましやかに、ひとりひとりに住所氏名のアンケート用紙を配られて、私もそこに記したのが八戸聖書キリスト教会との巡り会いでした。

 その後、ノーダス先生とレイ子先生がトラクトを持って訪ねてくださったそうですが、私が留守にしていたためお会いできませんでした。教会からのお便りは続けていただいており、「ああ、切手代を使わせて申し訳ないなあ。」と思いながらも、婦人会やバザー、クリスマスなどのお知らせに触れ、いつかお伺いしてみたいと思いながらも時が過ぎ、生活も変化していきました。末の子も神学のため一人暮らしを始め、私も一人家に残ったのを機に今度こそ自分のために聖書をきちんと勉強してこれからの生き方の何かを見つけたいと、教会に電話をしてお伺いいたしました。

 その頃の私の心には、人とその心は移り行く者、自分もいつかは死に行くもの、その時不安を持たず変わらぬ愛に守られてこの世を終わりたい。しかしそれには自分に何かをしっかり身につけなければ・・。長い長い年月の間にそれは聖書の中にあるような気がしていました。レイ子先生に易しくゆっくりと解りやすく聖書を教えていただきました。また、教会の方々と親しく交わらせていただくうちに、神様は私の創り主、父であること、父は子を愛して人の世をも愛するがゆえにこの世に御自分のひとり子イエス様を送ってくださったこと、この私がこれまで気づくと気づかざるとにかかわらず犯した罪、偶像をまつってきた過ち、人であるがゆえに犯すであろうこれからの罪と過ちに対してこの私に裁きが下るはずなのにこの罪人である私の身代わりとして、全く正しく生きた自分の御子に十字架での苦しみと死の裁きを下して、私を積みから救ってくださったことを知り、十字架で死んでくださったイエスさまに強く感動を覚え、感謝の気持ちで一杯になり涙があふれました。

 そして、そのようにしてくださった神様のあわれみと深い愛を感じました。イエス様の救いと神様の救いと神様の慈愛を信じ切っていきることに喜びと心の平安を感じることができました。長く長く求めていたものが今はっきりと解り、心から安心して感謝しております。 

一粒の麦が

 私は55才のとき洗礼の恵みに授かりました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし、死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書第12章24節。この聖句を読んだとき、イエス・キリストの偉大さを知りました。この時、イエスは、神の摂理に従い、世の人々の罪を贖うため、何一つの罪もないご自身を十字架につけられるため、その身を捧げようとしていたのでした。

「わたしは、世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。」と言われているように、自分の処刑されることを知りながら、弟子たちに伝えていたのです。数々の奇跡を起こし、すざましい嵐を静め、湖の上も歩かれ、多く人々の命を甦らせ、病をいやし、群衆の食事も用意される等、神様でなければ出来ない事を行える方です。

本当に私は、この一粒の麦に救われた一人です。これまでの人生で、このようなすばらしいことがありませんでした。この身が燃えたのです。生きかえったのです。当時の私は、仕事のために20時間運転して、愛知県まで行っておりました。以前は、疲れて大変でしたが、イエス・キリストを信じてからは順調に進むことができました。今でも当時のことを思い出して、心が熱くなります。

私の信仰の13年間も過ぎようとしております。今後も、イエス・キリストを信じ、何事も乗り越えて行く所存です。

主の栄光を讃え、教会の発展をお祈りいたします。

甘えちゃっていいですか?

 

 先生方や兄姉が祈り築き上げてきた教会の交わりの中に,私たち家族が加えられていることを感謝いたします。30年前は子供だった私も,おばちゃんと呼ばれる年齢になりました。今は,やんちゃなガキどものおかげで,にぎやかで楽しい毎日を送らせてもらっています。

 教会に行きはじめたのはいつなのか,私にもよくわかりませんが3,4才の時に,母に手をひかれ,教会への坂道を歩いたことを,夢の一場面のようになんとなく覚えています。おそらく,婦人の集会かなんかだったのだと思いますが・・・。それからしばらく先のことまでは,まったく覚えていません。小学生の頃は,姉と一緒に日曜学校へ行きました。同じくらいの年頃の子供がたくさんいたので,一緒に遊ぶのが楽しみでした。CSのキャンプ,クリスマス会,お楽しみ会,スケートなど様々な行事に大人も子供もたくさん参加して,とても楽しかったのを覚えています。聖書の話は,ちゃんと聞いていたのでしょうか?!あまりよく覚えていません。そんな,いい加減で不真面目な私ですが,神様も教会の皆さんも,見捨てずにこれまで育ててくださったことを,心から感謝します。

 私の2人の息子は,現在6才と3才であります。泣いたりおこったりのけんかが激しく,目が回るような毎日です。長男はいたずら好きで,教会でもよく何かやらかしてくれます,これから先何年も子育てのいろんな悩みがつきまとってくるのかと思うと恐ろしいですが,私達の子供も,私と同じように神様と教会の皆さんに育ててもらえるのかな,と考えると,不安はなくなります。甘えちゃっていいですか?

夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。詩篇30:5

 

私たちは、この八戸へ来てから、神様の豊かな恵みを一方的にいただくばかりの30年間を過ごしてきたように思っています。

 そんな私たちが、「神様、どうしてですか。」と、わきまえのないことを口にしたことがあります。

 夫は、過労から体調を崩し、六ヶ月間の休職、その後、退職、という思いもしなかった大きな転機を迎えました。学校卒業以来39年間、家庭を顧みる余裕もないくらいまじめにこつこつと働き続けてきました。しかし、そこから得た働く喜びや充足感、存在感など、有形、無形のかけがえのないものが、一気に、失われていくように覚え、本当にさびしく思いました。こうした大切なものが自分の中から取り去られたら、何が残るというのでしょうか。

 まだ失意を感じていたころ、私たちは、市民クリスマスに行き、「たとい大切なものすべてを失うようなことがあっても、なお、私たちに残っているものがあります。それは、イエス・キリストが与えてくださった、『いのち』です。このいのちは、どんなことが起ころうとも、いつも、また、いつまでも変わることはありません。」と、まるで神様が、私たちに語っておられるようなメッセージを聞きました。このイエス・キリストの尊いいのちに生かされている私たちにはそれ以上の大切なものはないことを改めて気づかされました。

 これまで歩んできた30年の中で、神様が用いてくださった数々の賜物や恵みを振り返るとき、取り去られてしまったと私が思っていた一つ一つは、もともと無かったものであり、神様が、必要に応じて与え下さったものであることも、深く知らされました。ちょうど、一年半前のその朝は、田口勇新師がセブナ兄、ニムロト兄とご一緒に私たちの家に泊まられた朝でした。朝食の時に、「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は、王の前に立つが・・・」という箴言のみ言葉を読みました。今になって初めて、「良心的にこつこつと、自分の職分をやり遂げる人」を、神様は、ことばや形、数では表せないほどの豊かさをもって、慰め、支えてくださることを知らされました。私たちの子ども達や兄弟達、主に在る兄弟姉妹一人一人の祈りとご愛がどんなに私たちに注がれていることかをも知りました。そして、私たちを待っていてくれた職場の仲間や学生たちの期待と信頼にふれ、神様が与えてくださった恵みの結果をこうした形で見ることができ、とてもうれしく思いました。

 

救いの証詞

 


今年の春、桜の花の咲く頃でした。私は40年近く仏教を熱心に信じておりましたが、人を深く憎んでおりました。その恐ろしい心をどうすることもできず、悩みに悩んで神様に救いを求めてこの教会へとびこんだ者です。レイ子先生に迎えられて聖書のお話を聞き、一度でイエス様を信じることができました。私は何と幸せ者だろうと思います。本当に、信じるものは救われますということばは間違いなしでした。


 その時から毎日毎日聖書を学び、お祈りし、みことばを守り、毎朝賛美歌を歌いました。春から今日にいたるまで毎朝、涙、涙で主に感謝し賛美しました。また、教会の皆様に支えられて本当に心暖まる思いの毎日です。本当に救い主イエス様は言葉に表すことのできないお方です。私が生きている限り、信じて信じて神様に背を向けることなく、前へ前へと進んで行きたいです。

 また、有り難いことに聖霊もいただくことになりました。父なる神様、子なるイエス様、聖霊なるお方に感謝するほかありません。これから先もイエス様にゆだねて、神様にいく分なりともお仕えすることを願いつつ祈っております。

 

多くの魂が救われる場となりますようお祈りいたします。

 

私が生まれて初めて教会を訪ねたのは、今から二十年前の六月と思います。夕方、玄関を前にして恐れを感じ、ここは特別な人だけくる所と思い、敷居が高くて入るのを躊躇したことを今も覚えています。その頃、国際会議の出張は間近かなのに、英語による口頭発表は準備不足で、自信がもてませんでした。何としてもネイティブな英語を話す方に私の英文論文を読んでいただき、録音したテープが必要でした。現実の緊急な必要が私に門をたたくことを決意させました。笹木先生に部屋に案内されると、柔らかい光の中に、花々の咲きほころぶような笑顔が私を迎えてくれました。それまでの生活になかった不思議なやさしさと安堵感、喜びに満たされ、帰りには教会の英会話クラスに入会を告げました。

あれから二十年、教会は三十周年を迎えますが、受洗後の私の霊的年齢は八歳になったばかりです。二十年前に受洗の恵みに与っていれば、家族と祈りあう日々を過ごしていたのではと悔やんでいます。公私両面で仕事が増え続ける地上的生活と教会生活の両立に亀裂が生じることもあり、そんな時、ローマ人への手紙の723~24節の聖句を思い出し、聖書を開きます。『私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。私はほんとうにみじめな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。』自分の限界を知らされ、罪の意識にさいなまれるたびごとに、イエス様におすがりすることなくして生きてはいけないと思わされ、同時に救われた安堵感をいただいております。三十周年を迎えるにあたり、私たちの教会を建て上げ、支えてこられた皆様に感謝するとともに、この教会が、多くの魂が救われる場となりますようお祈りいたします。



沢山の祈りに感謝

 

私がこの教会に初めて来たのは,29才の冬,クリスマスの時でした。ある方に誘われていきました。イエスキリストの誕生を劇で楽しそうに,生き生きとしているのを見ました。みなが温かく迎え入れてくれました。みなが真剣に祈りあっていました。しばらくして教会を建て替えることになり,なぜかみんなと一緒に引っ越しの手伝いをしていました。スキーキャリヤに本棚をくくりつけて・・。なぜか,次の年のクリスマスでは,ギターを弾いていました。その間,教会員のかたがたからは,沢山のお祈りをいただきました。しかも毎日私のために祈っていただいたことも後からおききしました。沢山の祈りに導かれ,洗礼をいただきました。

新しい教会での第1号になりましたが,結婚式を挙げさせていただきました。そして現在は,1人の男子をいただきました。それぞれの転機に,沢山の方々の祈りと励ましがあったことを,私は知っています。なんと感謝なことでしょう。私は幸せです。
 私が教会からいただいたものは,多くの祈りから得られたのものばかりです。普段からボーとしていて,あまり周りのことを考えないわがままな私なのに,祈ってくださいました。私は,これまで沢山のわがままを神様に聞いていただきました。でも私は神様にかえすことができません,私もいのります。教会の方々に心から感謝申し上げます



主がともにいてくださる事

 

私はある一つのことにとらわれて、悶々として長い年月苦しみ続けてきました。それは私の思い違いであることがわかって安心しましたが。その頃はあまりの苦しさに、『もし神様が本当にいらっしゃるなら助けてください。』と、心の中で叫び求めていました。そして、しっかりした本当の心のよりどころとなるものがほしかったのです。

 そんな私の家にある日、教会案内のちらしが配られ、近くに教会があることを知って、とても嬉しかったことを覚えています。地図をたよりに教会の前に行ってみましたが、私のような最低の者には敷居が高いような気がして入れませんでした。その後、又、特伝のちらしが配られましたので、このチャンスを逃したくないと思い、勇気を出して出席しました。

 教会に来てみて、私が長い間探し求めていたものがここにあったと思い、それからは各集会に出席しました。

 教会に来る前の私には、あまり罪人意識はありませんでした。聖書の御言葉にふれ、改めて自分が罪人であることを明らかに知らされ、罪を悔い改めました。救い主イエス・キリストの十字架上の贖いを信じて洗礼の恵みにあずかり、罪赦されたわが身の幸を心から感謝し、御名を崇め賛美致します。

 私が喀血し、教会生活を休んでいた時、特伝の講師として招かれておられた松山師が、笹木師とともに、きたなくてむさくるしい我が家にお忙しい時間をさいてわざわざ訪ねてくださり、私の頭に手を置いてお祈りくださいました。そして、イザヤ41:10と詩篇103:2〜5のみことばを与えてくださいました。“恐れるな。わたしはあなとともにいる。たじろぐな。私があなたの神だから。私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたをまもる。” “わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病いをいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように新しくなる。”

わたしはこの御言葉によって慰められ、励まされて心に平安も与えられ神様の御心のままにとゆだれることができて、癒していただきました。心から感謝いたします。

 今は、老齢とともにいろいろ弱さを覚え、多くの病気もかかえておりますが、主がともにいてくださり、決して見捨てないとの神様の約束を信じて、平安の中に生かされていることを感謝しております。はかりしれない神様の愛と恵みに日々感謝して御名を崇めほめたたえます。