開基釋善久法師と六文銭

大坂夏の陣で活躍した真田幸村(信繁)は、それに先立つ関ケ原の合戦にて父昌幸と共に奮戦し、徳川秀忠率いる3万を超える軍勢の足止めに成功するも、戦後処理で父子共々九度山に配流となり、付き従った家臣はわずか20名弱であった。しかしその家臣たちも慶長16(1611)年に父昌幸が病歿すると大半が信州に帰ってしまい、幸村のもとに残ったのはわずか3名の家来のみとなった。その3名の内の1人が清林寺開基の釋善久法師の父三井景国である。



元和元(1615)年、大坂夏の陣決戦の前日、道明寺口の合戦にて徳川方の伊達軍先鋒片倉小十郎重綱(後、重長に改名)と、大坂方の真田幸村が刃を交えた。その晩、ひそかに幸村は愛娘「阿梅」を重綱に託し、重綱は「阿梅」を白石へ連れ帰り、幸村の子女3名と共に大切に養育し、正妻亡き後その遺言に従い「阿梅」を自らの後添えとした。 一方、道明寺口の合戦にて刀傷を受けた幸村の重臣三井景国は、翌日の決戦に参加することが出来ず、本願寺坊官下間氏出身の祖母の縁により(西)本願寺で匿われ傷を癒していた。その時、浄土真宗のみ教えに触れ、本願寺第12代准如上人に、「戦に出て人を殺めた我が身は決して僧となることはないが、男子が生まれれば必ず僧とし、浄土真宗のみ教えを伝え弘める礎と致します。」という誓いを立て、幸村の愛娘「阿梅」のいる白石へとやってきた。 景国の次男は、准如上人の慈諭を承り得度して、「釋善久」の法名を賜った。



寛永11(1634)年、「阿梅の方」も真田家菩提の為一寺を建立せんと欲する宿願ありしにより、重綱よりの拝領地に「善久坊」を建立した。

萬治2(1659)年、本願寺第十三代良如上人は、「阿梅の方」の法名「泰陽院殿勝源寿清大姉」を分析し、『法源山清林寺』と改称し善久をもって開基とした。本尊は、泰陽院殿(阿梅の方)の安置したものであり、「阿梅の方」が念持の阿弥陀如来を本尊とし、報恩と感謝の生活を送った縁によって、真田家の「六文銭」の紋所を寺紋として使用している。

昭和46(1971)年、片倉信光氏の案内により真田家当主真田幸治氏が他数名と共に清林寺へ参拝し墓参した。


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