私と動物達そして生命の意思  更新 2007.06.16

 2006年2月、伊豆大島で、クリスチャンの方と、人類の祖先について、激論を交わしました。

 「種」すべては神によって創生されたというその方と、「進化論」ついて、少々夢中になって話し合いました。

 そして、ご馳走になり、最後はさわやかに別れました。

 私は所謂「生物屋」なので、考古学や生化学等によって科学的に立証されている?「進化論」は大好きです。

 そして、「ヒトの社会」を語る上で、「サルの社会」は必要不可欠なモデルであると思っています。

 集団で生活する猿社会には、社会制度と群れ固有の文化が存在します。

 「ニホンザルの生態」、学生時代、これは私が「人とヒト社会」を知るため、夢中になって本を読んでいたころから、ずいぶんと解明が進んだようですが。

 

 「愛は何故終わるのか」というヘレン E. フィッシャーの本は、かなり私と同じアプローチをしているように思えます。

  生命、原始社会から現代社会を見る視点です。

 「ダーウィニズム」と言う言葉を多用しますが、どうも・・・

 (^^;)じゃ、聞きますが、浮気者の亭主や、尻軽女性が、人類の未来を担うのか・・・・      結論は見えています。当然繁殖力があるから、そいつらの子孫が増えます。

 そんなの「夢」がないと私は怒っているのです。

 どうも、私は真面目過ぎるようで・・・(^^;)

金文堂信濃屋書店金文堂信濃屋書店> 文明の担い手、本・本屋・書籍・書店。

横須賀で200年も続く書店です。欲しい本があると急ぎでなければここへ電子メールで注文します。

そして必ず、京浜急行浦賀駅から歩いて取りに行きます。

お会いしたいのです。

店主は郷土史家の山本詔一先生です。

2001年はドイツのテレビ局の取材も受けました。

 ドイツのテレビ番組は、各国の20世紀最大の出来事を特集記事として製作したのですが、日本にとっての20世紀の最大の出来事を、ペリーの来日による開国であると考え、ペリーの来日を取材するため、山本先生に取材に来たそうです。山本先生はペリーの来航についての権威です。著作の「横須賀開国物語」は当時の地元の民衆たちの反応など実に細かく紹介されていて、幕末の三浦半島を語っています。

写真は山本先生を若返らせたような二枚目の息子さん。いつもお世話様です。m(_ _)m


<生命と文明>

 かつて、自分の一族の繁栄を願うのが常識でした。

 現代「一族」がいったい何親等まで意味するかは人にもよるでしょう。

  先人の偉業、さまざまな技術によって、ボーダーレス化した人類は、実はいにしえより、自分達「人類」のために、他の動物を食してきました。

 当然食われる方はたまりません。

 痛いだろうし、悲しいだろうし・・・・

 しかし、「地球」は誰のものか?は、さて当研究室の命題でもありますが、まず、「聖書」の次に人類に読まれている(とディーラーは言う)「原因と結果の法則」ジェームズ アレン・・は人類の価値観に何をもたらしたでしょう。

 私が思うには、ベートーベンが高らかに歌い上げた「シラー」の「歓喜の歌」合唱に言うように、また宮沢賢治が言ったように、良心を人類全体に及ぼすこと・・そんな「ヒューマニズム」を言っているんじゃないかと思えてならないのです。

 それが、文明の利器「インターネット」の重要な使命のひとつだと、最近考えるに至りました。

 さて、アレンさんは、本の中で、「社会生活の中で「原因」を自分に置き、「結果」が自分に来る」と初めて言った「ヒト」なのでしょうか?

 そうかも知れない。

 しかし、数千年前、釈迦が同じことをもっと具体的に言っているんじゃないでしょうか。

 ものの本によると、釈迦は、文字の無い時代のヒトだったようですが、宗教に付き物の、中心に偉いさんがいて、円形にヒトが並んでいる図は・・・・・・ニホンザルなどや、類人猿の生態を調べている人達には、実に当然の<集団社会>の姿に見えるんじゃないでしょうか?

 すると、ヘレンさんの言うところの、昆虫(^^;)から見られる、繁殖のための、異性に対する給餌行動は、この「円」の中に意味を持って浮かび上がる。

 何が言いたいかって?

  民心の安定こそ、少子化の歯止めになると・・・それが政権の責務じゃないかと・・・・思いませんか?

 あほ・・・・・


 話が脱線しましたが、生命に「種」の維持という目的・意思は無いと、今まで、考えてきました。

 (これがクリスチャンの先生と「重要な論点」になりかけたところでした。正直、生物屋の私も、冷や汗ものでした。(^^;))

 これが前提で、ただ無心に「適者生存」が、地球が生まれてからの、現象であって、適者こそ生存すべきとの、選民主張的な理論に発展させてはいけないと思ってきました。

 しかし、最近、生命や、人類の叡智を考えるとき、実は強い宇宙の法則の意思が働いているのではないか、と考えるようになってきました。


<実験動物・個体維持>

 私のつたない経験話をひとつ、研究のためイギリス産の3キロもある鶏と白色レグホン(卵鶏)を大量に飼育していたことが有りますが、あるときケージに首が挟まって、餓死している白色レグホンを見つけました。

 私は、その鶏を解剖してみましたが、内臓は、餓死したためか、もともと実験用に高たんぱくの給餌だったせいか、きれいに脂肪が消費され、まるで内臓見本のように、各臓器の特色、色形がはっきり観察できました。
 
 丁寧に臓器を取り分け観察して、驚きました。

 オスのその臓器の中に精巣が無くなっていたのです。

 レグホン鶏にも左右一対の白色をした枝豆より一回り大きい精巣がありましたが、餓死したその個体には、精巣が脂肪と同じく、エネルギーとして消費されていたのです。

 つまり、自然環境下では、餌が無くなり、繁殖どころか、個体の維持が限界になってくると、繁殖のための精巣が、食料事情がよくなるまで、エネルギーとして消費され退化し、最後の最後まで、個体維持をしようとする。

 そして、食糧事情が良くなり、逞しいオスに戻ってきて、繁殖可能なメスに出会うと種の維持の活動を始めるわけです。

 永い進化の過程の中で、連綿と続く繁殖の中で、苛酷な環境を乗り切ってきたことが、宇宙の法則の意思にあるのではないか・・ということです。




 さて、振り返って、人類の社会活動に目をやると、かつて、選民思想的発想で、自然淘汰ではなく、人為的な淘汰を行い、一部民族の大量虐殺を図った独裁者達がいました。

 ここに思い致されるのは、やはりヒューマニズムなのです。つまり、守るべき一族は「ヒト」であり、それに必要な資源達、地球の同胞達、細菌から昆虫を含めて((^^;))すべての宇宙ではないかm(_ _)mということです。

 「衣食足りて、礼節を知る。」

と言いますが、衣食がままならず、貧困にあえぎ、「礼節」どころか、暴力に訴える者、強いては国が、まだ地球上に存在する限り、個人の幸せは有り得ないと、賢人達が主張してきたようです。

世界平和!

<文明と情報・生態系と危険認知>

 危機管理なんて「思想」は、非常に新しいもののようです。それは、当然有史以来、否、生命の起源まで遡って働いている「機能」ですが、大きく問題視され始めたのは最近のことで、じゃー、なんで最近大きくクローズアップされたかというと、情報収集・分析力がコンピューターの導入によって、飛躍的に進歩したからではないかと考えています。

 特にインターネットによる地球規模の、仔細にわたる環境認知力が人類にもたらしたものが、結構大きいのではないかと。

 危機管理なんてものは、実は本能的な(これが、当研究室のひとつの命題でもあるんですが、理性の根幹を成すもの)もので、実験動物を扱うものは、マウスの新生児で簡単な実験をやります。

 どんな実験かというと、まだ目も開かない新生児のマウスを、机の「ふち」に置き、落ちそうになるくらい軽く押してやるのです。

 目が見えないマウスは、手探りで「ふち」を認識します。

 落ちるでしょうか?

 実は反転して「ふち」を避けます。

 つまり、生まれたばかりの赤子が、目も見えないのに、落ちないように「ふち」から遠ざかろうとするのです。

 これを専門的に「断崖回避行動」と言います。

 ちょっと極端な話ですが、前述の「衣食足りた者」が、「衣食足りぬ者」を攻撃するのは、このような危険を回避するための行動かもしれません。地球の危険要素を排除しようとするのです。

 「生態系」や「食物連鎖」、「弱肉強食」は古くて新しいテーマでもありますが、人類がそれらを学問的に「発見」したのは最近のことです。

 それまで「衣食」を追い求め「繁栄」し、そして「戦争」をしてきました。

 やがて学問的に「環境」を、豊かな生活のため「発見」し始めたのです。そして学問が世界を一つにしてきました。

 地球はどんどん小さくなってきたのです。

 「情報」が人類共通の財産になりつつあります。

 人類共通の脅威の認知が「危険認知」であり、その排除をしようと各国が協力を始めたのが「回避行動」です。

 まだまだ各国の思惑があり、共通認識には至らないようですが、情報が重要な要素であり、分析力が、国や組織や個人の運命を決めてしまうようになりました。

 原始以来、同じだったわけですが、伝達方法がどんどん進化しました。認知情報も膨大になってきました。

 「ヒト」はコンピューターを使って神に近づこうとしています。すなわち「全知全能」の「全知」の部分です。

 

<生命の意思の否定と不安感>

 その情報を、どう処理するか、ここにはどうやら、「生命の意思」が存在します。生き抜こうとする強い意思です。

 私は、つい最近まで、「生命の意思」というものを、無視してきました。

 しかし、どうも違っていたようです。

 2006年9月頃から、漠然たる不安が強く私を支配していました。

 全て、偶然の「適者生存」に依存していればいいと考えていたようですが、齢を重ねるうちに、対象のない強い不安がうねるように私を襲うようになってきたのです。

 そして、あらぬことか自殺を考えるようになっていました。(当時友人に救われた)

 生命の意思を否定するうちに、自己否定が進んで、そうなってしまったようです。

 今では(2007当時)、医師に「うつ状態」と診断されるようになってしまったのでした。

 この状態を脱するために、いろいろ方法を考えましたが、根本的な私の考え方がこれほどまでに日常を左右するとは思いませんでした。

 そこで、このページを、更新しながら、強く、生命に対する考え方を180度、転換することにしました。

 生命には、強く生きようとする、生命の意志が働いている。

 それを否定することは許されない。

 これもひとつ私の実験ですが、宇宙の法則、生命の意思、を強く念じて、毎日を過ごしてみようと。

 「心」が「地球」を感じるのではなく、実は「心」が「宇宙」を自分で描いているのだから。ジョセフ マーフィ

 

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