奇跡を信じて…

【2007/12/12】

小夜子はいつも「尊敬している人は誰?」って訊かれたら、「父と父を支える母」と答えてきました。
生真面目で、誰からも信頼される人格と、いつも家族の中心に居て、強く優しく守り続けてくれた父は小夜子にとって、
一生かかっても越えることができないカリスマ的存在でした。

いつも、娘のやりたいことを信じて見守り続け、ボロボロになって帰ってきても優しく受け止めてくれる父でした。
厳格さと子供っぽさの両方を持ち合わせ、時には娘の私もお手上げのワガママぶりで、それでも憎めない父でした。

2007年11月13日、私が帰宅して、晩ご飯を食べようとしたら、父の様子がおかしいのです。
実は、父は2006年の夏、喉頭癌で声帯を摘出し、声を失いました。一つ捨てても、生きることを選んだのです。
その術前の検査で、胃カメラを飲んだ時、偶然にも胃癌を発見していただき、喉の状態が落ち着いた頃に内視鏡により胃癌の病巣も摘出し
おかげさまでどちらの癌も手術によって完全にやっつけたのでした。
声を失っても、大好きなお仕事を続け、家族仲良く長生きすることが父の望みでもあり、叶えられるものと信じていました。
数年前に発病した喘息の持病だけが父を日々苦しめていましたが、持病とも上手に付き合うことで、父はずっとずっと健康で生きられると思っていたのでした。

それなのに…
新鮮な空気を求めてベランダに出た父は、息苦しそうでした。
母が、「救急車呼ぶ?」と訊くと、うなずき、自分の部屋で座っていました。


だんだん息苦しそうで辛そうになっていく父を後ろから両手で支えながら、「もうすぐ来ゃはるし」「がんばって!」と言ったのに…
小夜子が最後に「しんどいのん?苦しいのん?」と訊いた時は、確かにかすかに答えてくれた感じがしたのですが
その直後に小夜子の腕の中で、父はグッと手を内側に握っていきながら、意識をなくしました。
多分…それから20秒くらいしてからだと思います。救急車のサイレンが聞こえてきました。
母に父を託し、小夜子は必死で救急車を迎えに飛び出しました。

「痰の吸引をお願いします!呼吸ができないんです!!」
レスキューの隊員さんがお家に入って、酸素を吸入しようとした時、口にもっていかれたので、「違います!喉です!」必死で叫びました。
父に酸素を与えながら、「心臓止まってます」と言われ、大急ぎの処置をしてくださいました。
急いで、救急車に運び、私は前回も父に言われた通り、自分の車で後を追うために準備をしました。
父は、病院のベッドの上からでもお仕事や書き物をしたり、色んな指示をしたので、家族が動ける車が一台必要だという考えでした。
前に救急車を呼んだ時もそうでした。
だから、小夜子は自分の車のエンジンをかけ、救急車を追いかけるつもりですぐにスタンバイしました。

なのに…なかなか動かない救急車。いつまでも、赤いチカチカが回転しているのが建物に映っていました。
私が、以前お世話になった病院を指定して救急車に「早く来てください!」とお電話したのに…
「早くぅー!お願い!!早くぅ〜」泣きながらハンドルを握って涙を流して叫びました。


やっと、走り出した救急車のすぐ後ろにピタリと付き、心臓マッサージをしてくださっているレスキューの方が隙間から見えていました。
「だから、大丈夫!大丈夫!!」自分に言い聞かせながら、話されないように必死でアクセルを踏みました。

病院に着いて長い間蘇生の処置をしていただきながら、追っかけて事情を聴きに来てくださった、若いお巡りさんに励ましていただきました。
その間、レスキューの方は、大丈夫とも取れる笑顔で帰って行かれました。私は深々と頭を下げました。

現在、救命救急センターのICUでお世話になっていますが、生命は繋いでいただいたのに、意識が戻りません。

ほんの数分間、脳に酸素が供給されなかったことで、父の脳は大きな損傷を受けました…。
あの夜が信じられません…。
一時は脳死と考えられるとドクターに告げられたのですが、二度目の検査で音に対する反応が認められるために脳死とは言えないと言われました。

ただ、現在の目標は「植物状態に落ち着ける」という風に告げられ、母と愕然としました。
ホワイトボードにこの先のスケジュールをいっぱい書き込み、おいしそうな蟹をみんながそろったら食べようと冷凍庫に入れて楽しみにしていた父なのに…

今後、現在の状態が落ち着いたら、転院先を探しておくようにと言われていますが、『治療』という積極的な回復を望む受け入れ先は殆ど無いようです。
『療養』としてなら、転院先は探せば見つかるようですが、その後いずれ自宅療養に切り替えて、静かに時を過ごすという積極的な回復を望みにくい未来が
一般的のようなニュアンスらしいのです…。

あんなに、意欲的に生きることに取り組んでいた父をただ寝かせておくのは、絶対父が悔しがりますし、
私たち家族も少しでも回復するようにと希望を捨ていません。絶対に父なら回復してくれると信じてチャレンジしていきたいのに…
外傷による脳損傷なら受け入れ先を見つける可能性もあるのかもしれませんが、父の場合かなり難しいようです…

お願いです! どんな小さな情報でもかまいません。 
どこかそのような治療に取り組んでおられるドクターをご存知ないでしょうか?
一生懸命調べているのですが、医療関係は素人な私たちには、調べても限界があるようなのです…
誰か、助けてください…
希望は絶対持ち続け、奇跡を信じます…
父は過去にも心肺停止から蘇って、元気になったタフな人です。絶対、生きたいと頑張る人なのです。


実は、カメラマンの父にいつか見せたいと綴っていたブログ、
★小夜子の写真館★HUGしたくなるものたち♪
年末年始の父のお休みに合わせて見てもらおうと思っていました。
父は多分私が男の子だったら、きっとカメラマンにしたかったはずなのです。
私は違うことに興味があったため、まったく写真のことはわかりませんし、めちゃくちゃな撮り方です。
でも、笑われてもいいから、父の笑顔が見たかった…
そして、パソコンも携帯電話もいっぱい教えてあげるつもりでした
もう一度その夢を実現させるために、小夜子はもっともっと頑張るつもりで、父のお誕生日に合わせてこのホームページを公開することに決めました。
どうか、お願いします。家族で必死で頑張りますから、どうかどうか光を与えてください… 

何か情報をお持ちでしたら、是非直接メールでお知らせくださいませ。どうか、どうかよろしくお願いいたします

【2008/01/01】

奇跡を信じてこれまで頑張って参りましたが、2007年12月25日、クリスマスの夜に父はお星様になりました…。
命の直接的な危険は脱出し、後は、どんな困難な道であろうとも回復に向けて家族で団結して立ち向かうつもりでしたが、
低酸素脳症による脳へのダメージが大きかったのか、寝たきりで意識が戻らぬまま、内臓機能が低下してしまいました。
栄養も体内に入ったものの全てを取り込むことができず、高熱と貧血が続き、結果的には急性腎不全になってしまい、帰らぬ人となってしまいました。
このホームページを通じて、父の意識を何とか取り戻して回復への道を歩むために、少しでも明るい情報を得ることができたらという願いも、父を失ってしまった今、
もう叶わぬ願いとなりました。

自分自身でもたくさん調べ、そして多くの方々に呼びかけたのですが、なかなか有力な情報が寄せられることは無く、どなたもがこのような状況に陥る可能性があるにもかかわらず、医学的に研究されている方は殆どありませんでした。
もちろん、事故などの外傷による脳へのダメージは意識が回復する可能性を秘めていますが、酸素が脳に供給されずに低酸素脳症になってしまった状況では、今後も何らかの研究がなされない限り、頼っていくところがないに等しいのが現状です。
父ならきっと奇跡を起こせると信じて頑張って参りましたが、とても悲しく、非常に残念な結果になってしまいました…。
メールにて小さな情報でもいただきたいとお願いして参りましたが、全てが終わってしまいました…。
ただ、ブログやネット上で、たくさんの方から、奇跡を祈り、お励ましいただき、支えていただきましたこと、心より感謝申し上げます…。
ありがとうございました。


【2008/01/25】

父が亡くなってひと月が経ちました。
主が帰らない父のお部屋は、お線香とお花の香りで満たされています。
外出してても、どんなときでも、父との思い出が蘇ってきて、涙が止まらなくなります。
ひょっとしたら、全てが夢で、長い海外出張からいつものようにいっぱいのおみやげを抱えて帰ってくるのではないかと…
そんな風に思いたいです。

脳にダメージを受けて、記憶障害に陥った場合、事故などの外的ダメージなら、回復する可能性はあると言われています。
もし、そんなご家族をサポートしていらっしゃる方がいらっしゃるならば、是非、希望をもって頑張っていただきたいと思います。
そして、脳に酸素が供給されない時間があった為の、低酸素脳症による意識障害は、治療を望んで病院を探しても、たくさんの壁にぶつかると思いますが、絶対に希望を捨てないでください。
大好きだった音楽を聴かせてあげたり、筋肉が落ちないように、脚の曲げ伸ばしなどのリハビリをしてあげたり、寝たきりで体内の機能が衰えないように十分注意をはらってあげてください。
結局、父は寝たきりで自分でも体を動かすことができなくなり、丈夫だった内蔵の機能が弱ってしまったのです。
本来、絶対治して復帰したいという強い精神力の人でしたから、奇跡も起きると信じていました。
現在闘っていらっしゃる方には、どうか、父の分まで元気になっていただきたいです。
ご家族の心身の疲労は想像以上だと思います。回復を信じることで少しの時間でも笑顔になっていただきたいです。

小夜子も、インターネットでたくさんの情報を読みました。ご家族をサポートする会も各地にあるようですし、明日は今日よりも医学が進歩しています。
小夜子も同じ空の下祈っております。


【2009/06/19】

もう、このページを更新することもないのかもしれない…。そんな風に感じていた小夜子でした。
当時の事を思い出すことはとても辛く、今でも日常生活の中で、ふと思い出すと涙が出てしまいます。

それなのに本日再びまたこのページを更新するのは、心が叫んだからです。

昨日、6月18日に衆議員で可決されたのが『臓器移植法案改正A案』。
これによって臓器の移植によって救うことのできる小さな命に希望の光が差しました。
もちろん、これがきちんと法律にまでなるのか、廃案になるのかはまだ今後の問題です。
家族の命を身にしみて大切に感じ、生死の狭間で一緒に闘った者としては、どなたにも元気になっていただき、心配する方々との幸せな日常を取り戻していただきたい。


しかしながら、問題はA案が通ったことです。
『脳死=一般的に人の死』
私はとても驚いています。
A案に賛成票を投じた議員の皆様は、どれほど深くこの法案を取り巻く環境について知識を得られたのでしょうか…?
なんか、偉そうな表現に見えたらすみません。ただ、人の死の定義について、ほとんどがその専門家ではない数名の人(国民の代表であっても)によって決められても良いのかすら疑問に感じますし、このA案を基に法律ができてしまったら、救われる方々の陰で、生きる権利を踏みにじられるような視線を受ける人々が出るのではないかと、また、ご家族(ご本人をも含む)の意に反してその道に大きな壁が立ちはだかるのではないかとの懸念を深く感じます。


実際に植物状態になった家族と闘うために、日々ICUに詰めていた時、希望の天使に助けられまた絶望の悪魔に甚振られる精神状態の中、心も体も疲れているのに、ある感覚が身に付きます。
それは、医療現場のスタッフが、発する言葉の陰にどのような感情やスタンスを隠し持っているかを感じる感覚です。
優れたドクターであっても、「どうせだめだろう」という仄かな心の動きが、その家族を絶望の淵から突き落とそうとします。
積極的な治療に恵まれない場合でも、家族が色々と調べて、あんな治療を試してほしいと希望を伝えても積極的な肯定を得ることができない。
日本の中で遷延性意識障害に積極的に取り組みそれを積極的に蘇らせる研究をしているドクターがどれくらい居らっしゃるでしょう。私が調べた時に、本当に少ないことに愕然としました。
それが、昨日のA案がきちんとした法律として施行された時、積極的に取り組もうとするドクターはますます居なくなってしまうように思います。


どうか、今、生きようと、死んでないって一生懸命闘っている方々を屍だと決めてしまわないでください…。

人を創ったのが神だとしたら、その神は何をもってその死を定義したのかを問うてみたくなります。
数名の国会議員が決めて良いことなのか…。

『脳死=人の死』この定義が認められることによって、その治療や療養に保険が効かなくなることがないように、昨日の散会時に一礼して笑顔を見せた厚生労働大臣はそちらにも積極的に取り組んでほしいと切に願います。(あの時の厚生労働大臣が見せた一瞬の笑顔は、移植を待つ家族には天使に見えたでしょうが、脳死と闘っている家族には悪魔に映りました)

昨夜、整理できていない頭で綴った小夜子のブログの記事をここに転記いたします。


 タイトル【今の素直な感想】
 
 今日、臓器移植法案改正A案が衆議院で可決された。
 私は『脳死』が今後どのように定義づけられるのか
 とても気にかけていたので大雨の車中のTVで
 この一方を聞いた時とても複雑な気持ちになった。

 私自身は
 ドクターから『きわめて脳死に近い状態です』と宣告された家族の娘である。
 一昨年の11月のこと、帰宅した時元気だった父がほんの数分後には
 息苦しいからと救急車を求め
 救急車を待ちながら私の腕の中で意識がなくなり
 救急車到着時『心肺停止状態』となっていたけれど
 蘇生処置をしていただき、心臓の動きが戻ったのに
 低酸素脳症となり、ずっと意識が戻らなくなってしまった。
 最初は人工呼吸にもお世話になったけど
 ちゃんと自発呼吸もできるようになった。
 脳幹反射こそ二度の検査でやはりないと判断されたが
 私たち家族は奇跡を信じて
 色々と調べました。
 機能障害がたとえ残ったとしても
 意識が戻ってくれさえすれば…。

 あの当時は毎日ICUに通い、
 そして、音楽や家族の声を録音して持って行き聞かせてあげたり
 筋肉の衰えを防ごうと手足のマッサージをしました。

 ICUの待合室の前の廊下に
 臓器移植のポスターとカードが貼ってあったことに
 なんて無神経な病院だろうかと
 心が傷つきました。
 家族は一生懸命で、看護スタッフも笑顔で看護してくださいました。
 でも、たくさんの管で機械につながれ、
 それが異常を告げる音を出しても
 日常茶飯事のことであり、なかなか来てくれないことに
 何度もいらだちを覚えました。

 幸せだった日常から突然地獄に突き落とされた毎日は
 弱い精神力の自分との闘いでもあり
 小さな望みでも絶対見逃さずにつかまえると誓い
 自宅に帰っては朝方まで何か良い治療実験を実施している病院は
 日本のどこかにないだろうかと探しまくりました。

 事故で遷延性意識障害となった場合は
 数年後でも戻る可能性はあるらしいけれど
 呼吸が停止し、酸素が脳に供給されない状態を経ての
 遷延性意識障害についてはかなり難しいとの感触で
 それでも大阪に取り組むドクターを見つけて
 直にお電話でお話を伺い
 受け入れをお願いしたのですがお返事は
 「期待に添えない」とのことでした。
 それでも、その先生からお聞きしたことや調べたことを
 できる限り私は父の病室に持ち込みました。

 担当のドクターは諦めることも考えるようにと
 多少は言葉を選びながらも私たちに伝えてきます。
 それを断固跳ねのけ、どんな道でも探ると答えました。

 家族がどのような厳しい状態であっても
 そのぬくもりが消えない限り
 死だと受け入れることができるでしょうか!

 結局、父は一度も意識を取り戻すことはなく
 翌月のクリスマスに息を引き取りました。
 ずっと寝たままで過ごしたため
 臓器が悪くなってしまったのです。

 父が亡くなった後、主治医に言われました。
 「よく長く頑張られましたよ」
 ほら!とっくに死んでたと現場では判断したのではなかったの?!
 だから、痙攣してても何もしなかった。
 そして、「あの痙攣はなんですか?」と私が質問した時
 「あの痙攣が起こっている時は脳細胞が死んでいる時です」と
 答え、そしてその後痙攣を抑えるお薬を処方したように感じたけど?!
 高酸素療法や低温療法なども提案したけど
 積極的に肯定するお返事はもらえなかった。

 そして、臓器を提供せよと
 これ見よがしにポスターを貼ってたのではなかったの?!

 お世話になった感謝を伝えながら
 心の半分ではつかみかかりそうな気分になったことは
 当時の私の正直な気持ちです。

 医療の現場で感じたことは
 難しくても積極的に命を救おうとすることよりも
 現状ではとても難しいんだよと説得する現場に感じたのは
 私だけでしょうか…。

 ただ、もし
 私が子供を産み、その小さな子供がとても大きな病気を抱え
 そして、臓器移植により助かる望みがあるのならば
 なんとしても救いたいと考えるでしょう。
 もし、移植を待つ病院のベッドに付き添っていれば
 運び込まれる臓器を待ちながら
 そんな自分を嫌な人間だと思うのでしょう。
 それでも、自分の命と引き換えにできない現実があるからこそ
 そんな自分になれるのだとも思います。
 それが愛ある人間なんです。

 まだ死んでいない人の臓器をパーツに救うとすれば殺人となるから
 だからこそまだ温かい人を死んでいると無理に判定するのは
 間違っているように思います。


 私は子供の頃近所の教会の日曜学校に通っていたことがありました。
 その時、若い男の先生が、近い将来目が見えなくなる病気を
 患っておられましたが、
 そんな不幸を感じさせない、とても明るい先生でした。
 私の担当の先生は、ご年配の優しい女性でした。
 その女の先生がある日ふと漏らしました。
 「私の命の炎が消える時まで彼の目がもってくれたら
  私の目をあげられるのにねぇ…」
 この優しいつぶやきに小学生の私は震えました。
 人ってなんて優しくなれるんだろうか…。


 過去にこんなドラマだったか映画だったかを見たことがあります。
 ある夫婦が離婚し、その一人息子が移植を必要とする病気になります。
 血液型が合うドナーが見つからず少年はドナーを待ち続けます。
 それはあげれは命を失う臓器ではありません。
 そして、別れた両親が話し合い
 もう一人、他人よりドナーになれる確率の高い兄弟をつくってあげようと
 ベッドを共にすることにします。
 そして、産まれた弟がドナーとして選ばれ兄の命を救います。
 後に兄はそれを知って自分を責めますが
 弟は「生まれてきてよかったんだよ」と笑顔を見せハッピーエンドです。
 私はこれを見てとても泣きました。


 人が人の命を救えることは素晴らしいこと。これも素直な感情です。


 でも…。
 答えは出ないのですが
 この法案がきちんと決まったら
 人の死の定義が変わります。

 ひとつだけ切に願うのは
 どちらの命も医療の現場で諦めないでほしい。
 もうどうせアカンでしょうみたいに努力を止めることはやめてください。
 誰もが愛されているのだから。



 小夜子@o(・"・。)β。.:*・゚☆.。.:*・
 (もし、私の文章を見て
  嫌な気持ちになった方がいらっしゃったら
  本当にごめんなさい…
  今の私の正直な感想です)




誤解されたくないのは、臓器移植を待つ小さな命の灯にも私は希望を望んでいるということです。
ただ、A案が大差で通過したことに疑問を持っているのです。
移植によって救える人を救いたい。これは本当にそう思いますし、私がそんな家族の立場なら、それを望むに決まっています。
でもその為に、生きようともがいている人を、その肉体を死体だと認定しないでください。
意識障害・植物状態・脳死の状況は、今健康な誰にでも起こり得ることです。
ご自分や家族の身に起きたとしたら…。A案の死の定義を推した方は、それを現実問題として突き詰めて考えられた時に初めてそんなにドライにとらえて良いのかという思いがわいてくると思います。


私自身、体が弱くて一人暮らしで痴呆の症状が日々進んできている親族を、介護施設に移した上で介護することが、自宅で介護するより残念だけど望ましいと判断し、その介護施設の空きを待っている身分です。誰かが出ないとそこに入れません。誰かが出るということはどなたかの死を意味することにもなります。その施設の近くに住んでいるので、救急車が来るたびに頭が混乱し胸が痛みます。だからこそ、命がけで臓器移植の機会を待ち望んでいらっしゃる方の深い心の痛みや葛藤も理解できるつもりです。日進月歩な医療の研究の中で、本当に、精密な人工臓器が作れないものかしらと思います。それで新しい命の力が得られれば、そんな心の痛みは軽減されると思ったりもします。

「脳死判定をするかしないかはご家族の判断に委ねられるので、勝手に判定するようなことはありませんから」とTVで医師が伝えていましたが、長期に及んだ時、周囲の目が頼みもしないのに勝手に断定するのではないでしょうか?
またA案の死の定義を基に法律が施行された際、今後の年金受給額も怪しい日本のお家事情が保険対象から外したいと、脳死=死者を増産するような動きにならないかとの穿った懸念も感じます。
人の死の定義にぶれがあってはいけません。もっと慎重に取り扱ってほしいと思います。
そして、どのような法律が決まっても、人の命に尊厳を持ち、どちらのお立場の方々にも柔軟な救いがあることを望みます。

どちらのお立場の方もその命は尊いもの。
片方の命を救うために死の定義が曲げられるのだとしたら、それは人が動かす域を越えています。
どの方の命も尊いのだという観点で死の定義を考えなければ、救われた命にも悲しみが宿ります。



 




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