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その3.印旛沼低地ボーリング日誌から

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はじまり  「この不景気でしょ、どこのボーリング屋さんも遊んでいるよ。アレ、今がチャンスじゃないかな。」
 イワモトさんが言った。
 「アレ」とは印旛沼低地のボーリング調査のことである。不景気でゼネコン工事がストップしている。ボーリング屋さんはいつも、その前座(建築工事には地盤調査が不可欠である)を務めるのだが、当然仕事がない。今なら格安で頼めそうだというのである。
 北印旛沼周辺の地下には「印旛沼層」と呼ばれる3万年ほど前の地層が分布していて、一部は海成層だという(楡井・楠田,1993)。最後の氷河期の始まりが約7万年前、5万年前と2万年前とがその最寒冷期とされる。だから3万年前は氷河期の中で比較的寒さの和らいだ時期にあたる。
 ここ3年ばかり取り組んできた、勝田のボーリングコアの花粉分析が一段落し、4000年前から現在までの森の変遷史はほぼ明らかになった。2万年前の寒冷期から現在の温暖期へと至る様子も既に分かっている。次は二つの最寒冷層準と、それに挟まれた時期だと考えるのは、僕ら花粉オジサン・オバサングループ にとっては自然な流れである。興味の対象は異なるが、あの場所に関心を持っている仲間は他にもいて、ガクさん(地層に含まれるケイ藻化石から、当時の海の様子を想像するのが、彼のシュミである)はケイ藻化石を調べてみたいと言う。あの場所で急に低地が広くなるのは構造運動による疑いがあると、ミタニさんは言う。周囲の台地の地層を調べていくと、現在の印旛沼へと至る地殻変動があるように思えるのだそうだ。だとすれば海成の印旛沼層の分布も、この構造運動に規制されているはずである。etc. etc.・・・。
 そんなこんなで印旛沼低地古環境研究会というグループが発足し、年末の9日間、印旛沼北部調整池南東岸の水田を掘ることになった。費用は50万円+消費税、これでボーリング機械一式と、二人のボーリング屋さんつきだから、オネダンは格安である。
1998年12月×日  好天である。ボーリング予定地の、成田市台方地先の水田で人力ボーリング。ここには地下に埋没ローム層を伴って、印旛沼層があるはず。本格ボーリングの前に、それを確認するのが今日の目的である。掘削深度、目標10m。イワモト親方以下マツダさん、イトウさんの三名がそれに挑む。30cmねじ込んだら刃先を地上に引き上げて、先端のサンプラーに詰まった堆積物を回収し、再び地中に下ろしてねじ込んでと、尺取り虫を繰り返す。そのほぼ三回に一回、1mごとにロッドを継ぎ足して、穴がだんだん深くなるという仕掛けである。ねじ込むのも、引き上げるのも、下ろすのも全て人力、泥にまみれて働くのを、ポケットに手を突っ込んで、ガクさん、ミタニさん、僕は見物。ガクさんはギックリ腰、ミタニさんと僕は記録係である。
 厚さ約1mの、水田造成の埋土の下から現れたのは、新川低地の海成粘土によく似た、やや砂混じりの粘土層。それが2mほどで細かな砂に変わると、貝化石を多量に含むようになる。大部分はカキの幼貝。他にゴイサギガイ、イボウミニナ、トウイト、アラムシロ、ウミニナ、アカニシによく似た巻貝にウニのトゲ四本。どれも小さく成長は悪い。
 30cm掘るたびに引き上げた刃先を洗うので、大量の水が要る。ボーリング地点のすぐそばに印旛沼土地改良区のポンプ場があるので、そこへ水をもらいに行く。番人のオジサンに断って井戸に行くと、たらいが置いてあって、中に入れたザルの中に10cmくらいの魚がいっぱい入っていた。どうもクチボソらしい。しばらくして水を使い切り、汲みに行くと、ザルの中は真っ黒に魚で埋まっている。中央水路から北印旛沼に水を流す用水路に大きなタモ網を沈めて、オジサンが魚を捕っていた。少しして引き上げると、中に魚が入っているというシカケらしい。よく見るとクチボソ以外に少し色の淡いのがいて、これはワカサギとのこと。毎年卵を放流しているらしい。コイやウナギは養殖物が出回って売れなくなり、印旛沼の漁業の対象は佃煮用の小魚という話をいつか聞いたが、こんな捕り方をするのだろうか。それともこれはオジサンの「自家用」なのだろうか。三度目の水汲みに行くと、オジサンのザルはもう一つ増えていた。
 相変わらず多量の貝化石が含まれているが、深度7m付近から粘土層に変わった。2mほどでそれも抜くと、再び砂に変わって刃先が入らなくなった。温存して置いたミタニさんと新手(単に遅刻してきただけ)のコイズミさんも投入し、悪戦苦闘したが及ばず、深度9m30cmで打ち止めとなった。結局埋没ロームも印旛沼層も現れず。あとは当たるもハッケ、当たらぬもハッケ、本番でのオタノシミとなって、4時半散会。
12月×日  ミタニさんから電話、調査隣接地の地主の了解が取れたとのこと。だが肝心の調査地点の地主がわからない。適当な位置に休耕田があって、そこを掘るのが一番なのだが、今回はそんな場所はない。そこで農道のドン詰まりを選んだのだが、その地主がわからないのである。県でも、土地改良区でもないらしい。(もっともそうだとしても、正式に申請を出して許可を待っていたのでは、年末の調査に間に合わないことは目に見えている)
 「あそこは沼だった場所を、勝手に各自埋め立てて水田にしたのだから、そんなものは無いんだよ・・」
 そんなことまで言う人がいて、ずいぶん調べたのだが、結局ミタニさんもわからなかったらしい。仕方がないので、ゲリラ的に勝手に掘らしてもらうことにして電話を切る。
夕方、ヒグチさんと秋葉原の駅で落ち合い、ボーリング会社のホ−チガイさんと打ち合わせ。ヒグチさん作成の仕様書に従って細部を詰めてゆく。一通り終わって、調査地が話題になる。地主がわからず、了解が取れていない旨を伝えると、ホ−チガイさんから異議がでる。ゲリラ調査が発覚すると、会社は深刻な影響を受けるとのこと。隣の田圃を掘ってはどうかとのアドバイスを受けて、ミタニさんに電話。地主さんの了解の取り直しを依頼するが、渋っている。どうも難しいようだ。
 帰宅後、ナオトさんから電話がある。地元とのコネルートありとのこと。渡りに船とはこのこと、結局ナオトルートで依頼のし直しをすることになった。
12月×日  調査地でナオトさんと落ち合い、地主のマルさん宅へ。田圃は掘れないが、道との境界、畦の上なら、ということで了解を取る。これなら灰色ゾーン、見つかっても言い逃れできそうだ。マルさんが言うには、穴を掘りっぱなしにすると、そこから地下水が自噴して、田圃は水浸しになるのだそうだ。掘ったあとの穴埋めについて念を押される。
 最後にナオト地元ルート出発点の、フジサキさんのお宅へ挨拶に伺う。娘さんがナオトさんの職場の同僚とのこと。しかし本人は不在。お母さんと話をして、ユズを山のようにいただいて帰る。今日は冬至、ユズをたっぷり入れた風呂に入って寝る。
12月×日  いよいよボーリング第一日、暖かな好日。途中でシミズさんを拾い、トラックいっぱいに荷物を積んだボーリング屋さんや他のメンバーとは京成佐倉駅で落ち合って、調査地へ。
 午前中は何もすることはなく、ボーリング屋さんがセッティングをするのを見物。ボーリング屋さんは二人。オヤカタは40代半ば、これに60代と思えるオジサンがつく。穴の位置を確認し、櫓を立て、足場を決めて機械をセットし、孔内水の循環装置を組む。オヤカタがコマネズミのように働く。ウロウロと、オジサンはその後をついて回るが、どうもあまり役立っているようには見えない。その様子が何ともおかしい。
 午後、掘削開始。シンウォールサンプラーと称する径10cmばかりのパイプを地中に押し込んで持ち上げ、内部に詰まった地層(ボーリングコアと呼ぶ)を押し出して記録を取った後、コア箱に納める。一連の作業は基本的に、人力ボーリングと同じである。違いはサンプラーの長さが1mあること(つまり一回に1m掘れる)、ロッドの長さが5mあるので、その継ぎ足しが五回に一回で済むこと、サンプラーはねじ込まれず、押し込まれるだけなので、きれいな、地層の構造の乱れていない状態のボーリングコアが得られること(これが大きなメリット。タイマイ50万円はこのために支払うのである)等が違いである。サンプラーの上げ下ろしは機械とボーリング屋さんの仕事、サンプラーに詰まったコアを押し出し、記録を取った後でコア箱に保存するのが、僕らの仕事である。
 水田の造成土の下から砂混じりの粘土層が始まって、すぐに多量の貝化石を含むようになるのは、前回確かめたとおりである。これまで新川低地の数カ所で行ったボーリング調査では、海成の粘土層上部に、分解しかけた植物片を多量に含む、湿地堆積の泥炭質の地層が確認されているのだが、ここではそれは見られない。このことは、粘土層を堆積させた縄文の海が退いた後、この地域には湿地の時代がなかったことを示す。つまり、古鬼怒湾(この地域に広がっていた縄文の海の名前)から印旛沼への移行は連続的で陸化することはなく、粘土層の堆積が途切れることなく続いて、水田化の時代を迎えたことになる。それとも水田造成の工事に伴って、上部の地層は削られて失われたのだろうか。後者の可能性が大きいのだが、ミタニさんが聞いてきたように、ここが「各自勝手に埋め立てて水田にした」場所だとすれば、地層の保存状況は、大規模に乱されることはなかったはずである。いずれにせよこの辺は、粘土層中のケイ藻化石が、海棲のものから淡水棲のものへと、上部で変わるかどうかを確認してからのことだ。それはガクさんの、今後の仕事である。
 夕方5時、4.9m掘って作業を終える。覚悟していたこととはいえ、3時以降はやはり寒く、全員ミズッパナを垂らしての作業となった。
12月×日  午前中曇りがちで、少し肌寒い。集合時間の9時、現地に着くとボーリング屋さんの作業が始まっていて、サンプラーが一本、既に上がっていた。早速押し出しにかかる。
 サンプラーを押し出し機に水平に固定し、その一端から、ジャッキを横に倒したようなシカケで、円盤を押し込む。中に詰まったコアは円盤に押され、パイプの他端から水平に押し出される仕組みである。それを雨樋のようなもので受け、折れないように支える必要がある。これに一人。ジャッキの繰り出しは30cmほどのハンドルを回して、ねじを回転させる。コアとパイプとの摩擦のために、ハンドルは重い。それを回し続けて1mも繰り出すと、結構体力を使い、10分近くはかかる。オジサンばかりだから、これに交代要員を含め、三人を配置する。押し出し機を固定する台はなく、かわりにトラックの荷台に乗せて使っている。ハンドルを力任せに回転させると、押し出し機はどうしても、左右に揺れがちになる。これではコアが折れてしまうので、前と後ろに一人ずつ、錘り代わりに乗せて押し出し機を固定する。押し出されたコアは深度ごとに、その土質や構造、含有物が記録され、写真が撮られてコア箱に納められる。この間押し出し機の方では、空になったサンプラーが外され、洗われてボーリング屋さんに戻される。繰り出されたジャッキは元に戻され、ねじ部の掃除と給油が行われる。
 これで仕事は一段落なのだが、そのころにはもう、次のサンプラーが上がって来ていてホッとする間はなく、全員、ほとんどコマネズミ状態である。
 午前中の掘削深度、4.9〜10.0m。昨日の続きで、貝殻のいっぱい詰まったシルト 〜粘土層、9m付近よりはやや砂混じり。
 午後、一本目のサンプラーを上げて見ると、下部75cmが入っていない。上部25cmには粗い砂が残り、それが水を含んでゆるんでいる。どうやらこの付近から、地下水を含む砂層に変わり、それがサンプラーを上げるときの振動で液状化して、流れ落ちたらしい。もう一度、振動を与えぬよう、慎重にやってみたが結果は同じ。シンウォールサンプラーによる、これ以下の層準の採取はできそうもなく、この日の作業は打ち切りとなった。ボーリング屋さんにサンプラーの持ち合わせが無く、それを取りに行くためである。
 2時半、解散。寒い思いをせずに終わった。
12月×日  近所に住むシミズさんを拾ってから、京成佐倉駅でカネコ・オ−ハマ・シマムラ・ナツアキの4名を乗せ、現場に向かうのが毎朝の日課である。この日、シミズさんは大荷物をかかえて現れた。中身を聞いても笑って答えない。
 現場では、今までの場所の1mほど南側に、新たに穴を掘り直すことになった。サンプラーの径が違うためである。忙しいのはボーリング屋さんだけで、他のメンバーにはこれと言って仕事はない。穴を掘るだけで試料の採取をしないから、作業はどんどん進んで、午前中には昨日の作業打ち切り深度、10mに達した。
 田んぼの畦の枯れ草の上に、各自思い思いに座って弁当を開く。今日も穏やかに陽が射して風はなく、暖かい。家から弁当を持参する人、途中で買ってくる人、どこかに食べに行く人・・・昼食の採り方は様々だが、今日は「シミズ汁」がでる。朝のシミズさんの大荷物の中身は実だくさんのみそ汁、少し薄味なのは関西での生活が長かったためだろう。食べ終わって、そのまま枯れ草の上に横になる。空はボヤッと、にじんだように薄青く、これはほとんど春の色、そう思いながら目を閉じる。30分間昼寝。
 午後から採取開始。砂層なので改良標準貫入試験用サンプラーを使って叩き込む。このため地層は圧縮されて、深度と地層の厚さの間に生じたずれを比例配分で補正する。計算機が大活躍である。コアはもろく、記録が終わってサンプラーから外すと、すぐ崩れてしまう。それをゴマカシ、ゴマカシ、乱さぬように採取して、海苔巻きを作る要領でポリエチレンラップに包んでコア箱に入れる。この作業にシミズ・カネコ・サトウの3人があたるが、ラップの扱いは主婦業の基本技術(?)鮮やかな手つきである。今日は力仕事がなく、コア抜き要員として連れてこられたミタニII世の活躍の場はない。
 深度14m付近からシルト礫やロームのカタマリが混じって、沖積層の基底に近づいていることを思わせたが、印旛沼層現れず。明日に期待をつなぐ。
12月×日  これまで記載の中心を担ってきたミタニ・ヒグチの両名は欠席、代理をスエナガサンが勤めて作業開始。前日までの二人に比べるとスエナガサンの記載は細かく、ルーペを使ったり、ヘラでのばしたりと芸も細かい。相変わらず礫やロームの小塊が混じっているが印旛沼層は現れず。午前中17.50mまで掘り進むも、粗粒砂層が続く。
 午後の1本目、深度18.33mから均一の細砂層となって、層相は一変した。印旛沼層である。結局埋没ローム層は現れず。段丘面を外して、斜面を掘ったらしい。18.55mからサンプラーをシンウォールサンプラーに変え、「海苔巻き」から解放されてホッとする。暮れかけてきたため最後の1本の記載が出来ず、凍結防止のため土中に埋めて作業終了。この日の掘削深度20.29m。
12月×日  仕事開始、9:30。ボーリング屋サンの記録と掘削深度に5cmの食い違いがあって訂正する。印旛沼層は泥炭質で材を多く含むようになる。その中にカシワの殻斗とオニグルミの殻がはさまれていた。午後押し出し機故障のため作業を打ち切る。この日の掘削深度26.40m。作業は遅れ気味で、正月以降も作業との話が出始める。
12月×日  シミズダンナ・スギタ・コバヤシの三氏、見物に現れる。ホーチガイサンも風邪直後の病み上がりの姿を見せる。
 押し出し機の修理のため、10:00集合、作業開始。その連絡のつかなかったミタニサンは9:00に現場に現れ、誰もいないので作業はないものと思って帰ってしまう。
 印旛沼層は砂質で、木下層によく似た層相になる。27.50mからはそれまで1ケタだったN値が突然42に跳ね上がり、以後66・54と続く。もう印旛沼層を抜いて、下総層群に入ったのではないかとの観測も出て、作業打ち切りの話になりかけたが、ヒグチサンが頑張って、規定方針通り40mまでは掘り続けることに決まる。
 深度28mよりトリプル管で試料採取。コアは塩ビ管に入って出てくるのだが、押し出し機にセットしても滑ってしまって中身を取り出すことが出来ない。結局ノコギリで縦半分に挽き割ることになって手数のかかることったら・・・・。
 シミズダンナ防寒用に炭を持参し、炉も作ったが、終日暖かく、使用せず。この日の掘削深度31.00m。
12月×日  前日の塩ビ管を切断。下総層群の砂との予想は外れ、材の混じる有機質のシルト層が現れる。これはまだ印旛沼層だ。昨日ヒグチサンが頑張って、作業を打ち切らずによかったとホッとする。深度33.20mより礫層に変わる。最大径4〜5cm、平均4〜5mmの硬質礫である。N値は100〜200に跳ね上がり、いくら叩いても入らなくなる。同じような層相の礫層が続いて記載は簡単になり、試料の採取は厚さ5cmずつポリ袋に詰めるだけになって「海苔巻き」作業からも解放され、余裕の生じた面々は、ボーリング屋サンの苦労するのを、お茶とお菓子とミカンで見物である。この礫層が印旛沼層基底の礫層に違いない。それにしても、このおびただしい量の礫はどこから運ばれてきたものやら。当時だって周囲には硬い岩盤の地層は分布していないはずである。鬼怒川の運び込んだものだろうか、それとも下総層群中の礫層からの再堆積だろうか。不思議なことだ。この日の掘削深度31.00〜35.70mのみ。
12月×日  予定では最終日。朝のボーリング屋さんの話では、掘削深度40mに達する見通しは暗いとのこと。その見通しどおり、ボーリング屋さんが苦労するのを、記載とサンプリングを簡単に終えた面々はダベリながら見物する。11:30、深度37.47mでついに礫層を抜く。きれいに粒のそろった微細砂が現れ、N値も300を越える。ここからが下総層群である。15:30、2mばかり掘った、深度39.30mで作業を打ち切る。
1999年1月×日  ボーリング期間中暖かかった天気も、今日は風が冷たい。いつもの9:00、現場に行くと撤収作業が始まっていた。ボーリング孔からは地下水がコンコンと湧き出している。地主のマルさんが念を押していたのはこのことだ。セメントに小石を混ぜて止めるとのことで、ボーリング屋さんは石を買いに町へ戻る。この間やることもないので、成田市役所にボーリング地点の1/2500都市計画図を買いに行く。その帰り、途中で買った酒1升(ヒグチサンのイレヂエである)を持参し、地主さん宅にお礼と報告に伺ったが、地主さんは下戸であった。

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