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その17.台倉再訪

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チドリノキの雄花
 台倉は君津市の山奥の集落である。3軒の家があったが、40年近く前には2軒は離村し、空き家になった1軒を借りて、「房総自然博物館」が開設されていた。「展示物」は周囲の自然、フィールド調査の拠点である。当時勤務していたN高校には生物部とそのトリマキをメンバーに「房総自然の会」というサークルがあり、僕もトリマキの一人だった。
 初めて訪れたのは1976年のこと、生徒達と一緒に3泊したが、生活用水は下の谷から持ち上げねばならず、夜には布団の上にムカデが降ってくる、台所には5cmを越えるゴキブリがウヨウヨ・・・・。「山村暮らし」の有様に触れた印象が強烈で、まわりの自然がどうだったのか、その中で何をしたのかよく覚えていない。その後数回は訪れたものの、N高校からY高校への転勤もあって、次第に足は遠のき、最後は1990年代の半ばだった。この時は最後の1軒、コウノさんも離村し、博物館はその跡に移っていた。夜に当時データがまとまりかけていた新川低地の植生変遷の話をしたのだが、「山村暮らし」の方は、慣れてしまったのか、季節が遅かったせいでムカデもゴキブリも出現しなかったのか、さしたる記憶はない。
 以下はふと思い立っての、20年ぶりの台倉再訪記である。


●月×日

 フサザクラの花の季節である。この花のことを教えていただいたのはノブハラさんだったか、イワタさんだったか、台倉への谷沿いの道にたくさん咲いていた。あの道は数年前、台風の出水で崩れて通行不能になったとのカゼノウワサである。花粉採集のついでにその様子も見てこようと、カミさんを伴って軽い気持ちで出かけた。
 船塚の集落の先の、台倉からの沢を渡る橋のたもとにクルマを停めて歩き始める。左岸の段丘上を行く道はヤブに埋もれることはなくはっきりと続いて、枯れたマダケの倒れているのを一つ一つ、またいで越えるのが少し面倒なくらいである。やがて段丘は尽き、両側から谷壁が迫ってくると様相はガラッと変わった。土砂と一緒に崩れ落ちた木が逆さまになって、壁に斜めに立てかけたようになっている場所が次々と現れる。枝がついているから檻のようになっているのをまたいだり、くぐったりして通り抜けるのだが、容易ではない。ザックを外し、四つんばいでくぐり抜けたら、向こう側に残したザックを引き寄せ・・・そんなことを繰り返すからなかなか先へ進めない。1時間も歩けば到着するはずの道なのだが、時間はどんどん過ぎて、標高110mの、道が谷から離れて斜面をジグザグに急登する場所に着く頃には12:00を過ぎていた。ここから15分くらいで台倉に到着するのだが、竹藪ごと滑り落ちたマダケが道を埋めている。これではとても通れない。カミさんと顔を見合わせ、あっさりと引き返すことにした。目的のフサザクラはというと、冬芽が膨らんではいたが開花にはまだ早く、出直しである。

●月×日  その一週間後、雨は降ってはいないが崩れるとの予報。あまり気は進まないが、行かねばフサザクラの花粉は来年までお預けである。そうなると永久に「お預け」になりそうで、押して出かけることにした。カミさんを誘うと、「あそこには当分行きたくない・・・」そうな。今度はのこぎりを持って出る。
 いつもの場所にクルマを停めると小雨が降っていた。イロハモミジが葉を展開し始め、花をつけている。たった一週間だが、季節の進行は確実だ。花粉を採集したらすぐに帰るつもりで歩き出す。だいたいの様子はわかっているし、行きと帰りと、前回2度も通っているので少しは歩きやすくなった。それでも先をふさぐ小枝をのこぎりで切り落としながら進むうち、崩れ落ちたフサザクラが手頃な高さに花をつけていた。早速花粉を採取して、写真を撮る。今日の目的はこれで終了、ちょうど雨も本降りである。
 

●月×日

 2度も出かけてたどり着けなかったことが、少しクヤシイ。こうなると半分意地で、三度目の正直、今度こそはと家を出た。
 前回少し枝を切ったせいで大分歩きやすくなった。何をしに行くのか、どうやら僕の他にも台倉へ向かう人がいるようで、新しい踏み跡もある。今回は少し余裕があるので、崩れ落ちている木の種類と数を記録しながら歩く。フサザクラとアラカシが圧倒的に多く、この2種で42%を越えた(右表)。しかしこの結果を、フサザクラやアラカシが崩れやすい不安定な崖地を好んで生えるからだと考えてはなるまい。それよりは、安定した良い場所は他の種類に占領され、この2種は周辺の不安定な場所に追いやられていると見るべきなのではなかろうか。地域全体としてはコナラやスダジイなどの方が圧倒的に多いだろう。しかしそのどちらも、崩れ落ちた木の中で占める割合は少ない。
 なお、表には示していないが、道をふさぐ「木」の中ではマダケの「本数」が最も多い。しかし、マダケは地下茎でつながっているのでどこまでが「1本」なのかわからない。このためリストからは外すことにした。
 前々回引き返した場所からは道を通るのをあきらめ、右手斜面のケモノ道を辿る。去年肩を骨折して以来、山らしい山へも行っていないし、腕も上がりにくくなっている。そんなこんなで、かなりメロメロになって標高差40mを直登し、博物館の裏に出た。
 表に回ると少し傷んではいるが、屋根も壁も意外にしっかりとしている。庭の部分は畑だったように記憶しているが、その面影はない。草で覆われていないのは誰かが定期的に訪れて草刈りをしているのだろう。入り口の扉は障子が破れていて、中を覗き込むことができた。おそらく中に入ることもできたのだろうが、止めにした。その脇には手書きで「房総自然博物館」と書かれた、見覚えのある看板が下がり、ボロボロになった博物館報が掲示されていた。日付は1982年の6月、内容は周囲の自然の案内と博物館の利用心得、宿泊は1泊500円、食費は200円、ただし食料持参であれば無料とある。博物館の絵が描かれているが、わらぶき屋根なので最初の建物であろう。ということは1982年には博物館は最初の場所にあり、その後しばらくして、ここに移ったということだ。にもかかわらず古い館報が掲示され続けているのは、記事の内容が利用の心得であったからなのだろうか。だが最後に泊まった時、この館報がここに掲示されていたかは記憶がない。壁になにやら、紙が挟まれているのを見ると、比較的新しい電気料金の検針票だった。館報の掲示板の上には電気のメーターが取り付けられているたが、動いてはいなかった。もう通電はしていないのだろう。 
 博物館の前に30分も居たろうか。先月の大雪で押し倒されたマダケのヤブをくぐって、稜線の「関東ふれあいの道」に出た。石射太郎山へと道をたどり、猿の餌付け場(当時の小屋がまだ残っていた)で昼食を摂って林道へ下った。途中さわやかな良い匂いのする低木が花をつけていた。見覚えはあったが、名前を忘れていたので持ち帰って調べるとコクサギだった。 
●月×日  何と言うことだろう。前回せっかく台倉にたどり着きながら、写真を撮ってくるのを忘れてしまった。もう一度出直しである。同じコースを辿って博物館の写真を撮り、石射太郎で昼食と昼寝をして、林道へ下る。ついでに、これも前回撮ることを忘れたコクサギの雌花の写真を撮った。これでもう当分、ここへ来ることはあるまい。 


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