花見川開削遺跡を歩く
![]() |
新川-勝田川水系と花見川とをつないで、印旛沼の水を東京湾へと導く工事は、江戸時代中期の享保9(1724)年、平戸村(現八千代市平戸)の染谷源右衛門等が幕府にその実施の許可を願い出たこと(「享保普請」)に始まりました。この工事は、利根川の流路を東京湾から太平洋へと付け替えたために頻発した印旛沼周辺の洪水の軽減と、沼の干拓による新田開発が目的でしたが、資金不足のため途中で中止されました。以後、安永9(1780)年(「天明普請」)と天保14(1843)年(「天保普請」)にも同様な計画が立てられ、工事が実施されたもののいずれも失敗し、現在の姿となって完成するのは、250年近く経った昭和44(1969)年(「印旛沼総合開発事業」)のことです。 これらの工事の内容や経過については、それぞれの場所を見る際に、必要に応じて簡単に触れましたが、順序立てて述べてはいませんし、断片的でもあります。これらについては、鏑木(1998,2001,2008)や栗原(1972)等たくさんの本が出版され、Web上にも多くのサイトがありますので、それらをご覧ください。 それではこれらの工事にまつわる様々な「遺跡」を見ていくことにしましょう。 |