解答13.
地蔵は2体です.
この地蔵は「お女郎地蔵」と呼ばれて,船橋宿の水商売の女性たちの信仰を集めてきたものです.
特に江戸時代以降,江戸の人々の間で成田詣でが流行するようになると,船橋は成田街道最大の宿場町として発展するようになりました.旅籠屋は寛政年間に22軒,文化年間に25軒,天保から明治にかけて29軒ほどあり,いずれも九日市にありました.その営業権は株式で規制され,新規に開業する際は譲渡,買い取り等によって株式を取得する必要があり,既存の業者の既得権が厳しく守られるようになっていました.
これらの旅籠には「八兵衛」と呼ばれる飯盛女−遊女−がおり,船橋大神宮と並ぶ船橋の名物として,江戸の人々の間で有名でした.時代の戯作者,十返舎一九は次のような文章を残しています.
「その日は船橋のゑびやといへるに宿かりてやすらひたるに,あるじ出て八兵衛なんめさるべくやといひたるを,いと怪しみて,いかにといふに,余が僕太吉なるものいへる.この駅の飯盛女を八兵衛と申し侍るは,古きことのやうに聞へはべれど其のゆゑはしりはべらずと打笑いぬ.かの遊女のさまは髪かたちことようにて,広袖のあかつきたるを身に纏ひ,足に紺の足袋をはきたるは,いと似気なくて,さながらをのこのいかめしき姿なりければ
上総には七兵衛景清あるやらん此処に下総八兵衛飯盛・・・・・」
異様な髪型,垢だらけの広袖を着て紺色の足袋をはいた,男のようないかめしい遊女の出現には,一九もさぞかし度肝を抜かれたことでしょう.
遊女を「八兵衛」と呼んだのは,その言動が粗野で,「・・・・・・ベェ」というこの地方の方言(例えば”行こう”というのを”行くベェ”と言う)を,一夜のうちに800回も使うから(八百ベェ→八ベェ→八兵衛)とも,成田詣での人々が彼女らを買うのを「行きにしベェか」「帰りにしベェか」と迷うので,あわせて「八ベェ」(”しベェ”を”四ベェ”としゃれる)というのだともいいます.いずれにせよ,江戸の人々が田舎女郎を嘲笑して作った言葉でしょう.
これらの旅籠は明治にはいって,飯盛女は「娼妓」に,旅籠は「貸座敷業」と呼び名を変えて存続しましたが,総武線の開通をきっかけに徐々に数は減って,1916(大正5)年7戸にまで減ってしまいました.しかし当時習志野原にあった陸軍の休日には門前に列ができるほどの繁盛ぶりだったといいます.
これらの貸座敷業者は1926(大正15)年,県の命令で,市の中心部から九日市と海神との入会地に移されること(「新地遊郭」)となりました.新地遊郭は3年後の1929(昭和3)年に開業しましたが,この地図は1928(昭和2)年に描かれており,ちょうど「歓楽街」の空白期にあたっていますから,貸座敷業者の名は書かれていません.
この時九日市から新地遊郭に移った業者は1軒だけで,他は全て転廃業し,以後船橋の貸座敷業者は,船橋宿内の土着の人々から外来の人々へと経営が移って,江戸時代からの船橋旅籠屋の伝統は絶えることとなります.
新地貸座敷業者は,1929(昭和3)年末に12軒,娼妓55人で始まり,次の年には19軒85人となって次第に増え,昭和30年代の初めには72軒となりましたが,1957(昭和32)年4月の売春防止法の施行によって,その姿を消しました.
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