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新川低地の地質

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 新川低地においてはこれまで、5本のオールコアボーリングが行われています。その位置については別ページをご覧ください。また、平戸宮内勝田のボーリングの詳細についても、それぞれのページをご覧ください。
 下の断面図(稲田,2008)はその結果と、A・E両地点間の送電線鉄塔、北総15(辺田前)・16(砂戸)建設時に行われたボーリング調査結果をもとに描きました。 図の左側が下流域です。
 V字谷の時代の谷底であった、沖積層と上岩橋層との境界の深さは下流域ほど深くなるはずですが、c地点(保品)でそれがやや浅くなるのは、ボーリング調査が低地の中央部よりも南寄りの、台地の近くで行われたためです。また、A地点(桑納川合流点)と北総15(辺田前)との間で急激に浅くなりますが、この間で桑納川低地の谷が分岐し、谷の規模が小さくなるためでしょう。
 B地点(平戸)において、沖積層と上岩橋層との間に、厚さ60pの砂層が挟まり、この地層中から得られた材化石からは、約3万年前という年代が得られました。この年代は河岸段丘堆積物Uとほぼ同じものです。新川低地におけるこの地層の分布は、他に知られていません。印旛沼北部調整池周辺の地下には「印旛沼層」と呼ばれる、約3万年前の海成の地層が分布しています(楡井・楠田,1993)が、河岸段丘堆積物Uの堆積と川の下刻作用の中断は、印旛沼地域への海進で示される、海水面の一時的な上昇に寄ってもたらされたものと考えることが出来るでしょう。平戸地域における本層の堆積も、同じ要因によるものでしょう。
 新川低地に古鬼怒湾が進入し、それが宮内(E地点)付近に達するのは、b層下部から得られた材化石の炭素同位体年代から見て、約7100年前のことです。古鬼怒湾はその後、3000年あまり宮内周辺にとどまり、約4100年前に退いていったと考えられます。しかしD地点(勝田)にはb層は分布せず、古鬼怒湾は到達していません。地層の堆積開始年代も、下流部4地点に比べて大きく遅れ、最下部の砂層がつもり始めるのは約4500年前になってからで、下流部のc層とは年代が異なります。砂層を覆うa層の層相は大きく二つの部分に分かれ、上部50pは草本質の植物遺体を多量に含む泥炭層、下部110pは材化石の破片を多量に挟む木本質の泥炭層からなっています。宮内ではb層直上の、厚さ14pの木本質泥炭層を、草本質泥炭層が覆っていますが、A〜Cの下流部3地点では木本質泥炭層を欠き、a層は全層準が草本質です。勝田と宮内の間のデータが不足し、両地点間の地層のつながりはよくわかりませんが、木本質泥炭層は谷奥の低地にのみ分布し、宮内付近を境界に、古鬼怒湾の海進の及んだ下流域では堆積しなかったのではないでしょうか。


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