2003.6.19. ver. 1.01
酒井 聡樹(東北大学大学院生命科学研究科)
2005.10.20 から数え直し(本文章の初出は 2003.6.11)
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若手研究者のお経
目次
I. はじめに
II. 料理で成り立つことは野球でも成り立つのか
III. 喩え話しの錯覚
IV. 終わりに
物事を理解してもらうために「喩え話し」がしばしば使われる。たとえば(といきなり使う)「これから論文を書く若者のために」(共立出版)で私は、 イントロダクションで書くべきことを理解してもらために徳川幕府の埋蔵金の喩え(同書 p. 58-59)を用いた。喩え話は、受け手にとって馴染みの無いこと・イメージし難いことを理解して貰うのに有効である。しかし、喩え話は危険でもある。 「うまい」喩え話に騙されて納得した気になっていることが多いように思うのだ。本稿では、こうした「喩え話しの錯覚」について書いてみたい。
藤沢晃治さんの著書「「分かりやすい表現」の技術」(講談社ブルーバックス)にこんな喩え話が載っている (同書 p. 42)。横浜ベイスターズというプロ野球の球団が日本一になった時に大活躍したらしい佐々木という投手(先発ではなく抑えとして、試合の最後に出てきたそ うだ)に関しての、権藤という監督への質問だ。
「なぜ、佐々木投手を先発に、とはお考えにならないのですか?」
「僕は先発よりも抑えを重視するんです。料理の途中で、刻んだ玉ねぎやにんじんをひっくり返されても大したことないじゃないですか。それよりも、あと少し
でできあがる、皿に盛った料理をひっくり返されるほうがいやじゃないですか」
藤沢さんは、この説明をわかりやすい例としてあげている。しかしこの説明、私にはさっぱりわからない。ほんとうに、さっぱりわからな
い。なるほど、刻んだ段階で料理がひっくり返されるよりも、皿に盛った段階でひっくり返される方が嫌である。それはわかる。ではなんで、「先発よりも抑え
を重視する」のか?
権藤氏はその理由を、野球の論理の中では一言も語っていない。理由に相当することとしては、料理の喩えを述べているのみだ。料理ではそうだ
からといって、どうしてそれが野球に当てはまるのだ?
料理の場合、切った材料を引っくり返されても、ほとんど確実に元に戻すことができる。料理を仕上げるのに影響はゼロといってよい。だから、初めの方に
ひっくり返されるのは何ともない。一方、皿に盛った段階でひっくり返されたら、多くの場合その料理は台無しである。「引っくり返されること」の痛手は、料
理の最初と最後では天と地ほども違うのである。これが、料理において、後の方でひっくり返されるのが嫌な理由である。
それに対し野球の場合、いつ被ろうと一失点は一失点だ。初めの方に失点をして負けてしまうこともあれば、後の方に失点をして負けてしまうこともあるであ
ろう。権藤氏にとって、同じ一失点でも、初めの方に失点するよりも後の方に失点する方が痛手が大きいのだと想像する。ではなぜそうなのか?「料理ではそう
だから」と言っても何の説得力も無い。
料理で成り立つことが、どうして野球でも成り立つのか?
この説明抜きに、「別世界でのことに喩えること」だけで済むのならば、権藤氏とは別の主張をすることも可能である。
「先発の方が大切です。良い家を造るのには土台がしっかりしていないといけないじゃないですか。」
「実は、先発でも抑えでもいいんです。ジャンケンに二連勝したら商品が貰えるゲームでは、一回目に負けるのも二回目に負けるのも同じじゃないです か。」
権藤氏の論理とこの二つの論理は、どれも同等に「説得力」がある。優劣はつけられない。
世の中には、後の方が大切なもの(e.g.,
料理)・始めの方が大切なもの(e.g.,
建築)・どちらも同等に大切なもの(e.g.,
ジャンケン)がある。だから、「自分の考え+それに合うもの」という形式で、三つの異なる主張をすることができる。権藤氏はその内の一つをやって見せたに
過ぎない。自分の主張(先発よりも抑え重視)が、他の二つの主張(抑えより先発重視・どちらも同等に重視)より優れているということは何も説明していな
い。
III.
喩え話しの錯覚
権藤氏の喩え話しに納得した人は、喩え話しの錯覚にはまっただけである。この錯覚の構造をまとめてみよう。
1. A においては B である。
2. これは、C においては D であるのと同じである。
1 と 2
がどうして同じなのかの説明は無い。受け手は、自分がよく知っている C
の世界を思い浮かべ、「なるほど C においては D
である」と納得する。そして、「同じように、A においては B
なのか」と納得してしまう。
しかし、1 と 2 は別の世界(e.g.,
料理と野球)の事象である。だから、2 が納得できるからといって、1
も納得できる理由はどこにもない。
「なぜ、雨が降ると傘を差すのですか?」
「雨雲に顔を見られたくないからです。会いたくない人を道で見かけたら、鞄とか雑誌とかで顔を隠すじゃないですか。」
「なぜ、サッカーのゴールには網が張ってあるのですか?」
「蚊が入ってくるからです。家でも網戸をするじゃないですか。」
「なぜ、建物の土台よりも室内装飾に力を入れるのですか?」
「家造りは後の方の作業が大切だからです。料理でも、材料を切った段階よりも、出来上がって盛りつけた料理を運ぶ段階の方が気を使うじゃないですか。」
この三つの主張に納得する人はいまい。しかし、論理性という点では、権藤氏の主張と同等である。自分の主張(A においては B である)と似た事象を拾ってきて喩え話しに出しても、自分の主張の正しさを説明したことにはならないのだ。
IV. おわりに
私は、喩え話しは役に立たないなどと言うつもりは毛頭ない。いや、喩え話は有効である。本稿で用いた料理と野球の話しも喩え話であり、私の主張を理解し
ていただくのに役に立ったと思う。問題なのは、「喩え話の世界では成り立つから」ということだけを示し、自分の主張は成立するかのように思ってしまうこと
だ。喩え話の役割は理解の手助けであり、それ以上のものではない。このことを理解して用いれば、喩え話は説明の大きな武器となると思う。