クイズ史の独自研究
第一章 クイズ番組の原型「話の泉」
日本クイズ史を分析する際は、GHQ内の民間情報教育局(CIE)の指導を受けて制作されたラジオ番組「話の泉」(NHK
1946〜64)をスタート地点にする場合が多いようです。よく知られているように、この番組はアメリカの人気ラジオ番組「Information Please」を輸入したものです。ラジオ放送を通して日本を民主化教育する目的で、アメリカのクイズ番組が輸入された流れに関しては、『クイズ文化の社会学』(2003)に詳しく書かれています。
初めに注意を促しておきたいのは、「話の泉」制作によってCIEが目指していた「民主化教育」がどういうものだったのか、その具体的なあり方がよくわかっていない、ということです。たとえば、クイズ番組を通じて、戦前の家族に見られる家父長的な関係性を突き崩すことを意図した、というような考え方が「Wikipedia」に紹介されていますが、管見ではそれを裏付けるような資料は発見できませんでした。この日本クイズ史の出発点としての「民主化教育」の内容をどう理解するかによって、クイズ史の描き方が大きく変わってくる可能性があります。言ってしまえば、クイズ論者は、自らのクイズ論の展開にとって都合の良い形で、「民主化教育」の内容を措定することが可能である、ということでもあります。CIEによるラジオ放送指導については、研究者やNHK放送文化研究所による研究が現在進みつつありますので、今後の動向が注目されます。
本稿では、「聴取者の声が反映された番組」「聴取者が参加する番組」を制作すべし、という指導にのみ注目します。これは、戦前戦中のラジオ放送が上からの一方的な情報伝達であったことを突き崩す意図をもって、占領初期のラジオ番組制作において一般的に行われていた指導でした。「話の泉」に限ったことではありませんが、「聴取者の参加」という、いまなおラジオ文化を形作る重要な要素が、この時期にアメリカから持ち込まれたのは間違いありません。
では「聴取者の参加」はどのような形で行われたのか。「NHK放送史」HPでは、「話の泉」を次のように説明しています。
「話の泉」
日本で初めてのクイズ番組。聴取者から寄せられた問題に、博学博職の解答者が10秒以内にユーモアを交えて答える。出演者の魅力とともに難問奇問で人気を呼んだ。聴取者からの出題は1日1000通を超え、採用されるのは1300通に1通という難関であった。当初、採用された問題には30円、解答者が解答できなかった問題には50円の賞金が出された。知的な推理ゲームとして定着し、18年間873回続いた。
このように、「話の泉」は出題される問題を聴取者からの投稿に負っていました。採用されると賞金が出たことも相まって、毎週すさまじい量の応募があった。加えて本番組は500名ほどの聴取者をスタジオに招き、公開録音が行われていました(ただし公開録音は放送第12回から)。さらに地方の聴取者の要望に応える形で、大阪・仙台・名古屋・札幌・広島等でも公開録音が行われたということです(日本放送協会『ラジオ年鑑 昭和23年』の記述より)。この「問題の投稿」「公開録音」というシステムの導入により、「聴取者参加」という要素が満たされ、戦前戦中よりも「民主的」な放送が実現されたことになります。しかし、この番組が一般の耳目を集めた理由は、決して「聴取者参加番組だった」=「民主的な番組だった」ということだけにとどまりません。
先の「NHK放送史」HPでは、当時の放送をごく一部ですが聞くことができます。
出題者「これから並べる数字はいったい何を表しているでしょう。三・三・四。」
解答者A「三・三・九なら分かるけどなあ」
出題者「まだ数字をもう一つ言うと分かるんです。前の方を。三・三・四の」
解答者B「あーそりゃ学校だ。六・三制のね、六・三・三・四でしょ。」
出題者「はい、よろしゅうございます」
解答者B「だけどね、私の場合はね、もう少しかかりますな。六・六・六・六くらい かかりますな」
解答者Bはサトウハチローです。最後の言葉は、自分が中学を退学したことを踏まえた「くすぐり」でしょう。クイズの解答に関するやりとりの中で聞かれる、こうした軽妙な会話が魅力だったのです。
「話の泉」の魅力である軽妙なやりとりを支える要素として、一つには個性的な解答者(今で言う文化人)の存在がありました。では、どういう人が解答者に選ばれていたか。事実として言えば、解答者はCIEによる入念なオーディションによって選ばれていました。ですから、占領政策にとって不都合ならざる人物であることが最優先されていたと思われます。しかし、そうした要素をいったん脇に置いてみると、解答者に共通する要素として、話題が豊富であり、話術に巧みであることが挙げられます。例えば解答者のひとりである徳川夢声は、元々活動弁士であり、『話術』という本を書くほど話芸に優れた人物で、該博な知識を活かし多数の著書を残しています。また、同じく解答者であった音楽評論家の堀内敬三は、マサチューセッツ工科大学で修士号を取得する傍ら、訳詞や作曲もこなし、後にラジオ番組「音楽の泉」の名曲解説で評判となった人物です。話術に優れ、今で言う「キャラの立つ」人物が、クイズ問題をネタにして面白い話をする、というスタイルが人気を博していたのです。
もっとも、面白い話をする人が複数いればそれだけで番組が成立するわけではありません。クイズ問題の出題に加え、解答者連を適切に仕切り、番組を的確に廻していく力のある「司会者」の存在が必要になります。ここに登場したのが、初期の司会者であるアナウンサー・和田信賢です。和田の持つ、当時のアナウンサーとしては特異なパーソナリティーが、その後の日本のクイズ番組における「司会」のスタイルを形作った。和田は放送開始当初三十四歳という若さ(他の解答者に比べれば)でしたが、幅広い知識とアナウンサーとしての豊富な経験を武器として、会話の中で解答者と堂々と対峙し、番組を進行していきました。
信賢は『話の泉』の中では敵役に徹してゲストを切りまくり、番組が終わると切りまくった相手と盃を重ねた。(『或るアナウンサーの一生 評伝和田信賢』山川静夫1986)。
和田と解答者、丁々発止のやりとりが視聴者に受け入れられた。ということは、この番組はどちらかというと「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、解答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったということです。『ラジオ年鑑 昭和23年』では、「話の泉」「二十の扉」について「サロン遊戯」に属するものであるとしていますので、この見方は当たっているように思います。「サロン」とは、「会話をする場所」という意味のことだからです。
このことは非常に重要です。この後のクイズ番組も、ずっとそうでありつづけるのです。テレビ番組に即して表現し直すと、おおざっぱに言って「クイズ番組」とは、「クイズそのものではなく、クイズをしている人を見る番組」だということです。さらに言い換えるならば、クイズ番組は「クイズをする人」のための演出ではなく、「クイズをしている人を見る人」のための演出を心掛けてきた、ということです。この点は本論で今後も繰り返し出てきますので、頭に留めておいていただきたい。
また、山川前掲書によると、和田は問題選びにも深く携わっていたようです。問題は全国から募集していましたが、プロデューサーとアシスタント・ディレクターが二人で約百通にしぼり、公開録音の前日に和田とプロデューサーが二人でそこから十三、四通を選んでいた。
それも、一般常識、文芸、科学、地理、歴史、娯楽、子供、音楽、スポーツなど、あらゆるジャンルに平等に行きわたるように按配した。(山川前掲著)
一般投稿の問題から出題問題を選ぶ作業が公開録音の前日に行われていた。ということは、問題の「ウラ取り」がそれほど精緻に行われていなかったのではないか、という疑念も湧きます。放送されるクイズ問題に正確さが求められる現代からすると違和感を感じるかもしれません。しかし、別に勝ち負けを本気で決めようとしているわけではありませんし、文化人解答者が面白いリアクションをし、トークを弾ませるための題材として問題を利用するのが番組演出のメインなわけですから、厳密性は二の次だったのだろうと思います。面白い問題を多く集めること、かつ正解できそうな問題の割合を調整すること(『ラジオ年鑑 昭和23年』によると正解と不正解の比率は6:1だったそうです)、出題ジャンルをばらけさせること、こうした条件を満たすには、大量の問題から面白い問題だけを選び取るのが最善です。そのシステムが完璧にできあがっていたわけです。
和田は出題、解答者とのやりとり、正誤判定、問題選定を担っていたわけですから、クイズ番組の司会の元祖であると同時に、クイズ番組の制作者の元祖でもあった。制作側の人間として、番組の全てを取り仕切る存在が「司会者」である、というスタイルが確立します。バラエティー番組の司会者の原型さえもここに見ることができるわけです。なお、当時既にNHKを退職していた和田を、放送第3回からの司会に推挙したのは、やはりCIEでした。これには様々な事情が絡んでいたようですが、結果的には日本のバラエティー番組の行く末を左右した出来事だったと言えます。
放送開始から6年弱、1952年に和田は40歳の若さで亡くなりますが、その後も司会者を換え、実に18年にわたって放送されました。和田の後を継いだのは、その後も司会者として生涯活躍し続ける高橋圭三でした。高橋はその後テレビのクイズ番組の草分け的存在である「私の秘密」の初代司会をつとめ、のちにフリーアナウンサーとして司会業というポジションを確立します。高橋の後を継ぐ八木治郎も同様です。同様に他の番組からも、アナウンサー経験のある個性的な司会者が続々と育ち、バラエティー番組が隆盛を極める準備ができていくのです。
では、ここまで述べてきたことから、「話の泉」に含まれる「クイズ番組を面白くする要素」をまとめてみます。
@ 視聴者を巻き込んだ作り(本番組の場合は問題投稿・公開放送)
A 「クイズをしている人」を見せる(本番組では解答者と司会者の軽妙なトーク)
B 良問の選定(問題の大量収集、リアクションのとりやすい問題の選定、正解率調整、ジャンル調整)
C 名司会者の存在(番組すべてを取り仕切る存在として)
これらは、後に登場するほとんどのクイズ番組にも見られる必須要素として捉えられていきます。そして、現在ではわざわざ指摘する必要がないくらい当たり前な構成要件として、全てのクイズ番組に溶け込んでいるのです。ただし、構成要件はこれで全て出そろったわけではありません。もう一つ重要な番組を次章で研究することで、ほぼ出そろうことになります。
本章の最後に、よく話題になる初期の「クイズ番組」を2つほど取り上げ、簡単に分析しておきます。まず、先ほど「サロン遊戯」と表現されたもう一つの番組「二十の扉」(NHK1947〜60)です。
「二十の扉」
アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(二十の質問)をモデルにした番組。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題。解答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を出す。質問を扉とみなして20の扉を開けていく、テーマ曲を使わないで扉をノックしてから開ける音で番組を始めるなど、日本独自の工夫がされた。問題はすべて聴取者から寄せられた。(NHK放送史HP)
知識を題材に問題を作るわけではないからか、聴取者からの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多かった。1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。
「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」と言えます。「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、ゲーム性をとことん追究していました。企画段階では1か月半、週3回ほど「テンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われ」(『ラジオ年鑑 昭和23年』)たことにより、スピーディーな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になりました。番組終了まで司会を担当した藤倉修一の功績は非常に大きかったと言えます。
また、観客は答えを知っており、解答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きる。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりする。そしてそれが解答者に対してはヒントになる。こうした形で観客も番組に参加していたのです。
このように「話の扉」との違いはあるものの、先の「クイズ番組を面白くする要素」についてはほぼ本番組でも踏襲されています。繰り返しになりますが、次の通りです。
@ 視聴者を巻き込んだ作り(本番組の場合は問題投稿・公開放送)
A 「クイズをしている人」を見せる(本番組ではゲームを楽しむ人を見せる)
B 良問の選定(問題の大量収集、リアクションのしやすい問題の選定)
C 名司会者の存在(番組のテンポを生みだす存在として)
もう一つ、日本のクイズ文化において、初の「国産」のクイズ番組と呼ばれることがあるラジオ番組「とんち教室」(NHK1949〜68)について触れておきます。
「とんち教室」
「尻とり川柳」「やりとり都々逸」など奇抜な題材による言葉遊びの番組。司会の青木一雄アナウンサーが先生、各界の個性豊かな著名人が生徒となって授業の形で進行。意表をつく答えやひょうきんな答えをして、先生とユーモアたっぷりにやり取りした。年度末の終業式では生徒は毎年留年。番組は19年間958 回続き、先生も生徒も19年かかってようやく卒業式を迎えた。(NHK放送史HP)
青木先生が「ぶらじるとは、どんな“ジル”?」とやれば石黒七段(柔道家)は「南米(なんべェ)でも飲める汁」とアドリブで答える。(『軟派昭和史』スポーツニッポン新聞社文化部編1975)
以上の引用からも感じられることですが、この番組は後代のクイズ番組に影響を与えたとは言い難い。むしろ「お笑いタッグマッチ」(フジテレビ1959〜67)など、後代の演芸番組等に強い影響を与えたと考えられます。事実、放送史の研究の中では、この番組を「クイズ番組」というジャンルに分類していないことが多いのです。それでも「クイズ番組」として認識された理由があるとすれば、日本文化に連綿と続く「なぞ」の伝統に求めることができるように思います。
日本のクイズ文化がアメリカ由来である、という言い方は、一面においては真実でしょう。しかし、たとえアメリカ由来のものであっても、戦前までの文化状況に沿わないものが、そう短期間で熱狂的に受け入れられることはない。そう考えるのが自然です。日本文化には「なぞ」の伝統が古くから存在していますが、これがアメリカ由来のクイズ番組文化を受け入れる素地になっていた、というのが私の見立てです。
「なぞ」とは、おおざっぱに言って「なぞなぞ(二段なぞ)」「なぞかけ(三段なぞ)」を合わせた概念です。「なぞ」文化は平安時代を起源とし、中世から近世にかけて書物(今風に言えば「問題集」)によって知識人の間に広まりました。近世には口承文芸的・子どもの遊び的な要素が強くなり、同じ「なぞ(主に二段なぞ)」が繰り返し出題されながら、全国に伝播していきます(鈴木棠三『なぞの研究』に詳しい)。「口承文芸的」であった、という点が特に重要です。こうした文化が受け継がれていたことで、問答形式によるラジオのクイズ番組を受け入れる素地が、既に文化的に十分醸成されていたと考えられます。「とんち教室」は現在の感覚からすれば「クイズ」というより「なぞかけ」に近い。それなのにクイズ番組に分類され得るという事実は、以上の分析が正しいことの裏付けであるように思えてならないのです。
(第二章に続く)