6 漢字検定雑感2〜なぜこんなページを作ったか〜

A 漢字検定に思うこと

 2000年1月の試験に合格し、晴れて準一級を獲得したわたしに、「日本商工会議所会頭賞」受賞のお知らせが来たのは、合格通知が届いてからしばし経った後のことであった。なんでも、各回・各級の合格者の中から成績上位者を表彰する制度があるということで、わたしの賞は「文部大臣(当時)奨励賞」「日本漢字能力検定協会賞」に続く上から3つ目(各回・各級1人)。このときの準1級の合格率が3.8%と低かったのが幸いだったのだろう。なお、得点は188点(自己採点)。表彰してくれるというのだから有難く頂戴したが、東京で行われる授賞式は、学校の終業式の日と重なったので参加しなかった。

 驚いたのは、表彰式が極めて盛大に行われているらしいことだった。今でも年に何回か送られてくる漢字検定情報誌「樫の木」には、その様子が記されている。表彰式は漢字検定協会の本部がある京都と、東京とで年1回行われる。参加にかかわる交通費はすべて漢字検定協会が持ってくれる。参加しなかったわたしのもとにはカップと賞状(手書き風のちゃんとしたもの)が送付されてきた。

 別に自慢しているわけではない。要は「漢字検定協会は儲けておるのぅ」ということを言いたいのである。わたしが漢字検定協会に支払ったお金は準1級と1級の検定料合わせて11000円。協会で出している図書を含めれば20000円近くになるだろう。もし東京の授賞式に参加していれば交通費で20000円がチャラになるから、別に「くそー、高い金を持っていきやがって!」という気持ちにはなっていない。

 一方、現段階での漢字検定の合格率、繰り返し受験する人の存在などを考慮してみると、漢字検定にいくら支払ったか分からない、というくらい払いまくりの方々が必ず存在する。特に合格への道のりがとたんに長くなる準1級以降は、その傾向が顕著になる。今年の1月の1級試験、秋田県会場では30人くらい受けていたと思うのだが、合格したのはわたしを含めて2人。準1級のときはもっと受けていたが、合格したのはわたしだけだった。下手すると1級合格者がいないときもある。1級受験料6000円は、決して安くはない。

 漢字検定協会の運営は、こうした「リピーター」と呼べる人々のあくなき挑戦に支えられている、と思う。リピーター心をくすぐる要素はたくさんあろうが、2つ紹介しよう。

 ひとつには、級別を細かく設定することにより、「少しずつ力がついてきているぞ」ということが自分で分かっていく、という要素である。その意味で「準2級」の設定は商売上、実に上手い。ほんのちょっと(人名用漢字を含むか否か)だけ2級と範囲が異なる級の存在が、2級リピーターの琴線に触れることは想像に難くない。準2級を合格すれば、もう2級を合格するしかない。あくなき挑戦心に、更に火がつくというわけだ。

 また、級別の細かい設定には「家族で参加する漢字検定」というイメージを付加しやすい。つまり「戦後民主主義的理想的家族像」を再び感じさせるノスタルジーを、漢字検定はその設定上、もっとも体現しやすいのである。もしかしたら「漢字を通して家族の絆を深めよう」と、本気で考えているオトーサンオカーサンが、いるかもしれない。そうしたいのだったら、オトーサンオカーサンは、せめて準1級くらいの知識を持って、漢字のおもしろさを語ってあげなければいけない。キャッチボールができないオトーサンが、子供と野球をやることは絶対無理なのだ。リピーターとはちょっと違うが、漢字検定協会を儲けさせる要素として「家族受験」は欠かせない。

 ちょっと話がずれた。くすぐる要素2つめは、「見事なまでの難易度設定と、微妙な問題傾向の変化」である。

 漢字検定の問題、特に1級が分かりやすいのだが、文部省認定になってからの問題を第1回から子細に眺めてみると(旧版の「漢字必携」にある)、問題傾向が少しずつ変わってきていることに気付くだろう。熟字訓の問題が今の2〜3倍。しかもそこに並べられた熟字訓はたいてい何処かで見たことがあるようなものばかり。つまり、実に易しかったのである。おそらく平成4年度くらいの問題であれば、準1級取得者でも1級の問題で合格点近く獲得することができると思われる。

 いまでも熟字訓重視だった頃の影響を払拭し切れていない問題集をよく見かけるが、その傾向は長く続かなかった。数年してその傾向が変わる。書き取りの問題が少しずつ易しくなり、読みとりの問題がどんどん難しくなっていった。この変化に加え、細かいレベルでは「旧字体の問題数の減」「四字熟語の意味を問う」などの変化。こういう微妙な変化は、「合格率の調整」という意味を持っているような気がする。

 出題傾向をあまり変化させ過ぎると「勉強のしようがない」という敬遠の気持が受験者に生まれ、逆にあまり固定化しすぎると各種問題集の対策問題の餌食となる。その間の実に微妙なところをかいくぐるようにして、漢字検定1級の問題は作られているのである。「読みとり問題難化」も、この文脈で考えることができる。漢字の読みというものは、完全に漢字の字面に引っかけて覚えることはできない。「成」「誠」「盛」は「セイ」と読む。でも「盛」は「ジョウ」とも読む。「撤去」「撒布」の読みの違いも同様。つまり、一番覚えるのが大変(=理屈が付けづらい)な部分である。ここを難化させることは、「もう少しで合格点に届いたのになぁ」とリピーターを悔しがらせ、反省させる一番の方法であろう。「惜しかったなぁ」と思わせることが、再受験させる一番の方法なのだから。

 かくして、かような要素を上手く出している漢字検定は、なかなか合格しないリピーター相手にどんどん稼いでいくことになるのである。「漢検漢和字典」(漢字検定の学習にはあまり役に立たない)まで出してしまった漢字検定は、職業につながらない資格試験の中では、既に王者の風格すら感じる。

B 漢字検定業界に思うこと

 別に漢字検定協会が儲けてもよい。少しも「阿漕な」商法とは思わないし、日本国民の目を漢字に向けさせている、という点において、非常に有益に働いていると思うから。いや、皮肉じゃなく、本心から。漢字の山に挑戦しよう、という気持ちを起こさせるのが上手い、というのは良いことだ。

 ただ、あまりにも「合格する勉強法」が語られないことに、腹を立てているのである。漢字検定の問題集は、どれを開いてもたいして良い勉強法を記してくれていない。漢字検定協会の出版物は言うに及ばず、民間レベルの問題集でも駄目。もっとも、2級までなら問題集を2〜3冊やれば確実に合格する。これは誰でも分かる。だから準1級以上にもこの方法を援用しようとする。問題集を2〜3冊やっただけで準1級の試験に臨む。まあ間違いなく不合格となる。何故だろう。そこに反省が生まれなければ、リピーターになってしまう。

 合格対策を、真剣に論じた本が無かった理由ははっきりしている。要は合格対策を見出せなかったからである。それでも準1級は問題集が多くなってきたし、範囲が比較的広くないから、出題範囲すべてを2〜3か月で網羅することができる。ところが1級になると「網羅」作戦ではどうにもならなくなる。範囲が広すぎるのである。また、問題集が少なすぎるのもある。とにかく、体系的な「学習法」を見出すことが難しいのである。そうなると、どうやって勉強したものか、実に悩ましい。悩ましいから「漢字の世界を逍遥し、どっぷり楽しんで、そのうち合格すればいいや」という気持ちになる。だから直前の学習にもそれほど実が入らない。下手すると漢字そのものが嫌いになってしまうかもしれない。

 はっきり言って「漢字そのもの」の楽しさを味わうには、漢字検定では物足りない、と思う。漢字の深淵なる世界に魅かれ、誘われるように漢字検定を受験する。至極目に浮かびやすい場面ではあるが、わたしは漢字検定を「漢字の深淵なる世界を体験するために受験する」ことを薦めない。なぜなら、漢字検定1級に合格するのに必要な力は「いささかの漢字力」と「試験への対応力」とに過ぎないからである。そこには「試験を受けるのが得意かどうか」という、およそどの試験にも共通な「要領の良さ」だけが求められている。むしろ漢字の深さを味わい、学習していくためには、漢字検定とは離れた部分で様々な書に触れることのほうをお薦めしたい。

 とは言え、やはり「漢字の楽しさに触れて、いろいろ覚えていくことは苦痛ではなかった」という方は多いようで、インターネット上の「合格体験記」はその筋で書かれてあることが多い。しかし、暗記が苦痛でしかない私のような人間には、その気持ちはまったくわからない。いくら「漢字そのもの」が好きでも、「蕩」と「とろける」と読んで「とける」と読まないことは、覚えて面白いものではない。暗記嫌いな私には、漢字検定の勉強は或る意味苦痛であった。でも、漢字について勉強したい気持ちはもちろんある。この気持ちと漢字検定の勉強をどう折り合いつけるか。

 とすると、やっぱり漢字検定にとっとと合格してしまって、その後気が向いたら漢字の勉強を深めていく、というのが理想スタイルのような気がする。そのためには、とにかく漢字検定を最低限の努力で合格してしまおう。私自身はそのように考えていた。試験である以上、傾向と対策は存在するし、効率の良い勉強法はあるはずだ。そう考えていろいろごちゃごちゃ試験勉強を行ってきた。その方法を紹介することで、少しでも漢字検定の合格法を、皆さんなりに真剣に考え出していただければ幸いである。

 なお、私自身、漢字検定1級を取得後、それほど漢字に関心がなくなってしまったことを付け加えておきたい。

 (11月10日)さらに付記。また漢字に興味が沸いてきた.周期的なものなのかもしれない。

 

 

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