6 クイズと俳句はよく似てる

A 「発想」ということ

 大学3年で文学部に進学したとき、野山嘉正先生というその年退官なさった教授の「正岡子規に関する演習」という講義に出席していた。東大の授業は出席をうるさく言わないから参加者は異常に少なかったが、毎週楽しみにしていた。で、そのとき教授から教わった一番興味深かったことは「正岡子規の俳句は、そんなに上手くない」というものであった。

 国語の教諭になりたい、というだけの理由で文学部に行った人間だったから、別に文学的素養があるわけではない。谷川俊太郎が好きだったから「詩」はそこそこ読んでいたが、俳句の良し悪しは全く分からない。大学の頃は「奥の細道」やら「病床六尺(正岡子規)」やら「俳句はかく解しかく味わう(高浜虚子:岩波文庫)」やら、まあ結構いろいろ俳句に関する本を読んだりしたのだが、「俳人」が何を目指して俳句を作っていたか、全然分からなかった。でも、何となく思ったのは「俳句は発想が勝負である」ということであった。

 例えば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という正岡子規の句がある。文法的に言って「柿食えば」の部分は「柿を食ったならば」という順接仮定条件とか「柿を食うので」という順接確定条件ではなく、「柿を食うと」という「偶然条件」ととるべきだろう。また「鳴るなり」の部分の「なり」という助動詞は「断定」ではなく、「(聴覚からくる根拠による)推定」の意味でとるべきであろう。そうすると「柿を食ったんだけどさぁ、(ま、それとは関係無いんだけどね)あれぇ、鐘が鳴っているようだなぁ、法隆寺に」という意味になる。

 で、これは「柿」と「法隆寺の鐘」という、一見論理関係の無いものを2つぶつけることによって、新しい感覚を読者に引き起こす、そういう効果を狙った俳句だと考えられる。少なくとも大学の頃の佐々木はそのように思っていた。この「関係の無いものを2つ持ってきてぶつける」という発想法は、俳句よりもむしろ短歌の世界で塚本邦雄氏などが主張したものである。

 かように「俳句は発想が勝負」なのである。正岡子規の俳句が下手なのは、そういうことに気づかないまま、気持ちに任せるだけ任せて俳句をとにかく作りまくったからなのである、と思っていた。それだけの理解しか、俳句に対しては持てなかった。そんな大学時代だった。

 クイズも「発想が勝負」だと思う。これは「ベタ(=よく出る問題)」や「出題されそうな問題」という概念に背を向けた自分のクイズに対する考え方に、非常にマッチしていた。誰でも作りそうな俳句を、正岡子規は「月並み」と呼んだ。クイズにも「月並み」と呼ぶしかないクイズ問題が多い。出題されやすそうな問題を予想して覚えまくる、そんなクイズに飽き飽きしていた頃のことである。

 「月並み俳句」を否定した正岡子規と同様、わたしはベタを完全否定した。ベタ問題を答えることに嫌悪感すら覚えていた。いかに新しい発想を取り入れるか、いかに他人と違う問題を作るか、其処に賭けていた。そういう点だけで「俳句」と「クイズ」の類似性を考えていたのが大学時代である。

 

B 「俳句は場の文学」「クイズは場の遊び」ということ

 ところが、教員になって4年、国語教師同士の「句会」を3回経験し、最近は別の点で「俳句」と「クイズ」の類似性を考えるようになってきた。それは「ある俳句が上手いか下手か、それを決めるのはその場にいる人である」=「あるクイズ問題がいい問題かどうか、それを決めるのはクイズサークル内部の人である」ということだ。ちょっと分かりにくいので解きほぐして考えてみたい。

 そもそも俳句には何故季語が必要なのかを考えてみる。言葉というものはおしなべて、文脈によってしか意味が決定されない、という性質を持つ。授業で良く使う例を言えば、「ごはん」という一言にしても文脈によってしか意味が決まらない。かわいらしく子供が「ごはん」といえば「ご飯を食べたい」という意味になったり、奥様が怒ったような感じで「ごはん?」と言えば「ごはん?今ごろ帰ってきてご飯を食べさせてくれとはいい度胸じゃねえか」という反語の意味になる(どんな言葉も強く言えば反語になることを、わたしは授業で「ごはんの法則」と呼んでいる)。

 だから、言葉というものは、「文脈」やら「約束事」やら「使われた状況」やらによって、意味が確定される。俳句のような短い形式の場合「文脈」は、無いに等しい。なので、文脈に頼って語を使用することができない。だから、俳句の中の言葉というものは往々にして意味のゆれが激しくなりがちである。例えば「ごはん食べたし」という文の意味をどう読み取るか、あまりにも周りの状況が分からなすぎるから、解釈の仕様が無い。おなかがすいているからなのか、彼女にごはんを作ってほしいのか、ごはん以外のものを食べつづけたからなのか、全然その理由が見えてこない。

 こういうとき、文脈に頼らず意味のゆれを無くしていくために俳句独自の「約束事」に頼っていくことになる。そのひとつが「季語」である。

 「季語」は、日本人なら(少なくとも同じ俳句の会に参加するような人なら)同じイメージを共有しやすいため、文脈による意味のゆれが少ない。そういう「生活体験に裏打ちされた確実な語」を使用することによって、俳句の中における語の意味を確実にしていく、それが「季語」の必要性だと思う。

 同じような境遇の人が集まる「句会」であれば、季語のイメージは一段と共有されやすい。例えばわたしが今年の句会(五月中旬)で出品した句に「春風や化粧直して帰り道」というのがある。この句の「春風」という季語については、住んでいる場所やら職業やらによって、イメージの持ち方が少し違ってくる。が、わたしが参加した句会は、ウチの学校の国語教諭が参加者であった。彼らは「春風」という部分を読むと「そういえば今年の運動会(五月初頭)は風が強かった」ということを強烈に思いだす。というか、思い出させることを計算した上で提出した俳句であった。

 一般に、作り手は「この語を使用すればきっとこういうイメージを持ってくれるだろう」というようなことを、想像しながら作句し、句会に出す。「句会」という空間は「普遍的な美を求めよう」という気持ちより「今ここでウケる俳句を作ろう」という気持ちが、先に立つことが往々にしてある。ちなみにこの日の句会、即興で「花」という題で俳句を作れと言われ、普段なら絶対に作らない「カーネーション不機嫌そうに売れ残る」という句(といえるか分からないが)を作り、ご機嫌を伺った次第であった。「こんなの俳句じゃない!」と否定することも出来るが、肯定することも出来る。否定するか肯定するかは、その場の人が決めること。

 こういう価値観は俳句結社ごとに違う。その結社でかつて作られた俳句に似たような発想の俳句は、それだけで「下手」と判断されてしまうだろう。また、その結社の宗匠的存在の人が「○○な俳句は駄目です」と判定してしまえば、「○○な俳句」を作ると「そんなの俳句じゃない」と評価されるだろう。俳句すべてに普遍的と思われる「季語」の使われ方も、結社によって微妙に違う。「東京ヘップバーン」という結社(黛まどか主宰)では、「サザン」を夏の季語にしたり「辛島」を冬の季語にしたりしている。「こんなの季語じゃない」という立場も存在し得る。結局、「いい俳句」という認識の持ち方は、「句会」「結社」によって違ってくる。作句傾向も場によって変わってくる。作句の作法も変わる。

 良く世間で言われる「俳句が『場』『座』の文学である」ということが、今の文脈で理解できることと思う。不特定多数の人間を相手にする従来の文学と違い、俳句は概ね「句会」「結社」の参加者を相手にする

 で、俳句と同様、クイズも「場」の遊びである。

 クイズサークルの活動を「句会」に重ね合わせてみる。「いい問題」という認識の持ち方も、サークルによって違うし、クイズ問題作成の傾向も違ってくる。何となしにサークルにおいて「クイズ問題の作法」「約束事」が決まってくることもあろう。

 例をあげる。サークル内部でしか通用しないような(他の所で出したら文句が来るような)問題文を作ってしまうことが、東大クイズ研では往々にしてあった。一番ぶったまげたのは、或る後輩の「問題 俺の彼女はチョー安室。では俺の車は何?」という問題。ケチつけようとすれば何ボでもつけられる。が、TQCではアリなのだ。何故なら、TQCではこのような発想法の問題文が許容されていたから。

 また、TQCの構成員の得意分野や特技をターゲットにした問題もたくさんあった。どのサークルでも「この問題を出すと、きっとあの人が答えるんだろうなあ」というような読みを、問題作成者はしていると思う。お互い見知ったもの同士である、という状況が、そのような予想を可能にしている。

 クイズに取り組む姿勢についても、サークル毎に違うと思う。わたしがいた頃のTQCは、「勝負」に拘る、という姿勢がそれほど強くなかったように思う。例えば通せんぼクイズなどにおいて「問題をつぶす」という戦略上の作戦を使用することが、結構一般のクイズでは行われるようだが、TQCではほとんど行われない。「分からない問題を押すことを控えたい」という全体の意識の現れであろう。

 クイズ企画の持ち回り性についても、サークルごとに約束事が違って当然。TQCは各々のスタンスでクイズをする、という意識が強かったから、わたしのように問題作りが好きな人はたくさん企画を打つし、そうでない人は4年間で1回だけ企画を打ったりする。それでいい、というサークルだった。全然違うサークルも多いことだろう。

 少し前まではクイズサークルというと「大学のクイズ研究会」がほとんどだったが、現在では大学の枠を超え(或る意味では自然なのだが)、同じようなクイズを嗜好し志向する人々が集まるクイズサークルがたくさん成立した。2つ以上のサークルに入るプレーヤーも稀ではない。

 こうしてサークルが細分化されることで、共有する「場」がどんどん狭くディープなものになると、それまでに比べてクイズサークルごとの「個性」は際立って見えてくる(はずである)。そのことがクイズに対する共通認識を深くしていくし、「サークルに立脚したクイズ」という視点で問題を作成することが増えていくだろう。これをクイズの「場」の意識、と呼んでおこう。

 考えると、こういうクイズの「場」の意識が、クイズをマニアックな(非一般への)方向に進めていく要因であるかもしれない。クイズサークルという比較的閉鎖的な「場」を前提としてクイズが営まれていくのであるから、どうしても内部完結しやすい。ここまでは理解しやすいのだが、この「場」の意識は複数のサークルにおいても共有され得る。つまり、似たようなクイズを志向するいくつかのサークルにおいては、(各サークル内の「場」の意識より少し広い)「場」の意識が共有される。

 サークルごとのそうした特色がいくつかのサークルで共有されれば、それは「オープン大会などにおける交流」につながる。それがある程度大きなものになれば、「クイズ界」というものを形成するかもしれない。もっとも、今「クイズ界」と呼べるほどの大きい勢力が、あるとは思われないので、今のところ「クイズ界」というものは成立していない、と結論付けたい。「俳句界」というものが存在するように、「クイズ界」というものを定義するならば、それは様々なサークルにおいて様々な形で活躍する人々の、様々な方向におけるクイズの営みに共通な要素を一般化した世界、ということになる。そういう意味においてなら「クイズ界」という言葉を使ってもいいかな、などと思う今日この頃である。

 

注意:書こうとしていた内容はずっと暖めていたものであるが、たまたまこないだ現代文の授業で扱った「季語とは何か」(長谷川櫂)という文章の内容に近いものであったため、俳句に関する解説の部分はやや参考にさせていただいた。

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