1 1998年1月ころの文章群(に加筆・削除したもの)

 表現のきつい部分は、適当に変えてあります。

問題作りについて

 ときたま、いっそ前フリ問題作りまくりのクイズプレーヤーだったらどれだけ楽だろうか、と考えたりします。ときたま、というのは、だいたい個人企画直前のことなんですが、わたしは予想される必要問題数を多めに算出して、それに50を足したくらいの問題数をそろえるのが常です。1度問題が足りなくなって失敗したことがあるのと、基本的に石橋をたたく性格なのがそうさせるのですが、そうすると、作っても作っても問題が足りなくて焦ったりする。家にある本を引っ掻き回して、1冊1問作れればそれだけでン百問になる計算なのですが、なかなかそうもいかない。

だいたいわたしの読む本はクイズを作るのに、それほど適していません。そうなると1冊を斜め読みして1問も作れないことなんかざらで、ひどいときは10冊読んでも何も浮かばない。しょうがないから、図鑑とか辞典とかをぱらぱらめくってみたり、部屋を見回したり、テレビを見たりして、発想を拡げようとする。わたしが一番問題を作るのに適しているのはこの方法です。何かの記事を見て、それから連想されることを次々とつなげて行く。短編小説家がアイディアを探すときのような感じで(星新一「できそこない博物館」や筒井康隆「着想の技術」(ともに新潮文庫)に詳しい)問題を作って行く。4年もクイズ問題を作っていて、出題した分だけでもすごい数なのに、そういう方法だとまだ問題は思い浮かぶもんです。

 さて、普段はこうやって作った問題に、新聞から作った時事問題をまぜたりして数を揃えるんですが、「あ、これ面白い」と思っても、あえて出題しないジャンルの問題があります。それは「クイズに出そうな問題」です。例えば、わたしは心理学が好きなのですが、その割にあまり出題していません。それは人名が山ほど出て来たり、クラレンボー症候群とか、クイズプレーヤーが調べまくってそうなものが多いからです。別にクイズっぽい問題を作ってもいいのだけれど、それはわたしの役目じゃないような気がしてしまうんです。「あ、楽してるな」っていう、何処か後ろめたい気持ちもあります。やっぱり何処かで工夫をして、見る人が見れば「いい仕事してるな」と思われる問題を作って行きたいのです。わたしがクイズを見ていて、もしくは答えていたりして、一番楽しみなのは、そういう作成者の「仕事」を感じることです。わたしが今まで「いい仕事してますね」と思えた作成者は、ごく少ない。でも、そのひとりに自分を入れられるように、とは、いつも思っています。クイズっぽい問題には、「いい仕事」が少ない。前フリにも、本当はもっと工夫を施せるはずなんです。ひとつ言っておきますが、わたしは前フリ問題が嫌いではありません。前フリ問題という形式にあぐらをかいて、安易に問題を作る輩が嫌いなんです。百科事典のその項にある情報をただくっつけただけの、そういう問題が嫌いなんです。だから、ある時期(21歳ごろ)を過ぎたころのわたしの問題は、前フリ問題も結構あります。また、2年の前半くらいまでは結構前フリ問題を作っていました。大切なのは、そこに作成者の「仕事」を見られるか、ということなのです。

 とまあ、そういう性格だから、わたしが今まで他人の問題で感服した経験というのは少ないのですが、ただ1人、水谷準氏の問題には何度か感服させられています。

 何といっても一番すごいのは、第1回水谷記念で出題された、

 「玄米から白米を除いた物は米糠、では大豆から豆腐を除いた物は何?」

という問題です。面白さを説明するのは野暮なのでしませんが、これには参りました。

 

「何故」問題について

 わたしがよく作る問題の形式に「〇〇なのは何故?」というような問題があります。最近もまた1問浮かびました。

 問 ドラマ「101回目のプロポーズ」の武田鉄矢のせりふ「僕は死にましぇーん」、死なないのは何故?

 さて、わたしの中でクイズの可能性を広げたこの問題形式は、何処から生まれたかというと、実は「カルトQ」なのです。もちろん、わたしは古くから子供向けのクイズっぽい本なんかを呼んでましたから、そういうところで「何故」問題には山ほど触れていましたが、早押しでも出せる、という観点をもたらしてくれたのは「カルトQ」です。「カルトQ」はわたしにクイズ的な影響を大きく及ぼしています。わたしは、参加する側ということだけ考えれば、一番面白いクイズは「カルトQ」なんではないか、とすら思います。だから、その外の形式、例えばヴィジュアルにしてもリスニングにしても、わたしの基本はかなりあそこに集約されていると思うのです。「答えに詳しい人にこそ正解して欲しい」という基本的な思いも、そこから生まれて来ました。

 「?のつくすべてのことがクイズになり得る」と、口ではみんな言いますが、実際はそうではありません。様々な制約を受けて出題できない事柄が結構あります。わたしにもボツにしたネタがいくらでもあります。でも、そういう中で、今までは考えられもしなかった「何故」とか「どうやる」とか、そういう問題を作って行くことが、出題者の本当の楽しさなんだと思います。制約がありながらも少しずつ模索する、というか。全く制約のないところでは、クイズは作れないだろうし、そういうところで作ったクイズには味わいも何もないような気がします。幸いTQCでは「何故」問題が根付いてくれまして、もちろんわたしだけが「何故」問題を考えた訳ではないんですが、もっと個性ある、その人にしか作れない「何故」問題を作って欲しいもんです。ちょっと視点を変えればいいんですから。

 

東大とクイズ

 水谷さんは或る文章において、「東大同質社会」という一般的な目を批判しています。彼が批判したくなる気持ちは、我々東大出身者若しくは在学生であれば、簡単に理解できるものだと思います。とは言え、東大に入っている人に対して、社会的に一般的に向けられる目が一律なので、「東大同質社会」ということはこれからも言われ続けるでしょう。

 さてさて、これはクイズの冊子なので、東大生の特質とクイズについて考えてみましょう。

 何だかんだ言った所で、東大生全員に絶対に共通していることがあります。それは「東大の受験を受けて合格した」ということです。このことから考察すると(過程は省略しますが)、東大生には知的活動という面から見て、どうやら次のような共通点があるようです。ひとつには、そこそこ「記憶力がいい」ということです。わたしは東大出身の人間の中ではあまり記憶力の良いほうではないのですが、それでも一般の人(例えば家族)からすれば、かなり記憶力は良いほうでしょう。ふたつ目として「頭の回転が早い」というのが挙げられます。記憶力がよくて頭の回転が早いから、例えば数学なんかでも、既に頭の中にある解法パターンを引っ掻き回して、要領よく使いこなそうとする。「頭の回転が早い」というのは、知的な基礎体力がある、ということにもつながってきます。

 東大生に共通する知的要素として、もうひとつ「丸暗記を嫌う」ということもあるかもしれません。東大の入試は、単なる棒暗記だけでは合格できる代物でありません。事柄と事柄の結び付きに敏感であることが求められるのです。とはいえ、これは全員がそうだという訳ではありませんで、記憶力が抜群に良いため、すべてを暴力的に丸暗記するだけでいい、という人もかなりの割合でいます(と井出洋介も何かで言っていた)。で、「丸暗記を嫌う」という知的活動には、ものを理解する過程として、そこに潜む理屈を重視しようとする姿勢が側面にあります。これを端的に示しているのが、東大生にありがちな「そんなの暗記して何になるの?」という疑問の声です。「暗記する」ではなく、「理解する」ことを重視しようとしているのかもしれません。もちろん、東大生以外の人はそうではない、とは全然思いません。東大生はそうだ、というだけです。

 以上のことを、クイズにからめて考えるとどうなるでしょうか。

 クイズに手っ取り早く強くなろうとすると、どうしても超人的(言い過ぎか)な記憶力が必要となります。要は、ベタとか基本をまず覚えてしまう。そうした上でないと、今のクイズでは予選は通らないし早押しは正解できないしで、つまりは勝てないのです。そこに「理解したかどうか」は、あまり関係ありません。カタカナ語を一気に覚える力の方が大切なのです。

(2005年12月29日 補筆)

 先日友人の結婚式で上京した折、TQCの我々の代の会長が、「知識そのものを問うのが面白いのではなく、なぜそうなのかを問う方がおもしろい」というようなことを熱く語っていた。私なりに解釈すると、「ビルの窓にある赤い三角の一辺は何cm?」という問題は面白くない。「何故赤い三角があるのか?」とか「何故一辺が20cmなのか」の方が面白い。そういうことだと思う。

 こういう人たちだから、わたしが作った「○○なのは何故?」的な問題を面白がってくれたのだろう。我々が好きなのは、「知識そのものを覚えること」ではなく、そこにある「意味」「内容」を理解することだった、というわけである。

 

クイズを取りまく状況の基本

 そもそも現在クイズを取り巻く状況は、「マス・メディア」「一般の人々」「クイズサークル」の3つに分けることができる。「マス・メディア」とは、テレビ・ラジオ・本など、多数の人々に向けて娯楽目的でクイズを発信する媒体を指す。「一般の人々」「クイズサークル」に説明は無用であろう。普通「クイズ界」という言葉を使うとき、それはこの3つのうち「クイズサークル」だけを指す。これは至極当然のことである。なぜなら、この3つの世界のうち、相互に交流・干渉しあうことがあるのは「クイズサークル」だけだからである。

 「マス・メディア」の提供する「クイズ」に力があったころ、すなわちクイズ番組華やかなりし頃、クイズサークルはまだ今ほど成熟しておらず、クイズ番組から独り立ちして、独自の世界を作ることはできていなかった。具体的に言えば、かつてのクイズ研究会の「新人勧誘」は、明らかにウルトラクイズを意識して行っていた。ウルトラクイズに出場するための共同体として、クイズサークルの力は絶大であった。クイズサークルが、ウルトラ至上主義から脱皮し、「クイズ王決定戦」から脱皮したその瞬間から(すなわち、「マス・メディア」から離れた瞬間から)、クイズサークルの存在意義を、内に求めなくてはならなくなった。と同時に、クイズサークル同士の交流も活発になって言った。

 「内に求めた」のはクイズサークルの存在意義だけではない。クイズプレーヤーが、自らクイズ的な目標とするところも、「オープン大会優勝」などの形で、内に求められはじめた。そのためなのかどうか、現在「オープン大会の濫立」が起こっている。残念ながら、クイズ界の歴史は、クイズプレーヤーの目標の変遷によって築き上げられてきた、といえる状況にある。すなわち、クイズに勝つことを第一として、ほとんどのプレーヤーが邁進して来た。それゆえ、それを目的にしていないクイズサークルの構成員は、一歩引いてしまう状況になってしまっている。非常に残念なことである。

 結論を急ぎ過ぎたので、話を変えよう。クイズを取り巻く状況のひとつとして挙げた「一般の人々」についてひとことコメントする。そもそも、一般の人々は「クイズ」が結構好きである。ゲームセンターでは普段クイズをしないようなカップルがゲーム機に熱くなり、テレビのクイズ番組で知っている問題に相槌を打ったり、比較的真剣に「平成教育委員会」を見たり、『頭の体操』が爆発的に売れたり、挙げていくとキリが無い。一般の人々にとっての「クイズ」とは、生活の中でごく稀に体験する、単なる楽しみに過ぎない。だから、当たり前のことだがクイズに強くなるための対策などするわけがない。当たり前だ。これは「一般の人々」と「クイズプレーヤー」との、一番端的に顕われる大きな違いである。一般の人々にとって、クイズはいつも新鮮なものである(と思う)。クイズプレーヤーは、クイズの傾向と対策を研究することで、クイズに対するときの新鮮さを失っている。そのことについての是非について結論づける気はないが、とりあえずクイズ慣れすることについて、次項でもうすこし深く考えてみたい。ともかく、読者の皆さんは、ここで一旦考えてもらいたい。「一般の人々に較べてクイズ慣れしている自分」というものを。もっと具体的には、学校での友人や、家族との違いを。

クイズ慣れについて

 誤解を恐れずに、敢えて不正確に言い切るとすれば、クイズ界とは、クイズ慣れした人々の集合である。クイズが好きでクイズサークルに入会し、そこでクイズを(一般の人と比べて)たくさんする。そうすることでクイズの作られる背景など、いわゆる裏を知ることになる。勿論、勝つためのテクニカルなことも知ることだろう。そうなれば、自ずとクイズに対する接し方が変わってくる。

 例を挙げよう。「クイズ日本人の質問」というNHKのクイズ番組がある。ここで出題される問題が、わたしにはあまり難しく感じられない。それは、わたしが雑学の本を、一般の人よりは多めに読んでいることが主な理由であると思われる(同じように思っているクイズプレーヤーは多いだろう)。「クイズ日本人の質問」の面白さは、日常的な疑問についての問題を、視聴者が一緒になって考える点にある(それに加えて、選択肢の面白さ、物知り博士の喋りなどもある)。視聴者にとって純粋に楽しめることが、わたしには純粋に楽しめない。だいたい選択肢を見れば正解が分かってしまうことが多い。このことを幸福と見るか、不幸と見るか。(2001年注:今は正解がわかりにくくなっています)

 わたしはやはり一種の不幸と見たい。何故なら、わたしが家族とこの番組を見たりするとき、一緒に見ている家族と問題についての話ができないのである。だって正解を知り得ているのはわたしだけなんだから、そのわたしが何か一言言っただけで彼らの楽しみはぶち壊しになるのだ。こういう感じで、クイズ慣れしてしまったわたしには、一般の人と同じ立場ではクイズを楽しめない。こんな経験を、皆さんはしていないだろうか。そのときの皆さんの気持ちはどうだろうか。

 何が言いたいか。我々は、クイズに慣れることで、クイズの楽しみ方が変わってしまった。意識するとしないとに関わらず、変わってしまったなりに新しい楽しみ方を模索しているのが我々クイズ研究会である、とも言える。そういう中で、いろんなことが起こった。オープンが乱立しているのはプレーヤーが価値観としての頂点を求めていることのひとつの現れであるし、実力主義も生まれ、クイズ論もさかんになった。色んなことが起こったのだが、こうしたことは全て「クイズ界」の閉化と深化を象徴している。しかし、クイズが「クイズ界」だけの殻に閉じこもって良いわけがない。いかにして閉じこもらないクイズを楽しむか、も議論されてしかるべきである。

 

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