4 クイズ番組論その1 視聴者参加について

 

 クイズ番組論を語ることは、簡単なことではない。

 まずわたしなりの前提を述べる。

 前提:「クイズ」という観点だけで、「クイズ番組」を語り尽くすことはできない。

 前回の結論と、ほぼ同じである。では、どういう観点を持ち出さなければならないのか。ひとことで言えば「テレビ番組としての観点」である。つまり、テレビ番組、もっと正確に言えば「バラエティー番組のつくり方の変遷」を意識して、クイズ番組について考えなければならない。

 そういう意味で考えたとき、現在視聴者参加のクイズ番組が殆ど無いことの説明がつく。今日はそんなお話。

 

 リアクション芸人という言葉がある。バラエティー番組で危険・きつい・きたないことを強いられたとき、それに見合ったリアクションをして笑いを取る芸人の称であるが、それに対応する、言わば「リアクションタレント」とでも言えそうなタレントがいる。彼らはバラエティー番組に出演し、番組の雰囲気の中でそつの無いリアクションをすることで、番組構成上非常に重要な役割を占める。具体例としては晩年の「マジカル頭脳パワー」に出演したタレントたち、テロップ出まくりのしょーもないバラエティー番組に登場する人たち、彼らは取り立てて技能を持っているわけではないが、場に応じた反応をきちんとこなすことができる。そういう意味では「一芸」を持った人かもしれない。

 また、芸能人全体が「バラエティー慣れ」してきた。そのため、俳優や歌手の方々が、どんどんバラエティー番組に出演し、しかもそこそこ活躍できるようになった。昔はバラエティー番組に出演する俳優・歌手はごく一部の人に限られていた。現在は、「ダウンタウンDX」「踊るさんま御殿」などを足がかりにたくさんの人々が出演する。

 番組制作側からすれば、おそらくそういうバラエティータレントのほうが素人に比べて使いやすい。そして、バラエティータレントの数は相当多い。

 クイズ番組に搾って考えてみよう。初期の「マジカル頭脳パワー」は本当に頭を使わせる問題群だった。出演者も所ジョージ氏をはじめ、インテリ代表・俵孝太郎、学のありそうな女性タレント・千堂あきほなどがレギュラーだった。ところが、後期においては頭を使う要素をだんだん削り、インスピレーションや機転の利き具合のみを問うようになり、それに並行して出演者もリアクションタレント、例えば清水圭(彼にお笑い芸人の影はもはや無い)とか風見しんご(司会術を学ばなかったことは彼の芸能生命にどう関わるだろうか)とかに変わっていく。そして、バラエティータレントは、かつての芸能人と比べて、視聴者との距離が近いように見えてしまう。なぜなら、一見芸が無いから。もしくは、あまり賢そうではないから。

 街頭インタビュー、コギャル(ってまだいるのか)とかに「何で○○○はテレビに出ていられるの?」(○○○には嫌いな芸能人の名前を入れよう!)などといわれている芸能人は多い。しかし、彼らには「バラエティーできちんと振舞える」という、ものすごい一芸があるのだ。だからテレビに出ていられるし、どんな番組に出ても毒にも薬にもならないから、芸能人生が長持ちする。

 では逆に、さっきインタビューに答えたコギャル氏がテレビに出たらどうなるか。とてもではないがまともな振舞い方はできないのではないか。

 確かに、素人を使うテレビ番組は多いし、そこそこ人気もあるし、そこそこ面白い。こういう番組に出ている彼らがどう思っているか知らない。もしかしたら「自分はテレビに出られるほど喋りが立つ」「おれはおもしろい」などと思っているかもしれない。しかし、現実にはそうではない。素人とバラエティータレントの振る舞いでは、雲泥の差がある。

 わたしがそう思う第一の理由、そうした番組にはいい猿回しがいる。島田紳助氏、桂三枝氏、とんねるずのように、素人をいじり、面白さを最大限出すためのアシストをしてくれる優秀な司会者。そういう人たちがいることで、かろうじてやっていけているのである。彼ら自身の間(ま)で話をしたりリアクションをしたりしても、ひとりよがりの発言や、場において求められていない発言になってしまうことが多い(ように見える)。

 また、もうひとつの理由として、「一回性」ということがある。どんな人にでも、1回話をして笑いを取るくらいのネタはあるものだ。だから、猿回しの手を借りてそのネタを話せば、とりあえず場はもつ。何度登場しても視聴者を楽しませることができるか、その勝負は素人にはできない。

 ここまでの結論:素人は、そんなにおもしろくはない。

 

 そういう中で素人が求められるとすれば、次のような状況であろう。

  1. ビルドゥングスロマン的な、普通の素人が何かを成し遂げていくために努力する姿を見せるもの。一番クイズに近いのは「しあわせ家族計画」。「あいのり」などもこのカテゴリーに入る。「電波少年」で無名芸人を使うのも同じことだろう。この場合、当該素人が特に喋り上手である必要は無い。ナレーションや猿回しが大活躍。「はじめてのおつかい」も近い。「リアクションの約束を何も知らないが故の、素のリアクション」が欲しいときに活躍。
  2. 一般大衆を代表する意見を話す必要がある状況。「あるある会員」、かつてなら「YOU」のようなもの。こっちも比較的「素」の状態でいることが望ましい。個性の無い人の方が良いのは言うまでも無い。
  3. 自分の持っている面白い話を語らせる場面。「新婚さんいらっしゃい」「キスイヤッ」など。猿回しが重要。多分、つまんない話もしてしまい、オンエアでは編集されているだろうと思う。

 昔からそうだったのだが、別に素人には「お約束」を守ることが、要求されていない。あくまでも「素」でいることが求められる。だから、気を利かせて面白いリアクションをする必要もないし、だいいちこっちが面白いと思ったりアクションでも、テレビの雰囲気に合っていなければ容赦無く編集される。多分素人参加番組の編集量はかなりなのではないか。

 こないだあるクイズ番組(放送前なので伏せておく)に出演したときの話、賞味50分ちょっとの番組なのに、収録が延々続く。「アタック25」の収録で感じたようなテンポの良さと緊張感ではない。ひたすらテープを回して、後で面白い部分だけを摘み取る。テレビで見るとテンポの良い番組なのだが、収録は非常に冗長でつかれた。司会の喋りもまとまりがない。まとまりのない話は別に嫌いではないが、あまりにも編集任せなのではないか、と思った。

 ちょっと話がそれた。上記1〜3の状況以外では、素人よりバラエティータレントを使いたがるだろう。クイズ番組も「上記1〜3以外」にあてはまるので、素人よりバラエティータレントを使う。素人を使う意味が全く無くなってしまったのだ。

 ちょっと待てよ。そもそもクイズ番組に素人を出演させていた意味はなんだったのか。

 昔のテレビは、視聴者に夢を与えてくれた。テレビは「非日常」だった。テレビはスケールが大きかった。そこに素人がポーンと放り込まれたときの姿。普段できないことがテレビの力を借りて実現できる。今と違い、テレビに出ることが「夢」だったのかもしれない。この辺は当時のことをよく知る人にご意見いただきたいのだが、やはり賞品・賞金はものすごい魅力だったろうし、ブラウン管の向こうに立つこと自体、よく考えれば大変夢のあることだったろう。

 クイズ番組は「非日常」だったし、賞品があるから出演者を募りやすい。比較的出演もしやすい。

 また、クイズには様々な個性を持った人が出演してくれる。ここで言う「個性」とは「気の利いたリアクションができる」という意味ではなく、それぞれの職業・境遇をさす。だから、当時の他のバラエティー番組に比べて、出演者がバラエティーに富んでいる。これは番組としての奥行きや広がりを出すという意味、もしくは同じ発想で長年引っ張れるという味を持っていることを指しており、長い間クイズ番組が重宝されていた大きな理由として燦然と輝く。(タイアップしやすい、など他の意味もあろうが)

 ところが、既に述べたように、俳優や歌手の方々など、個性を持った人たちがバラエティー番組に出演するようになり、様々な職業の人々を集めて、無理に個性を集める必要がなくなった。タレントでも充分個性的な面々を集められる。

 かくして、視聴者が使われる場面は「無個性」か「強烈な面白ばなし」だけになってしまったのである。

 

 長くなったが、ここまでの分析において、わたしは「バラエティータレントと視聴者と、それぞれの役割」という点にしぼって考えてきた。「視聴者参加型クイズ番組」が無くなったことには、まだ他の要素がある。次項、「クイズ番組論その2」では、「テレビ番組そのものの役割」、という観点から論じてみたい。これを語らないと、「アタック25」がまだ続いている理由がはっきりしないからである。

【次項予告】
 「アタック25」が続いていることは、「上記のような状況にあっても、まだ視聴者が必要な場面がある」ということを示唆している。しかし、だからといってかつてのように視聴者参加型クイズ番組が復活するかというと、そうではない。そこに絡んでいるのは「失われてしまったテレビの楽しみ方」である。乞う御期待。

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