3 ウルトラクイズを考える

 

 一昨年の「今世紀最後!アメリカ横断ウルトラクイズ」には、クイズ屋の人たちからかなりの批判があったようである。

 殊にインターネット上での批判は結構あったようだ。わたしの周りからもあまりいい話は聞かない。福留さん自身がネットや著書『ウルトラクイズ伝説』でクイズ屋がカチンとくるような表現をしていることも手伝って、かなり感情的な議論に終始してしまっている観もある。福留さんからしてみれば「クイズ屋ごときがウルトラクイズについてえらそうなことを言うんじゃないよ」と思っているだろうし、クイズ屋の人たちは「クイズのことはおれたちの方がよく知っているんだよ」と思っているだろう。

 この対立がどこから来るものか、簡単に言えば「ウルトラというもののとらえ方の違い」に尽きる。どういうことか、まずわたしなりの意見から述べる。

 

 わたしがあの番組を批判するとすればただ一点。残り4人が全員大学生であったことだ(もちろん、スタッフのせいではない)。わたしは常々、ウルトラクイズに大学生は出てほしくないと思っている者である。なぜか。大学生には、基本的に背負っているものがない。バックボーンが「クイズ」だけである。一般の人には、家族とか、恋人とか、仕事とか、何かしら背負っているものがある。

 そういえばかつてのウルトラクイズの編集は、その挑戦者にとって一番気がかりなことは何なのかを、とても大切にしていたように思われる。一番端的に現れるのは「大声クイズ」での叫ぶフレーズ。子供がいればその名前を、仕事をしていればそれに関すること(支店長すいません、とか)、就職が決まってなければ「仕事くれ」。クイズにしても旅行にしてもアメリカにしても、クイズそのもののためにあるのではなく、日本に残した気がかりなことを引き出す意味を持っているはずだ。大学生には、それがない。

 それでも第11回あたりだと、学校の授業を休んできたことへの後ろめたさの表出があった。第12回になると「クイズ研究会」が全面に出る。第13回は周知のとおり。そうして大学生が増えていくと、あとはキャラクター重視にするか、大学生でも社会人でも通用するようなルート編成、具体的には第14回のような「困難に立ち向かう姿重視」を目指すしかない。もしくは、ある挑戦者の精神的成長(第12回の大江さんとか)の軌跡をつづったり。それらはそれでドキュメンタリーとして成立するのだが、その人の内面にまで踏み込んだもの出ないため、どうしても描き方が薄っぺらくなる。

 そもそも、なぜ「背負っているもの」を重視するのか。わたしの想像を述べたい。テレビを見ている多くの人には、日常生活の中で何かしら「背負っているもの」がある。ウルトラに出場している人たちが、背負っているものをいったん日本において、冒険旅行をする姿こそが、ウルトラクイズで見せたい姿なのではないだろうか。「背負っているものを棄てて冒険したい」というのも人間の真実だし、「背負っているものは棄てられない」というのも人間の真実。その相克に悩む挑戦者の姿。

 福留さんがよく言われることだが、ウルトラクイズは、絶対にクイズ番組ではない。あれはドキュメンタリー番組である。そもそも「旅行しながらクイズをし、敗者は途中で脱落する」というルールは、上記述べたような挑戦者の姿を引き出すためのエポックメイキングなものである。そのための手段は、別に「クイズ」でなくてもよいのである。

 ただ、「クイズ」という手段は、おちゃらけたゲームと違い、大変緊張感あるものだし、ドライでクールな要素を持っているため、ドキュメント・筋書きのないドラマとして成立しやすい。また、「ばかげたことを一生懸命やる姿」を描き出すことも、テレビが人々に伝達しなければならない人間の真実である、と言えるだろう。

 わたしの中の前提:「ウルトラクイズは、人間の姿を映し出すドキュメンタリー番組である」

 

 さて、どうも世間のウルトラ批判は、「ウルトラクイズはこうあるべきだ」ではなく、「クイズ番組はこうあるべきだ」という論理に突き動かされてしまっているように思えてならない。そもそもウルトラを論じるなら、「ウルトラクイズはドキュメンタリー番組である」というところから話をはじめねばならないのである。

 だいいち、「ウルトラ」が「普通のクイズ番組」と同じことをやっては、少しもおもしろくないではないか。常に期待を裏切ってくれるのがウルトラだし、それができなかったから第15・16回はつまんないのである。そういう意味で「今世紀最後!」はとってもよかった。じゃんけんをやめたり、ペーパーをやめたり、というのは胸のすくことだったし、泥んこ綱引き、スカイダイビング、この辺までは本当にわくわくさせてくれる企画ばかり。ただ、年齢制限をなくしたことで(だと思うが)、体力を使うクイズが少なかったことは残念だった。決勝の泥んこも批判が多かったが、わたしははっきりいって感動した。そこまで裏切るか、という思い。ただ、生放送にする必要があったのかはどうしても疑問が残る。やはりウルトラは編集が命なのではないだろうか。とにかく、ウルトラは「想像がつかない」ところに、ドラマが生まれるのである。

 ウルトラクイズは、実は何も変わっていないのだ、「挑戦者を裏切る冒険旅行」という点では。それなのにあれだけ批判を受けた。なぜなのか。もしかしたら、変わったのはプレーヤーのほうではないのか。今のクイズプレーヤーたちは、ウルトラに魅せられてクイズをはじめた人が多い。その彼らが、変わっていないウルトラを見て批判した。自分で勝手に「クイズとはこういうもんだ」という色眼鏡をこしらえてウルトラを見ていたから、それに合わない要素を持ちすぎたことを批判したのだろう。しかし、それら批判が全く見当違いであることはここまでで述べた。だいたいいつの時代もクイズプレーヤーというのは、クイズ番組に躍らされる哀しい存在なのである。そのくせ、自分たちが必勝法を見出せないものに出くわすと批判をする。そこを貫くのは「努力したものが、報われなければならない」という精神である。ウルトラはそんなせこいことを目指していない。「努力する姿」それ自体が美しいのである。それが報われるかどうかは別の問題だ。その場での努力を最大限に見せたいから、対策のたてづらい企画を持ってくるのである。

 だから、クイズ屋さんたちが自分たちの「クイズ観」に当てはめてウルトラを批判するのは筋違いというものである。

 今日の結論:「クイズ」という観点だけで、ウルトラを語り尽くすことはできない。

 なお、ここまでの文を読んで、「いや、クイズを出題している以上、クイズ番組の要素がある。だからクイズ的な批判をすることも間違っていない」という方々がいるかもしれない。近いうちに「今世紀最後!」のクイズ問題についていささか私見を述べることにする。

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