2 「個性」を考える
恋愛の場合、マニュアル的なオトコもオンナも敬遠されてしまう。そりゃそうだ。たとえマニュアルを見たとしても、それを自分なりに消化しなければ、全然意味がない。もっと言えば、相手によっても作戦は変わってくる。どんな女性を誘っても、自分のお得意のコース、店から何から全部同じだ、という人もいるようだが、それだけではだいいち面白くない。
それなのに、である。クイズの場合、マニュアルに沿ってるかのような問題作りだとか、企画だとかが、あまりにも多すぎる。それをよしとする風潮が、長いことクイズ界には蔓延しまくってきたし、そのせいでクイズは個性も何にもない、誰が勝ってもおんなじ、誰が企画してもおんなじ、てなことになっちまった。
いや、そうではない。クイズプレーヤーには個性たっぷりの人が多い、という反論もあるだろう。しかし、あたしから言わせれば、個性ある面白いプレーヤーなんざ、指で数えるくらいしかいない。だいたい、例えばクイズの最中にクイズプレーヤーが面白いリアクションしたりしても、それはその場だけのことである。せいぜい内輪受けを楽しむのが関の山。そんなのでクイズは深まって行かない。クイズ自体を考えなくてはいかんのである。ちょっとした面白い(わたしはテレビのクイズプレーヤーの喋りで笑ったことは無いのだが)リアクションが、テレビでさんざん使い捨てにされたのを忘れたのか。
また、問題作りだって、個性ある人は多い、という反論があるかもしれない。しかし、これに対してはっきり云おう。今クイズ界で出回っている問題は、別にその人が作らなくても、誰かがいずれ作る、というものばっかりである。もしくは、得意ジャンルで火の出るような難問を作るだけ。例えば易しい問題で個性を出す、などということがほぼ皆無。自分の頭をひねって作る、というのも、殆ど見られないように思われる。
要は、クイズの主流にアグラをかいて、甘え切って、頼り切って来たのがこうなった原因なのだ。あこがれのクイズプレーヤーに近づこう、だの、クイズで活躍したい、だの、クイズを楽しめました、だの、その考え方自体は全然非難されることではない。しかし、これらは全て解答者としてのクイズ観である。今のクイズを支えているのが、全てこうした「解答者としてのクイズ観」だけであることが問題なのである。解答者として楽しみたい、というだけの人間が集まって、主流となる棒に沿って企画を作り、お互い同じような本を読んで同じような問題を作っているだけでは、クイズの持つ多様な面白さの、ほんの一面しか味わえないし、だいいちせっかく深まる可能性のあるクイズの芽を摘んでしまっていることになる。まあ、クイズをしている目的がみんな同じようだから、仕方ないか。
どうがんばっても、解答者サイドのものの見方しかできないプレーヤーには、個性は育たない。「作る」という作業が、個性を浮き立たせるのだ。それでも最近は、オープン大会などで作りこんだ演出などが見られるようである。ただ、やはり問題そのものに個性がないため、全体としてクイズとして個性の無いものになってしまっているのではないかと想像する。わたし自身ここ2年オープンに出ていないから全く想像であるが、問題を見る限りではそういう印象が否めない。
わたしがなぜここまで「個性」にこだわるのか。それは、わたしにとっての「クイズの楽しみ」が、「人」と密接に関わっているからである。個性あふれる人が普通にクイズをやる。友達同士で遊んだ子供の頃、缶蹴りのメンバーが誰になるかでゲーム展開や作戦が全然違っていた。それに似ている。勝てばいい、という単純なものではない。人が関わることでの面白さが、実はクイズの一番の楽しみなのではないか。
どんな問題が「個性のある問題」なのか、という点については他のところで紹介するつもりだが、今のまま、誰が作っても変わらないようなクイズ問題が量産される体制が続くことが、クイズにとってたいへんもったいないことであることは、意識してもらいたいように思っている。