12 高校生クイズの「クイズ」について
昨年で20回を迎えた高校生クイズ。至るところで喋ったり書いたりしているように、高校生クイズとウルトラクイズは、基本的に「クイズ番組」ではなく「ドキュメンタリー番組」である。スタッフもそう言うし、わたしもそう思う。
もう少し正確に言うと「クイズという手法を使ったドキュメンタリー番組」という言い方ができると思う。「高校生クイズ」が「ドキュメンタリー」として成立するには、どうしても「クイズ」という方法をとるしかなかった。
「クイズ」というものが、普通の高校生の普通の「さわやかさ」「ひたむきさ」「まじめさ」を100%引き出す、ほとんど唯一の方法だったのではないか、とさえ思う。「10 第20回高校生クイズについて」で記したように、高校生絡みのイベントは山ほどあるが、その中で「普通の高校生」にスポットを当てたものは、皆無に等しい。ほとんどのものは「特殊な能力を持った」もしくは「特殊な努力をした」高校生の姿を描くものである。
高校生クイズが、いや、「クイズ」という方法が、普通の高校生の姿を鮮明に描けるのは何故だろうか。その理由にあたる「クイズのもつ要素」には、次のようなものが考えられる。
1は説明するまでも無かろう。「クイズ」に参加するのに、特殊な努力は必要ない。難しいルールも知らなくていい。高校生クイズの放送を見ていれば、誰しも何問かは答えられると思うし、そうすることで「いっちょわたしも参加してみようか」という気持ちを起こさせることが、この種の番組にとって一番大事なことだと思う。
普段何の努力もしていないのに「もしかしたらわたしも勝てるかも?」と参加者が思うような競技は、クイズ以外に無い(単なる運試しのゲームなら別だが)。しかも「YES・NO」のような「一見特殊技能が必要ないクイズ」「とにかく盛りあがれるクイズ」を最初に持ってくることが、この要素を倍増している。高校生クイズにまだあれだけの人が参加してくれる、一番大きな理由は「もしかしたらわたしも勝てるかも」ではなく、「とにかく出ると楽しそう」という「イベント的要素」だと思う。大量の人間を一気に参加させて全員を楽しませるイベントは、そう多くは無い。
そういえばコンサートで熱狂して歌手と一緒に歌い出す手合いがいるが、高校生クイズ参加者も同じようなもんだと思う。よく「会場が一体になって」という常套句で表現されるこの状態は、高校生クイズのあのYES・NOの雰囲気によく似ている。「コンサート」も「クイズ」も、高校生にとっては「簡単に参加できる」「非日常のイベント」なのだから。
ちょっと話が逸れたが、この「クイズは非日常である」という観点は、今後わたしの文章によく登場するものなので、ご記憶願いたい。
2を見てみよう。ウルトラクイズも共通しているのだが、高校生クイズの企画には「自分たちの能力だけでは対処のしようが無いもの」が登場することがある。YES・NOはその最たるものだし、「缶コーヒーで当たりが出たら勝ちぬけ(第7回)」なんてのもあった。転んでしまいやすい服装で走らせてみたり、「釣りで敗者復活(第9回と第20回)」つーのもある。また、同系列の企画に「自分たちの能力の限界に挑戦させられるもの」というのもあって、例えば「500グラム減量(第7回)」「新聞の校正(第10回)」などである。
こういう要素は、クイズでなくても描くことはできる。というか、基本的に「コーヒー当たり」や「減量」は、はっきりいってクイズではない。「課題解決企画」とでも呼べばいいかもしれない。従来のクイズ番組としてではなく、「高校生クイズ」という特殊なクイズドキュメンタリーの枠組の中でこうした企画を行うことが、高校生の「ひたむきさ」を描き出すのにはぴったりくる。「高校生クイズ」のクイズルールを貫くのは、「クイズをする高校生を描く」ではなく、「課題解決企画を通して高校生のさわやかさ・ひたむきさ・まじめさを描く」である。