1 はじめに

 クイズに関するホームぺージを開くにあたり、様々なクイズ関連サイトやクイズ論書を覗いて見た。それらに描かれているクイズの姿は、やはりどうしてもごく小さい目で見たクイズの姿でしかない。つまり、ある場所で「クイズ屋」と呼ばれるような、昔で言えば「強豪」と呼ばれるような人たちのためのクイズの姿。それは一面では真実なのだけれど、クイズのある一面を最大限拡大投影しているに過ぎない。

 わたしは「クイズの世界は、たいへん広いものだし、とても可能性を秘めているものだ」ということを、とりあえず信じている。だから、様々な意見が出ることを望んでいる。

 考えてみると、わたしがクイズにばりばり関わっていた1994年頃、様々なクイズ論が戦わされる、ということが殆ど無かったと思う。それはひとつには、クイズ界(というものがあるとして)が非常に狭い世界であった、という原因がある。当時のクイズ界は、みんな妙に仲が良かった。だから、クイズについての意見で下らない対立をしたくなかったのかもしれない。また、クイズそのものがあまり深い内容を相手にしていなかったため、意見の対立が起こりにくかった、ということもあるだろう。

 その後、クイズは様々な紆余曲折を経て、1つの価値観でクイズをはかれない時代が来た。クイズ論、というものも、1996年ころから頻繁に発表されるようになった。しかし周囲への遠慮だろうか、それともクイズ界(というものがあるとして)が心情的にどんどん狭くなったからか、いずれ、クイズ論というものは、いわゆる「強豪」からしか出てこなかったし、「強豪」以外の人の意見は無視されてしまっていた。こういう状況が、クイズ界(というものがあるとして)をさらに加速度的に「ある一定の方向」へ突き進めていった。このあたりのことは後ほど詳しく述べる。

 さらに時代は進み、インターネット上でクイズ論が語られるようになった。現段階ではやはり「クイズ屋」さんのクイズ論がよく読まれているようだが、我が先輩・秋元雅史の「ヌーベルクイジーヌ」のように、違った立場からのクイズ論も結構人気だと聞く。ホームページは、しがらみから自由にクイズ論を語る方法として、最も適切だと思う。今後様々なクイズ論が登場すること、ひいてはそれらがクイズの世界の広さを教えてくれることを、切に祈っている。そしてわたしもその一端となれば幸いである。

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