六甲アイランドからの風

<聖公会新聞連載>


海辺よりキャンパスを望む



六甲アイランドからの風27<最終回> 音楽は<共振>する U

 音の波が寄せてきて、震えて、音楽となり、その振動が空間中に行き渡って、そこに居る人
の間を行き交い、交わり、膨らんでいく・・・つまり、音楽の共振によって、人々の壁は取り払わ
れ、いつも自分だと思い込んでいたところ以外の部分も、自分なんだということに気づく、そして
大きな力を受けて、気持ちが新たにされる。・・・このようなことを書き始めると、難しくなってし
まいますが、ただただ単純に、共振するから音楽は染み渡ってくるし、共振するから、素晴らし
い力を発揮するのだと思います。
 私は立教大学の学生時代に聴衆としてこの醍醐味に触れ、どうしても表現する側になりたい
と、とりつかれたような思いに駆られ、演奏者として不器用にも走り始めました。そして、神戸国
際大学に就職してから、演奏者としての表現とは違う角度から、「オルガンを使っての企画」と
いうことを始めました。初めは、諸先輩オルガニストが、ご自分で演奏することがお好きなの
に、それ以外のことにどうして熱心になれるのか、実はよくわからないでおりました。
 しかし自分で始めてみましたら、それが同じ醍醐味であることがわかりました。オルガンを通
して音楽が共振し、様々な意味で偉大な世界が広がることこそ、オルガンを活かすことであり、
そのことこそ、オルガンを使っての「表現」なのです。オルガンに触れる人がどんな人であって
も、またそこに集い響きのシャワーを浴びる人が何人居ても、音楽が共振する場を作り提供す
ること、そして初めての方にもリラックスして染み込んで頂きやすい方法を考えること、それは
全て、表現なのだと感じております。
 その体験は、自分が演奏する立場として研究をするときに、音楽の表現とは何か、について
教えてくれます。また、このような体験のためにも、自分が音楽と真っ直ぐに向き合う時間は、
絶対に必要な時間です。
 そして、礼拝での奏楽は、音楽による「共振」の、究極の姿なのではないでしょうか。実験でも
自己満足でも演奏会でも発表会でもない、その場限りの空間共有を目指して、日々、音楽の
表現方法を私なりに探究していくことは、終わりのない旅です。そこには正解もなければマニュ
アルもありません。厳しく、純粋で、でも必ず神様はいつも見てくださっていて、他には変えられ
ない喜びを内在している世界です。
 いつも悩み考えたり、嬉しい発見があったり、ひとりで思いつくまま、このコラムに書かせて頂
きました。二年半の間、お読み頂きましてありがとうございました。書くことで、読者の方と繋が
っているような感覚があり、孤独な戦いの中にも、心温まる体験でした。このような機会をお与
えくださいました神様に感謝いたします。仕事と生活が変化し六甲アイランドの住まいから離れ
る3月で、寂しいですが、筆を置くことにいたしました。
 さようなら。またいつかお目にかかれる日を楽しみにしております。



神戸国際大学の学食から眺める海



六甲アイランドからの風26 「音楽は<共振>する T」

 神戸国際大学ではこの6年間、大学の活性化を目標に、学外向けの「オルガンイベント」を、
活発に行って参りました。参加者がチャペルに集まり、オルガンのしくみの話や音の紹介、ル
ナと一緒に歌ったり、ミニコンサート、そして実際にひとりひとりがドキドキしながらルナの音を
出してみる試奏タイムなど、対象者やその場の雰囲気に応じて、臨機応変に対応していくこと
は、オルガニストとして大変幸せな体験でした。
 東灘区主催子供体験スクールなどは、このコラムで以前取り上げましたが、他にも様々なご
縁があって、同じような内容の企画を、色々な対象に向けて行ってきました。先日3回目の開
催が実現したものの中に、近所の養護学校の生徒さん対象のものと、すぐお隣の高等学校の
校外学習としてのものがあります。
 養護学校の生徒さんの中には、様々なご事情の方がおられますが、その人独自の受け留め
方で、そのまま真っ直ぐに反応して下さる様子が、物凄く強く明確に、ビンビンと感じられ、こち
らがすっかりシビレてしまっております。楽しい曲になると体を動かしたり叫んだり、また足鍵盤
を取り払って、スタッフの補助で車椅子に乗ったまま自分の手で鍵盤に触れたとたんに、固か
った表情が、うっとりととろけるようになった生徒もいました。スタッフの方々にとって大変な作
業ですが、彼らにとっても、新鮮な体験だそうです。
 高校生たちは、音楽専攻ということもあり、各自それぞれの興味も目の付け所も異なり、スポ
ンジのような素直なコミュニケーションを楽しむことができます。実際に弾いてみたら、音が背
後からシャワーのように降ってくるので、弾きながらポカンと口を開けて不思議そうに後ろを向
いてみたり、興味津々で次々と質問が飛んできたり、大変刺激的です。
 私にとって一番の収穫は、音楽が「共振」して、空間を行き渡り、その場にいるひとりひとりも
一緒に共振して、その場に集う私たちとルナが、一心同体となって更に膨らんでいく感覚を味
わえることです。これは参加者にとっても同じかも知れません。
 このような企画によって、参加者の中には、もしかしたら、生まれて初めて体験する「何か」を
味わった方や、何か嬉しかったり楽しかったりする感じを持ち帰ってくださった方もおられるか
も知れません。それは、わかりやすい反応を間近で目の当たりにしても、言葉にはならないも
のですが、実際に対応させていただく私にとりまして、これほどまでに、直接的で絶大な喜びと
学びの機会となるとは、やってみるまでは全く予測できませんでした。
 それだけに、何と責任の重い使命であり、また、地域における大学の存在意義の重要なひと
つとして、何と意味の深い出来事であろうかと、つくづく感じ入ります。その感覚を、次への原動
力として、たとえ孤独な戦いであっても、これからも頑張って行こう、と背中を押される思いにさ
せられることは、心より、有り難いことだと感じております。




友生養護学校の皆さんと


六甲アイランドからの風25「聖歌アレンジA」

 やって参りました今年のクリスマス!ふたつの大学のクリスマス礼拝ではキャロルをたくさん
歌い、たくさんのアレンジを弾きました。終了してから気になることは、歌いやすかっただろう
か、という一点です。それは礼拝中に肌で実感するものですが、それでも気になるので、実際
の録音を聴きながら一緒に歌いつつ、その空間で歌う側の空気を感じることをしてみます。も
ちろん済んでからでは後の祭りですので、準備段階と本番と、両方聴けると完璧です。
 会衆賛美聖歌の伴奏アレンジは、どのような目的のためのものでしょう?それは技術の披露
でも実験でも研究発表でもなく、歌う会衆の気持ちが高まり歌詞のイメージが明確になってノビ
ノビ歌いたくなるためのものではないでしょうか。そのためには「アレンジのためのアレンジ」で
はなく「歌いたくなるアレンジ」である必要があり、難しく考えずに頭を柔らかくして、様々な方法
を充分に研究して試した上で、納得の行く効果的なものを編み出すことが大切だと思います。
 例えば聖歌540番アメージンググレイスを取り上げて試してみたいと思います。前回書きまし
たアンダーソン氏の提案とは打って変わって非常に単純なパターンで、和音を変えずにすぐで
きる方法を、具体的に挙げてみたいと思います。

1.ソプラノだけ違う鍵盤で弾く
2.1の際、左手を一オクターブ上げて弾く
3.テノールだけ違う鍵盤で一オクターブ上で弾く
4.3の際、右手に16フィートの音を加える
5.ペダル声部を手で弾く
6.ペダル声部の効果的箇所を一オクターブ下げる
7.同じコードネームが記載された間は、左手とペダルを弾き直さずに同じ和音を弾く
8.最後にオブリガートをつける。
例えば最後の段ソプラノの上の声部として(線は小節線)FB/Ac/dd/fde/f を加え、アルトを省
略する

 これらが成功すればまた次へのステップとなるように思います。何より大切なことは、アレン
ジが「工夫」で終わらないように、フレーズ感、テンポ、間などは原曲のときと同じようにすること
を心がけることではないでしょうか。練習ではあれこれ試しても実際の奏楽では欲張らずに、そ
の時の雰囲気に応じて少しずつ取り入れ、歌いやすさを第一優先にして考えていくべきと思い
ます。


六甲アイランド高校の皆さんと


六甲アイランドからの風 24 「聖歌のアレンジ@」

 聖歌のアレンジについて、いつも感じていることをこのコラムに書こうと思い、具体例として取
り上げる聖歌を、アメージンググレイス(540番)にすることにしました。
 ちょうどその直後、神戸国際大学を会場としてひとつの講習会が開かれました。WCC関西と
いうグループが毎年主催している教会音楽の講習会です。講師はこの二週間にわたる企画の
ために来日したマーク・アンダーソン氏。10年来、米国から来日して関西の諸教会で教会音楽
のスピリットを広めてきているそうです。当日は各地から教派を越えて25名余りの参加者が集
いました。マーク氏のコンサートの後の一時間半、非常に興味深いお話で、三分の二の時間
が、聖歌の簡単なアレンジについての解説でした。
 まず始めにパッヘルベルによる、あるひとつの讃美歌をもとにして作られた沢山の変奏曲を
演奏されました。それぞれの変奏の合間に、基のメロディーがどのように使われているかのカ
ラクリについて、非常に簡潔に説明されました。次にそれらのカラクリをそのまま真似して違う
聖歌で応用してみましょう、ということで選ばれた聖歌が、アメージンググレイス!私は興味
津々で聴き入りました。マーク氏はアメリカ人らしく非常に明確に分析して下さいました。紙面
の前の皆様もここで是非聖歌のページをお開き下さり、できれば実際に楽器の前でひとつず
つ試されると面白いかと思います。以下に概略を書かせていただきます。
1.メロディだけ違う鍵盤で弾き、音色を変えて趣を変える。
2.ソプラノと、ベース(1オクターブ下げる)だけ弾く。
3.ベースの五度上にテナーをつけて、ソプラノは普通に。
4.ソプラノの四度下にアルトをつけてベースは普通。ロマンチックなラングレー風。
5.拍を変える。長い拍と短い拍を入れ替えたり、3拍子を4拍子に変える。
6.ソプラノに装飾をつける。(飛んでいる二音の間を音階で埋める方法も)
7.両手を和音ごと1オクターブ上に持っていく。
8.メロディをペダルで弾き、手で和音をつける。
9.長調の曲を、短調で弾く。(時々和声を変える程度)
 マーク氏によりますと、始めは硬くなって構えがちですが、全て完璧にやろうとしないで、この
中から気に入ったやりやすいものを少しずつ取り入れてみて、段々に慣れていくといい、という
ことでした。ポンと背中を押された、温かな気分になれました。



マーク・アンダーソン先生


六甲アイランドからの風 23  「『キンチョーおばけ』の正体は?」

  「え?緊張することあるんですか?」と良く言われる私は、おそらく地球上で一番のアガリ症だ
と思います。いざ人前で弾くときになると、硬くなって怖くなって手が汗ばんで冷えてきて、弾き
ながら鍵盤の上で指がガタガタ震え出し、踏ん張っている靴底がカタカタ音を立てることもあり
ます。そのような状況ではせっかく練習の時ノビノビと自由に音楽を楽しめていたのに、カチコ
チに固まって「間違えないようにしなきゃ」とつい慎重になってしまい、無機的な演奏に終わって
しまい、後で落ち込むこともあります。
 「その場から逃げ出したくなるくらい怖い」というときは一体、「何が」怖いのでしょうか?
過去の怖い体験を分析してみると、そのような時は頭では「音楽に集中しよう」などといくら自
分に言い聞かせていても、「この場で活き活きと演奏するなんて、私なんかには到底できない
よ〜!だって私ってそんな凄い人間ではないもん」という、あたかも自分を守るかのような甘い
ささやきに包まれます。この気持ちを反対側から分析すれば「私の能力は私が把握している」
「私は、自分ができると思う以上のことはできない」、つまり、自分の像を自分で限定して決め
付ける、という硬い心の動きが働くのだと思います。
 そのような時私は、意識してやってみることがあります。それは、本来の自分なんて自分では
わかるはずはなく、それを唯一わかっている神様が、私をこの場に置いて下さったという事実
に、無理やりにでも焦点を合わせてみる、という努力です。すると「自分で思っている自分の
姿」と「神様が思っている自分の姿」とに違いがあり、自分で勝手に限定していることが馬鹿ら
しくなり、限定から解放され、自分でできないと決め付けていることが如何に無駄でエゴなエネ
ルギーであるか痛感し、「神様ができると言って下さっている」と、素直に肌で感じ取れる心境
になるのです。
 神様の思い通りに器として動かされ、風通し良くふわりとなれたような、自力で弾いているの
ではない自由な感覚の時こそ、私にとって最も幸せな時間です。これは何にも変えがたい喜び
であり、なかなかいつでもこの心境になれるわけではないので、またこのように努力したいとい
う気持ちにさせられることは、私にとっては自分と向き合うトレーニング、生き方のレッスンとし
てのお恵みです。
 また演奏上、緊張した状態だからこそできることもあります。緊張のエネルギーはプラスにも
働きますので、キンチョーおばけは決して悪者ではないのです。
ですから最近一番気をつけていることは、緊張したときに「どうしよう!」と焦る思いを一旦横に
置いて、「そりゃあ緊張するよね」と、その状態を自分で受け入れるようにすることです。そうす
ればキンチョーおばけに飲み込まれずに、キンチョーおばけ本来の力を発揮してくれるのでは
ないか、と信じ、毎回姿を変えて出現するキンチョーおばけと向き合う日々を送っています。


アドヴェントのチャペル

六甲アイランドからの風 22  「違和感のない音楽」

 たまに凄く落ち込むことがあります・・・努力や思いが空回りしているような気がして。
礼拝とは何だろう。礼拝に求められる音楽って?そのために何を自分は求めるべきか。
 そのように模索しているときに、先日、ひとつの大きなヒントが目の前に降ってきました。それ
は会衆として参加したある礼拝の中で、聖歌アナウンスと共にオルガンが鳴り始めた瞬間で
す。何かわからないけれど、さあ歌おうという気持ちに自然にさせられ、気付いたら何故か大
声で歌っていました。気持ちよく歌いながらも、職業がら?か、どうしてこんなに歌いやすいの
だろう?つい歌わせてしまう原因は何?どのような方法で弾いているの?と、「技を盗もう」とす
る脳の働きが条件反射的に起きてしまいました。しかしそのような理屈は、「歌いたい」気持ち
の波に見事に押し潰されて流され消えていったのです。音楽の力が理屈を超えた瞬間です。
 居合わせた友人達にも質問してみましたが、歌いやすかった原因について、的を得た返答
は皆無でした。学生の勉強会でも感じてきたことですが、「歌いやすい」原因のほうが、「歌いに
くい」ときの原因よりも、言葉で表しにくいものではないでしょうか?音楽を離れても例えば、「快
適」と感じる理由のほうが「不快」の理由よりも、言葉にしにくいような気がします。気持ち良い
ときは特に理由を追求しなくてもその快感に自然に浸れるけれども、不快だと、嫌なので本能
的にその原因を探りたくなるのでしょう。
 この体験を通して私は、当たり前のことを改めて痛感しました。それは礼拝の音楽とは「ただ
そこに在る」べきであり、そのためには、力みや背伸びや押し付けや固定観念といった人間側
の都合が、顔を出す隙間はないということです。もちろんその奏者はベテランですし、深い研究
や努力などの裏付けがあるのでしょうが、聴く側にはそれを感じさせず、ただ音楽のみがそこ
に存在する姿でした。
 「違和感のない音楽」・・・極めて消極的に響く表現と思われるかもしれませんが、本来の音
楽の力が最大限にのびのびと発揮されている姿こそ、「違和感なく」感じるのではないでしょう
か。その究極的な様を垣間見た晩夏の礼拝を通して、違和感のない音楽の裏には、涙ぐまし
い孤独な努力の時間が隠れており、その努力が結実したかどうかは、神様にしか判断できな
いことなのだと、実感しました。


六甲アイランドからの風 21  生きている聖歌:8

 先月号で『抑揚・強弱の表現はオルガンならではの方法でいくらでも可能です』と書きました
が、その点について、「それではその方法とは具体的にどのようなものなのですか?また、どう
したら、強弱のイメージがわかるのですか?」というご質問を、読者のかたから伺いました。
 「この方法をやってみよう」といった提案を言葉だけで行うことは、危険ですし、とにかく自分
の音を聴いて、色々な方法を試行錯誤しながら自分なりに軌道修正していくしかないのではあ
りますが、例えばこのような方法を私は試してみました、という例を、少々挙げてみたいと思い
ます。
 先月例に出した、316「ちからの主を」のページを開いて、歌ってみましょう。まずは最初の二
小節がワンセットで、二小節の真ん中のところを「山」にして、柔らかい「弱→強→弱」のカーブ
があり、次の四小節のワンセットの真ん中を山にして、大きな柔らかいカーブがあります。二段
目の「たてごと」からの五小節はこの曲の中で最も音程が高く、盛り上がるところで、最後の4
小節は、曲の締めくくりとしてワンセット、そしてこの最後のワンセットを迎える「みなを」の歌い
始めは、その直前の盛り上がり部分からサッと我に帰るような感じで、ごくごく弱く始めると、構
成がしっかりと浮き出てくると思います。
 実際にオルガンでこれを弾くときに、本当に自分が声を出して歌っているときの、実際の横隔
膜やウタゴコロをそのまま適応して、声に出す寸前の感覚で、歌っているつもりになって音楽を
感じてみます。
 ここで必要なことは、肉体的に、オルガンと一体化していることです。そのためには、何より、
脱力が必須です。力が入っていては、思いは空回りするばかりです。具体的には、姿勢を楽
に、風通しのよい身体の状態になって、腕の重みを感じてそれを楽器に任せてみます。まるで
鍵盤の延長線上に自分の指が繋がっているかのような体感で、鍵盤の上下運動が、あたかも
自分で歌うときの横隔膜の上下運動とすっかり連動しているかのように、楽器の身に寄り添っ
てみることだと思います。
 力が抜けている状態は、色々な意味で、コントロールが利く状態と言えるでしょう。柔らかく楽
器に寄り添っている状態で、ウタゴコロを前面に押し出していけば、パイプは、それはそれは見
事に、ウタゴコロの通りに歌ってくれるのです!それは、自分が思っていた「自分なりの歌」以
上の可能性を秘めた無限大の世界です。この瞬間があるから、オルガニストは止められませ
ん!


夏のキャンパス脇 散歩道にて


六甲アイランドからの風S 生きている聖歌:7 「音の向き2」

 「光の向き」のような流れが音楽にもあると、先号で触れましたが、今回は具体的に聖歌集を
開いて見てみたいと思います。聖歌316「ちからの主をほめたたえまつれ」と413「思いやりの心
そなえ」では、「音の向き」はどのようになっているでしょうか?非常に大雑把に見て、音が上昇
しているところはクレッシェンドで、下降しているところはディクレッシェンドで歌ってみると、自然
な流れではないでしょうか。もちろんこのコラムで何度も書かせていただいているように、拍感
は非常に大切ですが、その拍感に乗った上でこのような強弱をつけて歌ってみると、大まかな
音楽の流れが掴めると思います。 
 それではどのようにすれば、このような「抑揚」「強弱」が表現できるのでしょう?オルガンで
は音の大小を作れないから、不可能なのでしょうか?そんなことは全くありません。オルガンな
らではの方法でいくらでも可能です。それではその方法は・・・?具体的に取り上げ出したら、
それはもうキリがなく奥の深い世界であり、オルガニストとはその世界の捕らわれの身となって
(その世界に魅せられて)、右往左往している人種に他なりません。
 しかしどのような具体的な方法であっても、最も基礎的で一番忘れてはいけない感覚がある
と思います。それは、まずはじめにこの音楽のイメージを明確に持つこと、そして、実際に今自
分が出している音楽を、自分の耳で「聴く」ことです。それが自分のイメージと違った場合は、そ
のイメージとぴったり来るような音楽が聴こえて来るまで、あの手この手を駆使して試行錯誤を
繰り返すのみであろうと思います。
 例えば、イメージを明確に持ってみた聖歌を、ピアノの前に座って、そのイメージが非常に大
げさに現れるように、意識を集中して、イメージのことだけ考えて弾いてみます。それを自分の
耳で聴いて、自分のイメージとの誤差をなくしたり、あるいは反対に、今まで自分が抱いていた
イメージを覆すような新しい発見を見つけて、軌道修正をしてみたり・・・このようなことは、ピア
ノの経験が多少ある方でしたらピンと来るであろうかと思います。オルガンでも、全くこの点は
同じ作業であると考えています。
 大切なことは、後者のほう、つまり、「自分の中の明確なイメージ」を持って試してみることは、
常に新しい気づきによって新しい音楽が誕生するためにこそ必要、ということなのです。いくら
明確なイメージを持っていたとしても、それを頭ごなしに押し通して、純粋に今この場の音楽に
耳を傾けないでいたら、それはもう、ひとりよがりの叫びにしかならないですし、まさに「やかま
しいドラやシンバル」。いつでも変えることのできる柔軟な聴く耳が不可欠であると、自責の念
をこめて痛感いたします。
 主よ、 変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その
両者を見分ける英知とを、お与えください。


海沿いの大学キャンパス


六甲アイランドからの風R  生きている聖歌:6 「音の向き」

 映画「のだめカンタービレ最終楽章」をテレビで見ました。この映画シリーズで必ず出てくる、
私の好きな場面があります。それは主人公のピアニストがホールでピアノを弾いている場面
で、演奏が生き生きと良い感じになってくると、キラキラした光(または鮮やかなシャボン玉のよ
うなもの)がピアノから次々と溢れ出て来てホール中に飛び交い、それらが広がってシャワーの
ように空間に撒き散らされているシーンです。奏者も聴衆もその「キラキラ」を全身で浴びなが
らうっとりとしているシーンを見ると、音楽の醍醐味をよく現している映像だな、と新鮮に感じま
した。
 音には「向き」があり、方向性を指す音の「矢印」は、真っ直ぐ太いものであったり、波型の柔
らかい線のものであったり、複雑な形をしていたり、様々です。矢印のスピードも、早足で射抜
くものや、迷いながらゆったり円を描くようなものなど、多岐にわたります。この世に一旦音が
誕生した瞬間に、その音は必ずどこかに「動いて」いくのです。その動きには「ここに行きたい」
という必然的な「向き」(矢印)が必ず存在するのです。
 オルガンで聖歌を練習しながら、このようなことを改めて痛感していた連休中に、何ともタイミ
ング良く、また別の視点からこのことを味わう経験が与えられました。それは「レンブラント展」
(版画と絵画、天才が極めた明暗表現)です。17世紀オランダのレンブラントは「光と影」の表
現を生涯探究し続けた画家と言われているそうです。彼の版画はザッと見るとほとんど黒色の
中にわずかに白い部分が残っている感じで、その塗り残された白い部分が、光となって表現さ
れていました。その白い光は、最も明るい光源から画面の空間内に反射しているのですが、光
の反射には「向き」「矢印」「動き」が存在するのです。光が映し出されたところから、この向き
で、この矢印の形とスピードで、このようなシェイプをもって、こうやって動いている、という、光
のリズムを感じました。眩い光、微かな光・・。つまり光の矢印が、空間を動かしているのです。
この様子が直感的に私には、「音の矢印が空間を動かす」という音楽の醍醐味とリンクし、心
が熱くなったのでした。
 画家も音楽家も、手段が異なるだけで、表現したい世界は共通していて、その世界を何が何
でも体感したいから、日々淡々と地道に努力してしまうのでしょう。音楽は「光」。光を表現する
ことが、音楽家の使命なのです。


レンブラント作品例


六甲アイランドからの風Q 生きている聖歌:5

 礼拝の音楽は、礼拝で今起きている事柄を具体的に心に染みて体感するために存在しま
す。特に聖歌は、表現すべき内容を噛み締める為に、わざわざフレーズを付けて歌うのだろう
と思います。その聖歌の持つ力をこの場に発揮してもらうには、会衆がのびのび気持ちよく歌
っているうちに自然に内容を肌で感じる結果となるような伴奏が効果的でしょう。そのためにオ
ルガニストが工夫研究すべきことは沢山あります。その中のひとつ、「音色を変える」点につい
て今回は三つの聖歌を例にして触れさせていただきたいと思います。
 まずはじめにその聖歌独自の「表したい内容のイメージ」があると思います。全体的に輝かし
いのか、輝かしいとしても単純明快な明るさか、闇の中の光なのか、また暗く重々しいイメージ
であっても、安らぎの中の暗さか、痛々しい重さかなど、例えて言えば「体の中のどの部分あた
りにどのように響くか」は、その聖歌ごとにまちまちです。その中でも一つの聖歌の中で歌詞ご
との変化がわかりやすいものを取り出してみました。
 432番一節では夜明けの光のイメージとして、華美ではない透明な光のイメージ、二節は水
のイメージですから、柔らかい高音を含んだ音色で透き通った流れるような音、三節では光が
強まって賛美も加わるので、一節より広がった音色、そして四節は例えば前半は苦しみを表す
音色、後半は苦しみを経た復活の深い感動的な音色が、相応しいかも知れません。
 452番は一、二位節は神様の力をしっかりと感じることのできる力強さ、三節の静かな水のイ
メージが四節で広がって膨らみ、五節ではすっかり神様の恵みに包まれた安らぎの音色が温
かく響くと良いと思います。
 そして461番では一、二節は羊のイメージですから可愛らしくホンワカとした音、三節はしっか
りと導く明るい音、四節では少々暗めでありつつ静かで豊かな音、五節では優しい響きに高音
を加えたような、温かな恵みを感じる音、そして最後は揺るぎない神様との繋がりを確認でき
る、真っ直ぐで平和でふくよかな音色はいかがでしょう。
 オルガンは沢山の音色の宝庫。どんな小さなオルガンでも様々な工夫をすることによって無
数の音色の可能性を秘めています。オルガニストとしましては与えられた楽器の最大限の可
能性を引き出し、最も相応しい音色を作るために、試行錯誤を繰り返しながら、毎回妥協する
ことなく、色々な角度から掘り下げて研究したいと考えております。それにはオルガンの使いこ
なし方を研究することと共に、聖歌のテキストの意味合いをじっくりと黙想していく努力が必要で
はないでしょうか。このようなことは一人きりで出来ることではありませんが、自分で可能な限
り、まずは「やってみる」ことであろうと思います。そのために何よりも、耳を澄まして、ただひた
すら聴くことなのでしょう。


六甲アイランドからの風P 生きている聖歌:4

 先日「デューラー展」を見に行きました。ルネッサンス期ドイツに版画で作られた聖書物語の
作品は、白黒だけの小さな画面でしたが、繊細で力強く大変生々しい描写でした。受難のシー
ンは実に痛そうに、祈るシーンは重い心が伝わってくるようで、喜びの表情は歓声が聞こえてく
るかのようでした。解説によるとこれらの絵は「読み書きのできない一般市民に聖書の内容を
明確に伝えるため」に制作されたとの事でした。なるほど、もし字が読めたとしてもただ読むだ
けよりも視覚を通して感覚に訴える力は偉大なのだな、と感動して帰って参りました。このこと
を通して鮮明に思い出されたことがあります。
 以前、英国や米国で聖公会の伝統的な礼拝に出たときに、詩篇の音楽の豊かさに驚嘆した
印象です。聖歌隊の素晴らしさもさることながら、詩篇の内容によってオルガン音楽が目まぐる
しく変化していく姿は、まるでドラマを鑑賞しているような感覚でした。
 歌詞に応じて時には優しく時には荒々しく時には喜びに満ちて、そして時には一節分だけオ
ルガン無しで、聖歌隊もソッと語りかけるように歌い、これらの変化は例えるならばオルガンの
多種多様な音色のデモンストレーションと言った具合で、驚くほどの変化に満ち、聖歌隊も言
葉に応じて様々な歌の表現をしていました。私は、歌詞を眺めながら共に歌う場合も、聴いて
いるだけの場合も、よくわからない英語の意味が、音楽の彩りの助けによって突然明確に浮
かびだされ、手に取るように歌詞を感じ取れ、感動を覚えたものです。もしかしたらただ日本語
を唱える場に居るよりも、心に迫ってくる感覚を持てたのかも知れません。
 音楽はこのように、テキストの内容の理解を深めるために、必要不可欠なものであるのだと
思います。立教大学に居たころ、詩篇の伴奏(というよりは合奏!)は礼拝奏楽で最も準備と
工夫を要する作業でした。苦労と共に、非常に有意義で深い喜びの体験でした。現在私の身
近で詩篇を歌う礼拝は残念ながら皆無ですが、このような精神は聖歌の伴奏でも全く同じよう
に当てはまるものなのではないでしょうか。
 会衆として、聖歌集を開いてパッと目に入ってくる歌詞。日本語ではありますが、メロディを追
う作業と平行して軽く目を通すだけでは、なかなか深い意味まで感じ取れないはずです。そこで
オルガンの音の力強さ、柔らかさなどのイメージが具体的に耳に入ってくることによって、今自
分が歌っている歌詞の内容が、生き生きとした色合いを深めてくるのではないでしょうか。この
具体例につきましては次号でご紹介してみたいと思います。  


デューラー作品例


六甲アイランドからの風O 生きている聖歌:3

 今回は歌詞に関する問題について、顕現節の聖歌113番と116番を例に、日頃思っているこ
とを書かせていただきます。前回触れましたように、聖歌は歌である限り「棒読み」になってしま
っては無意味であり、音楽的構成を捉えて「重い拍が次に繋がっている感覚」を読み取ること
は、不可欠であると思っています。しかしこれはあくまでも音楽的なアプローチであり、実際に
歌っていると、この音楽的なフレーズ感と歌詞の切れ目とが全く一致していない例が、数多く見
られることも事実です。
 聖歌には歌詞が存在してこそ、その存在意義があります。フレーズや和音といった音楽の力
は、歌いながらその歌詞の中身をかみ締め味わうため、必要であるということになります。です
から歌詞の切れ目ごとに音楽の抑揚を無視してブツ切りにしてしまっては、その音楽の力が発
揮できなくなってしまいます。音楽の波に自然に乗りながら、歌詞の繋がりを感じて歌うために
はどのようにすればよいのでしょうか。これは私自身、奏楽での苦労のひとつであります。聖歌
は歌詞が一番大事ですが、音楽である以上まず最初に優先すべきことは、音楽の構成を捉え
て表現することだと思っています。その構成に乗った上で、歌詞に応じて音を少し離すことによ
って、音楽の抑揚を壊さずに、歌詞のグルーピングを表現することは可能であると思います。
 113番譜例、一小節から二小節に移る箇所ですが、音楽は一オクターブ上昇して最高の盛り
上がりのEsを迎える、明らかにテンションの高い箇所です。一節と三節の歌詞はこの小節をま
たぐ箇所で切れているので自然ですが、二節はズレています。その場合高いEsを迎えるテンシ
ョンはそのままにしながらできるだけこの一オクターブ上昇をレガートで優しく持っていって「み
子」の前の箇所でほんの少しだけ柔らかく音を離してみる工夫をすると、自ずと、音楽と歌詞の
グルーピングが共存できる結果となるのではないでしょうか。
 116番譜例の二小節目頭の重い拍を迎えるテンションも同様です。四節では二小節目一拍
目でちょうど歌詞が切れて(「ハレルヤ」「とわに」のグルーピング)いますが、一〜三小節では
一つ前にずれています。この場合一節一小節目最後の「こ」は本来弱拍なのですが、あえて
「たゆる」を一まとめとして繋げて、それらと四泊目とを分けることにより「ことなし」を一フレーズ
として捉えることで解決すると思います。つまり最後のフレーズのグループが、四節では「とわ
に」、一節では「ことなし」となります。
 現行聖歌になったことで、自分の頭に自然に浮かぶ歌詞と実際の歌詞とに微妙な違いが生
ずることが増えて怖いので、いつも私はこの譜例のように、キーポイントと思われる箇所には、
歌詞の切れ目をメモ(縦線)してから練習するようにしています。メモが多すぎますと、かえって
混乱してしまいますが・・!


六甲アイランドからの風N 生きている聖歌:2

 「歌うという行為は、自然に抑揚やカーブを生み出す。棒読みでは歌えない。」というような点
について前号に書かせていただきましたが、そもそも周知のように、古の教会で歌が歌われる
ようになったルーツは、祈りの言葉の抑揚をもとにして自然発生的に節と抑揚がついた「グレ
ゴリオ聖歌」でありました。
 一人での祈りのフレーズではなく、複数の人たちが声を合わせて祈るとき、自然なフレーズ
や抑揚があったほうが、棒読みで唱えるよりも自ずと合わせやすく、まとまりやすい、という事
も言えると思います。つまり、抑揚のある立体的で生き生きとした伴奏があれば、歌いやすく合
わせやすい、ということになります。
 その聖歌が内在する、最も気持ちの良いテンポというものはあると思いますが、聖歌を生き
生きさせるために大切なことは、速度よりも、内在する立体感や可動性を、如何に素直に効率
よく引き出すかということではないでしょうか。例えば自分が会衆として歌うとき、自分のテンポ
感と違う速度の伴奏であると感じても、伴奏の持つ抑揚や構成感に説得力があれば、すんなり
と気持ちよく歌えてハッとするときもあります。このような観点から、今回も二つの例を取り上げ
てみます。
 アドヴェントとクリスマスの聖歌、64番と71番です。二曲ともグレゴリオ聖歌が出典なので、譜
面に小節線と拍子のようなものがありません。メロディも柔らかく曲線的に見えます。かと言っ
てただ優しく吐息のように細々と歌うだけでは、声も合いませんし曲の持つパワーも引き出され
ません。拍はないけれども、深く重い拍を敢えて入れて音楽をリズミカルに感じることによって、
自然な立体感と動きを引き出すことができます。
 例えば64番最初の「ひ」はもちろん次の「まちにし」の「ち」も、深い拍と捉えてみることによっ
て、「ひさしくま」と「ちーに」が非常に柔らかい一息としてまとまります。そしてこの柔らかい2つ
のフレーズのまとめ役として「し」が優しく現れてしっかりと抱きしめます。そして自然なブレスの
後、柔らかな「主」に導き出され「よ」が深く入り「とくき」まで一息で、次の「た」がまた深く迎え入
れられ「り」まで柔らかくつながり、「て」がそれまでの全てをしっかりと包み込みます。二行目も
同様で、優しい「み」に続いて「たみのな」「わーめを」というグループに分けて見てみますと、非
常にシンプルに、抑揚の構成がわかります。以上のようなことは71番においても同様に当ては
まると思います。


六甲アイランドからの風M 生きている聖歌:1

 冷たい木枯らしの足音と共に、今年もクリスマスを待ち望む季節が巡ってきました。今回はア
ドヴェントの聖歌を二曲取り上げます。聖歌集51番と59番の頁をお開き下さい。各頁左下には
歌詞の出典、右下にはメロディの出典が記されています。右下の上の行の大文字はメロディ
の愛称で、下の行は作曲者名と生没年です。この二つの聖歌を比べるとかなりかけ離れた時
代(古典より前の時代とロマン派)に作られたメロディであることがわかります。ですから音楽の
様式感は全く異なるのですが、共通点があると思います。それは四拍子であるということ、そし
てもうひとつは「音型のカーブ」です。
 51番では、最初に深い息と共に入る「主」の裏に隠れて「の」が優しく入り込み、その陰で「た」
が静かに深く吐き出され、柔らかい「み」が導かれます。小節線をまたいで深い「ひ」の響きの
向こうから「さ」が迎え入れられその中で太い「し」が、そして「く」が柔らかく収めます。三小節目
も深い「ま」につられて「ち」が運び込まれ「にーし」が優しく動いて強い「イェス」を導き、優しい
「よー」が収めます。後半も同じ仕組みで、大きく眺めると後半一小節目と同じ音型カーブで二
小節目が最も盛り上がり、最後の二小節で収まります。
 59番でも、細かく見ると51番と類似したカーブの感じがあります。しかしこの歌の場合は一小
節目の最初の「お」の深いエネルギーは二小節目最初の「だ」の深さへと強く向かっていると思
います。つまり最初の「お」(裏に「い」が隠れている)の重さに導かれ出された「で」(裏に「く」が
隠れている)の動きによって、次の「だ」が迎え入れられる感覚です。次も「世」からの弾むよう
な流れに乗って四小節目の「い」の拍が自然に生気を帯びる仕組みになっていると思います。
 このような文章表現には無理がありますが、また解釈には正解などありませんが、例えばこ
のような工夫を試みることによって、楽譜の奥に隠された本来の音楽の持つ抑揚や弾み、立
体性や可動性が呼び覚まされ、生き生きとした歌として実感できる時があるのです。
 自分で何か歌ってみる時、抑揚なしで棒読みで歌うことは非常に不自然です。歌うという行為
自体、自然に抑揚やエネルギーのカーブが発生するものであるということは、極めて当然のこ
となのですが、ついつい楽譜を前に鍵盤に向かうと「棒弾き」してしまう危険性がある、というこ
とだけでも、常に意識していたいと思っております。


2010年12月17日  神戸市民クリスマス@ミカエル大聖堂



2010年12月17日  大学クリスマス礼拝


六甲アイランドからの風L パイプオルガンに触れてみよう

 神戸国際大学に赴任して4年半、当初より温めてきた子供対象体験型レクチャーコンサート
が、この7月に開催されました。まさに夢の実現。発案、企画、実行をひととおり終了した後に
なって初めて、この企画を何故これほど思い入れ深く感じていたのかが、わかりました。この企
画に手応えを感じた要因は二つあります。ひとつはオルガンという楽器の底力。そして子供の
純真な五感の底力です。
 どのような楽器にも「共鳴体」という部分、つまり音を響かせて空間に広げていく役割をする
部分があります。例えばギターやバイオリンでは弦がついているボディの部分、声楽では歌手
の身体が共鳴体の役割をします。オルガンの場合は建物全体が丸ごと、この共鳴体の役割を
担います。特に神戸国際大学のチャペルは、建物全体が巨大な楽器のように響くことを考えて
設計されています。そしてその空間を最良の方法で飛び交い、聴衆を包み込むための響きの
効果を考えて、オルガンは整音されています。
 このような大きな共鳴体の中に自分の身体が入ってオルガンを聴く姿は、巨大な楽器の内
部に入って音の振動を体中で味わうような体験になります。おそらくこの体験は科学の数値で
表せない領域で、聴衆は五感すべての扉をたたかれ、細胞のひとつひとつまで風通しよく響き
が入って全身に音楽のビタミンを配給していきます。これはCDや文章では実感できず、生の
体験でしか味わえない喜びです。
 オルガンは複雑そうに見えて、身近にもないし、楽器ごとに違うし、設置場所もレパートリーも
固そうだし、値段も高そうだし・・・敷居が高いと感じている人も多いかと思います。しかし実際
には、リコーダー奏者や歌手が、それぞれズラッと横に並んでいるだけのようなシンプルで原
始的なつくりであるし、ただそこに降って来る音を理屈抜きで身体で楽しめるものだし、オルガ
ンと一緒に歌うと大合唱みたいだし、触ってみると意外に簡単に鳴らせるし、色々な音がある
し・・・というようなことを、子供たちが体中の五感を開いて、口を開け目を丸くしてパクパクごっ
くんと味わっている表情を眺めながら、私は、オルガンの最も大切で基本的な部分に触れるこ
とができたような、心地よくしかし目の覚める新鮮な衝撃を受けました。自分もこのような感覚
があってオルガンの虜になったのだなと、原点に戻りました。


かわいい子供たち30人が大集合!


六甲アイランドからの風K 神戸教区オルガニスト研修会 Uチャント

 礼拝におけるチャントの伴奏・・これは私を含めオルガニストにとって最も難しいことの一つで
はないでしょうか。チャントは生き物。同じチャントであっても教会ごとに異なる歌い方をするは
ずです。チャントに関する個人的問題を皆で共有し、普遍的解決策を模索することを目的とし
て、研修会の中でチャントの時間を設けました。
 まず初めにS11-5シメオンの賛歌を用いてアングリカンチャントの基本を体験してみました。
最初にオルガンもメロディも子音も抜きで、母音だけ(主よ、は「うお」)にして皆で声を揃えて唱
えてみました。その時の注意点として、どのような場合であっても一音節の長さを等しくすること
をお願いしました。そうすると楽譜上の二重線と句読点の箇所のみ指揮をすれば、それ以外
のフレーズは指揮をしなくても自然の流れに従って声が揃うことがわかりました。次に一重線と
二重線の箇所のみ指揮をして、実際の子音付きの言葉を皆で唱えました。先程の理屈を実践
すると例えば一節後半「去らせ」の箇所は、続く「て」の箇所のちょうど三倍の長さになります。
「くだ」は「さ」の二倍になります。「去らせ」が中途半端に短すぎたり「て」が長すぎたりすると、リ
ズムが不明瞭となりダレて合わせにくくなることをお話しました。そしてオルガン付きで試してみ
ました。「去らせ」直前の一重線をまたぐ箇所の処理のヒントとして、その前の最後の音(安ら
かにの「に」)を伸ばしすぎずに敢えて早めに切って、「に」と「去」の間にほんの少しだけ間をあ
ける事によって、「去」の始まる歌のタイミングが合う可能性も提案しました。
 実は今回のチャントの時間のクライマックスは、全ての要素が凝縮されたこのアングリカンチ
ャントでした。その他二曲の課題曲では、この基本を応用することに加えて「フレーズをグルー
プに分けて動きを持たせる」処理の仕方を提案しました。S27-2グロリア後半「父なる・神の」
「栄光の・内に」というグループ毎に、各々のグループを単調にではなく、言葉の持つ抑揚に応
じて柔らかく大げさに表情をつけてみると、結果的に声を合わせやすくなり、また音楽が動き出
して自然な流れにもなるという事を、皆で歌いながら体感できました。これはS38-2アニュスデ
イの「あわれみ」のように同じ音が続く場面でも実践でき、弾力を持った動きを感じれば丸みを
帯びたフレーズとして処理できることを味わいました。
 聖歌の学びと同様、私にとってひとりでは到底体験できない貴重な時間となりました。自信も
正解も無くても、何かを提案して皆で試して実践してみる事なしには、立ちふさがる厚い壁を通
り抜けることは出来ないと痛感したひと時となりました。


研修会の風景


六甲アイランドからの風J 神戸教区オルガニスト研修会 T 聖歌

  「歌おう弾こう!礼拝で献げる音楽」というタイトルで、神戸教区が今年も研修会を開いて下さ
いました。6月25日、26日の二日間で会場は神戸国際大学チャペル。オルガン「ルナ」を囲ん
で、神戸をはじめ山陰、四国、広島、岡山、淡路島などから熱心なオルガニストが30名ほど
(司祭二名と教区主教も!)集い、共に音楽のひと時を過ごしました。
私は講師としての立場でしたが、何より日ごろ奏楽に悩むイチオルガニストとして、参加者各
自の探究心と触れ合い、共に音楽を体験することによって分かち合いと学びのときを持ちたい
と願っての開催でした。お蔭様でひとりひとりの熱い思いが交応して、大変かけがえの無い機
会を与えられた二日間となりました。
  このご報告を兼ねて具体的な例を、二回に分けて以下に書かせていただきたいと思います。
課題曲として聖歌6曲とチャント3曲を挙げ「全て人前で弾けるように準備して来て下さい」「一
週間前までに演奏希望順位を提出してください」とお願いしました。実際に会で弾ける曲は数
曲ずつになりますが、他の人が弾く曲も全て自分で弾いて考えておくことによって更に深い味
わいを体験できるとの狙いでした。
 少し緊張気味にスタートした会では、まず参加者全員に第一希望の聖歌を弾いて頂くことに
しました。自分が弾かないときは皆で遠くに離れ、一節分を歌ってみる体験をしました。一節を
終えた後、奏者に感想を伺ってから、一言だけ音楽的な提案をお話し、歌い方のアイディアも
ほんの少しだけお伝えして、もう一度皆で歌ってみることをしました。
 しばらくこれに慣れた頃、ふと思いついて306番の聖歌(こひつじをば)を3名の方に続けて弾
いていただき、その後私からは何も言わずに、各々に弾いた感想と気をつけた点、やろうと思
って出来た点と出来なかった点、もう少しどうしたいかについて、自らの奏楽に対するお考えを
聞かせて頂くことにしました。三人共非常に深く、この歌について考えていらしたので、大変興
味深い出来事でした。具体的には「最後のサビを盛り上げたい」「サビを盛り上げるために前
の部分を弱くしてみた」「歌詞のしっかりとした感じを表したい」「華やかで前向きな音楽の雰囲
気を出したい」などでした。その表したいものが何故思うように表せないと思ってしまうのかとい
う点に関して、いくつか実験的な方法を試していただきました。結局行き着くところは、拍の感じ
方、音の強弱をコントロールする呼吸の仕方、音色の作り方、というような極めて具体的な点
でした。そして歌の最後の盛り上がりに反してソプラノが下降している点を指摘し、例えば最後
のフレーズのみアルトのメロディーを1オクターブ高く弾くと、大きく盛り上がったまま曲を閉め
ることができるという可能性を提案し、実際に弾いてみて皆で効果を体験しました。
 (次号:チャントに続く)


研修会の風景


六甲アイランドからの風I 聖歌の醍醐味

 先日テレビを見ていて、人気歌手の一言にハッとしました。人気絶頂の彼らは人前で歌う機
会が当然のようになった今、歌う時にいつも気にするようにしている基準があり、それは「かつ
てストリートミュージシャンとして苦労していた頃の自分が、この歌を聴いて元気になれるか、な
れないか」という事だと言うのです。今ここに居る人を元気にさせよう、などという傲慢な観点で
はなく「自分が聴いてどう感じるか」という視点に立っている点を、新鮮に感じました。オルガニ
ストとして例えれば「今、自分のこの伴奏を聴いて、果たして自分は歌いたくなるか、ならない
か」ということになります。これは一見個人的なことのようでいて実は結構普遍的な基準となる
のではないでしょうか。
 聖歌を弾いていると、ちっぽけな自分という限定を一気に飛び越えて、突然に無限な世界に
羽ばたけることが、稀にあります。自分が弾いているはずなのですが、自分でいつも自分だと
思っている部分ではないところが覚醒されて、「いつもの自分」が驚くほど、音楽が伸びてくるこ
とが、稀にあります。音楽の誕生の瞬間です。オルガンの音が遠くの方で会衆賛美と交じり合
って、それが交流し合いながら「1+1=2」以上のものに膨らんで発展していく様子を、客観的
に肌で感じることも、稀にあります。
 また会衆席で聖歌を歌っていてふと気づくと、つい腹の底からのびのびと歌っていて、自分は
これほど声が出たのかと驚いたり、自分の声なのに自分で歌っているのではないような自由な
感覚になって、周りの声とそれを包むオルガンの響きと共に合体して、それがとてつもなく広大
に膨らんで伸びていく姿を、まるでスクリーンのワンシーンのように眺める瞬間も、稀にありま
す。
 このような体験があるからこそ、私はこの道の飽くなき挑戦を止められないのだと思います。
また、このようなことが「稀に」起きるということも、もしかしたら意味があるのかも知れません。
稀だからこそ、有り難く新鮮味もあり、その稀で幸せな体験を、早くまた味わいたいという原動
力にも繋がるのだと思います。
 一回一回の礼拝は、どのようなものであっても決して「実験」の場になってはいけないと思い
ます。しかし「こういうものだ」と頭デッカチに限定をして、可能性を閉ざしてしまうことも、同じよ
うに、いけない事だと思います。また、間違わないように、テンポを崩さないように、目立たない
ように、などと極力消極的に臨むことも、音楽の力を発揮させないための近道であることでしょ
う。
 音楽は生き物です。生き物である音楽を礼拝で誕生させていただくことを担う以上、自分は
生き物を相手に、生き物を生み出す役割を与えられている、という自覚を持つことは、オルガ
ニストにとって最も大切なことではないでしょうか。何より、自責の念をこめて・・・。


鍵盤とストップノブ


神戸国際大学諸聖徒礼拝堂


六甲アイランドからの風H 〜ビートの不思議な世界A〜

 私が小学生のころ、絵日記の画面いっぱいに大きな三角形を描いて提出したことがありま
す。それは、大好きな音楽の先生が授業で、初めて指揮について話して下さった日でした。新
しい世界が開けた喜びに溢れた三角形だったのです。詳細は不確かですが「三角形を描くこと
が、三拍子を取ること」という感覚がインプットされた瞬間でした。
 それから十数年後大学の授業で、また印象的な瞬間がありました。机の上が熱い鉄板だと
思って、手を上からゆっくり円を描きながら下ろして、机に触れた途端に「アツイ!」と言ってふ
っと柔らかく手を上げる、ということの繰り返しが指揮である、という説明でした。実際に皆の前
で「アツイ!」と言いながらジェスチャーをしたことを覚えています。
 今から思えばこの二つの衝撃的な話は、「拍子を取ると言うことは、例えば三拍子なら、一拍
目と二拍目と三拍目とは連動しているのであって、各々が独立して存在しているのではない」と
いうことを表わしていたように思います。言い換えれば、一拍目という点の直後から、次の二拍
目の点に向かう運動が開始され、二拍目の点はまた三拍目の点を迎え入れる・・・言葉で書く
と難しくなりますが、点同士の連動こそ拍であり、拍を取ることによって音楽は前に進む、という
ことです。
 先の例を利用して、鉄板の机の上に丸い針金の輪がフワっと立って乗っている状態を想像し
てみましょう。机と輪とがくっついているところを、強拍とします。机にくっついていない部分は、
強拍と強拍との間の部分に当たります。ひとつの強拍があってから次の強拍までの間に、丸い
音楽の流れが生み出される、という感覚がよくわかると思います。この丸い輪が大きい方がゆ
ったりとした流れになり、小さいと躍動的な音楽になります。
 また丸い輪はあくまでも丸であり、フワッと立っており、全てがベタッと机に広がっている状態
ではないのです。「机の上に持ち上がる輪」を描かない状態は、つまり「拍を取るたびに逐一落
っこちる」ような、平坦で前に進まず何も生まれて来ない音楽になってしまいます。それだけ拍
の取り方は、音楽を活き活きとさせるかどうかを、左右してしまうのです。
 丸いばかりでなく、深い息を導き出すための、深い息を伴った深い拍を取れると、更に音楽
に深みが増すのではないでしょうか。パイプオルガンという楽器は、この深い息や、深い息から
音楽が動き出す感覚が、とてもわかりやすい楽器であると思います。メトロノームのように杓子
定規に弾くためではなく、驚くほど自由に歌や音楽を誕生させるための土台として、深く丸い拍
は、私たちをどこまでも奥深く不思議な世界に連れて行ってくれるのです。また、このような拍
に乗れれば、大船に乗った心地になって緊張から開放され、自分で弾いているのではないよう
な、神様に動かしていただいているような気持ちにさせていただけることが、何より嬉しいもの
です。


さまざまなパイプの顔


六甲アイランドからの風G  聖歌 〜ビートの不思議な世界@〜

  礼拝で聖歌を歌う行為の魅力や意義などについて、過日この連載で書かせていただきました
が、今回はもう一歩踏み込んでみたいと思います。「聖歌をのびのび自由に歌う」ことから得ら
れる幸せ感は、歌う人ひとりひとりの体の奥底から湧き出ることであり、それを全体の一体感
へと誘導することが、オルガニストの役目だと思います。
 誘導するには自信や確信が必要となりますが、常に迷ってばかりの私にとって、何を拠り所
にして立てば良いか、混乱してしまう時があります。そのようなときに最も助けになってくれるも
のが、ビート(拍)です。
 聖歌と向き合う時、始めに聖歌のキャラクター、音楽のつくり、テキストの内容や歌の感じな
どについて眺めてみます。全体のイメージを掴んだ後、この聖歌の持つ力を表現するために
具体的にどうすれば良いかを考えます。テンポや音選び、フレーズの感じ方など考えることは
沢山ありますが、その中で最も柱となるアプローチが、「拍」を捉えることです。拍さえ捉えれ
ば、テンポやフレーズは自然についてくるもののようです。逆に、拍を感じずに小手先のことに
ばかり気を取られると、混乱します。
 一概には言えませんが、例えば、ゆったりと歌いたい時は拍を大きく、元気よく歌いたい時は
拍を細かくしてみると効果的なことがあります。拍を大きく取るというのは、四拍子の曲は一小
節を(四拍ではなく)二拍で取り、三拍子の曲は二小節まとめて、二小節分を大きな二拍で(八
分の六拍子のように)取る、ということです。
 どのようなことになるか具体的に試してみましょう。まず四拍子の「482いつくしみ深き」を、四
拍で取るのと大きな二拍で取るのとを、「同じテンポで」比べてみてください。二拍で取る方が大
きくゆったりしませんか?それでは「457主に従い行くは」はいかがでしょう。四拍で取ると、軽
快なマーチのようになって相応しいと思います。三拍子の歌では「540やさしき息吹の(アメイジ
ンググレイス)」「316ちからの主を」の二曲を、各々拍の取り方を変えて歌ってみてください。
 できるだけ一拍目を強調するとわかりやすいでしょう。拍の取り方を変えてもテンポは変えな
い、ということが、この「実験」の鉄則です。拍の取り方によって、歌の雰囲気が大きく変化する
ことが、おわかりいただけたかと思います。拍の取り方ひとつで、フレーズがどこまで繋がって
どこに向かっているのか、音楽の推進力や躍動感など、全てが不思議なほど変わっていくので
す。しかし一番大切なことは、拍を幾つに取るかではなく、拍をどのように取るか、です。
(次号に続く)


パイプ総数は1758本


六甲アイランドからの風F「オルガン定期保守」

  オルガンの音を「本当に聴く」ってこういうことだったのか!とドキッとする瞬間があります。そ
れは無心に練習をしながら、それまで無意識であった音の数々に突然耳が開かれ、違う世界
に連れて行かれる瞬間、また礼拝や演奏会中、緊張の壁を打ち破って急に遠くの響きの渦の
中に導かれる瞬間、そしてもうひとつは、オルガンの音の調整をしている時です。
 パイプオルガン「ルナ」には1758本のパイプ(笛)があります。2センチ程度のごく小さい笛から
5メートル位の天井まで届く太い笛まで、大きさも形も材質も多種多様です。オルガニストはそ
の場に応じて使用する笛の種類を選び、多様な組み合わせの音色を楽しむことができます。
組み合わせを楽しめるには、1本1本の笛が「健康」でいる必要があります。健康でいるために
は定期健診が必要です。
 歯科治療と同様に、何か自然の成り行きであっても小さな問題が発生したら、早期発見し取
り除いておかないと大きな虫歯になってしまいます。大きな虫歯を治療するのは困難でも早期
ならば簡単です。そのためには自覚症状の有無に関わらず、定期的に診てもらうことが不可
欠になるのです。
 例えば笛の立ち方が、時間の経過と共に少しずつズレて隣の笛に影響し始めていても、演
奏上何も気にならない場合もあります。しかし気付かずに放っておいて知らないうちにズレがひ
どくなり、気付いた時には既に大事となっている可能性もあると思います。この例に限らず、演
奏時には気付かなくても、何か不具合はないか、丁寧に楽器と向き合ってひとつずつの音を鳴
らしてみたり内部に入り込んで観察しながら異常ナシを確認して、少しでも気になる点があれ
ばそれを書き留めて、良くも悪くも変化した状態を知り、定期的に「主治医」に診て頂くことは、
オルガンを永く活かしていく上で必要不可欠なことです。逆に、主治医と共に原因を追究した結
果、理屈上は一見不具合でも、何故かバランスを取って互いに補い合い、良い状態であること
もあります。このような時は、各部分が各々単なる部品であった過去から時間が経ち、全体で
調和しているという素晴らしさを感じます。
 いずれにしても主治医の存在は、短期的にも長期的にも極めて大切なものです。年に一度、
一年前から予約していた主治医の往診を控え、慎重に状態をチェックし、主治医がいらしたら
ドキドキしながら傍らに立ち「わが娘」の一年の生い立ちを振り返り、報告し話し合い、細部に
至るまで清掃・診察・治療をして頂きアドバイスを受け、一音一音に耳を研ぎ澄まし、現状を知
る努力をし、主治医がお帰りの後はもう一度わが娘に労いの言葉をかけ、また一年後の診察
日が来るまでの数々の楽しく幸せな顔を想像しながら、成長に目尻が下がるのでした。素晴ら
しい二人の主治医に感謝です!


オルガン裏の「パイプの森」に、主治医のお二人


手鍵盤の裏面


六甲アイランドからの風E「聖歌の勉強会」

 前回、礼拝におけるオルガニストの役割について書かせて頂きましたが、思わず歌いたくな
って歌いやすい伴奏、というものには正解があるわけではなく、もちろん私自身自分でそれが
できているとも思いません。完璧な姿など存在しないと思います。音楽は生き物ですから、その
場に応じて変わっていきますし、何よりその場の空間が作り出すものです。
 その場で自然に生まれ出たものが、結果として最も素晴らしく美しい力を持つのです。これが
音楽の醍醐味です。ですから一番大切なことは「今この瞬間にここで共に音楽を表す」という意
識なのだと思います。そのためにこそ、日ごろの研究が必要になってくるわけです。
 聖歌には、西洋音楽の持つ大切なエッセンスがパンパンに詰まっています。まずはそのエッ
センスをひとつひとつ整理して向き合ってみることが大切だと思います。その聖歌がどのように
歌われるべきかということに対して、オルガニスト自身が明確な視点を持たない限り、その伴
奏には説得力がなくなります。(もちろんそれに固執せず「本番」で違うと思えば一瞬にしてこだ
わりを捨て去る勇気も不可欠ですが・・。)
 いずれにしても、たとえ間違っていても自分なりに、まずは聖歌を見つめてみます。第一に、
作曲年代、出典、歌のフレーズはどうなっているか、拍の色彩の移り変わりとフレーズとの関
係性、またテキストと音楽からこの聖歌が表現したいものは何か、などイメージに関することで
す。
 次に、そのイメージを表すための方法を考えます。例えばフレーズを柔らかく歌い収めるた
めの鍵盤のコントロールの仕方、サビを盛り上げるための呼吸の仕方、テンポの設定、息継
ぎの方法などを試行錯誤したり、オルガンの音色の選び方などで、曲全体をどのような展開に
持っていくかを考えます。
 そして最も大切なことは、実際に声を出して自分で気持ちよく歌えるか、耳と心とを注意深く
傾けて、歌ってみることです。弾きながらよりも、一度鍵盤から離れて、軽く自己流の指揮をし
ながら歌ってみると、大切な発見があることが多いです。
 このような作業はあまりにも奥深いので、同じように孤独に悩むオルガニスト達と共に集い、
弾き合い歌い合い、実際に試してみる機会は、何よりも必要で貴重な学びの体験となります。
神戸国際大学のオルガン「ルナ」を通して、神戸教区主催の聖歌の勉強会の実現が叶い、大
切なことに気付かせて頂けたことは、何よりのお恵みでした。


チャペル塔


六甲アイランドからの風D「聖歌の力」

  聖歌は、無限なる可能性の宝庫です。歌は、人間にとって最も原始的で自然な表現方法とし
て、太古の昔から存在しました。ひとりの人間が感情や祈りを叫ぶ「魂の歌」にも深い意味が
ありますが、複数の人間が共に心を合わせ、1+1=2以上のふくらみ効果をもたらす素晴らし
い力が、歌にはあります。ただ何となく周りの声に寄り添うだけではなく、自分の心の奥底から
歌が発生し、それが他の人々の心の歌と交わったときに初めて、本来の音楽の力が発揮され
ます。
 礼拝における歌の役割は、言葉や目に見えるものでは表せない一番大切な部分に手っ取り
早く皆で行ける、という一言に尽きると思います。また会衆賛美には、会衆がお客さんとしてで
はなく共に作る立場として、祈りの空間に参加するという意義があります。
 しかし実際には、このような理屈を念頭に入れないまでも「さあ歌いにいくぞ!」と気合を入れ
て礼拝に出席する会衆や、事前に練習したり音楽で表現しようなどという意識を持ってベンチ
に座る会衆は、ほんの一握りであることが自然だと思います。
 ここにこそ、オルガニスト(あるいは聖歌隊長)の役割があるのです。音楽の力の凄さを体感
した過去を持つ音楽の専門家として、求められることは、難曲をノーミスで弾くことや自らをアピ
ールすることでは決してなく、音楽の力を、今この場で自由に誕生させ、空間を共に作ることで
す。そして、あくまでも無意識に自然に、そこに居る方々の体や頭を通り越して、心に直接働き
かけ、知らないうちにその方々を音楽の世界にお連れすることです。
 これは聖歌に限らず、オルガニストとして、礼拝での奏楽曲やコンサートでも、同様の役目が
あると思っています。歌わずに聴衆としてそこに居るだけでも、実はその人はその空間に参与
して、積極的に奏者と共に音楽を作っているのです。そしてそこに集う人々の心を、その空間
が揺さぶり動かすのです。
 しかし歌を通して行うことが、何よりも一番わかりやすく簡単に一体化できる手段なのではな
いでしょうか。会衆が何となく歌いたい気分になって、知らないうちに気持ちよく歌ってしまい、
音楽の「奥の間」へどんどんと引き込まれていくような、聖歌の伴奏をし、積極的に空間が広が
るように促すことが、礼拝のオルガニストにとって、最も大切なことだと思います。そのために
はどのようにしたらいいのでしょう・・・。(次号に続く)


チャペル脇の学食二階より西を望む


六甲アイランドからの風C「オルガン講座」

  新オルガン「ルナ」誕生後、コンサートなどでルナを知った方の中から、練習やレッスンのご
希望の声をいくつかいただきました。折角のお気持ちに全て応えたいという思いとは裏腹に、
現実的に難しい面もありました。大学チャペルにあるオルガンを活かす目的と、この熱心な
方々のエネルギーとを、どのように繋げて考えることが求められているのか、悩んだ結果のひ
とつが、オルガン講座となったのでした。春と秋とに各々数回ずつ、テーマや課題曲を決めて
グループレッスン形式で行うことにしました。次に悩んだのが、対象をどこに絞って何を扱うか
という点です。あれこれ考えましたが、結局何かを実行してみないとわからないと腹を括り、ま
ずは投げ掛けてみることにしました。例えば秋の課題曲のクリスマスの曲は、手鍵盤のみの二
声部の短い曲から、両手両足を駆使する複雑な曲まで扱いましたが、綺麗で、基本的発見の
宝庫であることを条件に選びました。
 蓋を開けてみると、受講生のバックグラウンドは様々でしたが、何らかの形でオルガンと繋が
っていたいという強い想いと、オルガンの音を楽しみたいというひたむきさは、皆様に共通する
ものでした。種々なオルガンのタイプや曲のスタイルがある中で、特定の楽器で特定の音楽を
掘り下げるという具体的な機会には、参加者の日常に響く何かが確かに存在しているという感
触がありました。グループレッスンでは、他人の演奏が変化していく様子を客観的に聴けるの
で、個人レッスンでは味わえない醍醐味があるはずです。気を配る点が多く緊張しますが、参
加者からかけがえのない学びと喜びを体験させていただいております。参加回数や音楽的な
違いなどを、むしろ皆で楽しめるような刺激的な会にするための方法を、更に考えていきたい
と思っています。
 定期的・継続的に学びたいという想いに応えることはいかに難しいか、大きな壁を感じており
ましたが、講座3年目を終えるにあたり、細々とではありますが、定期的・継続的な手応えが受
講生の中に芽生えてきました。そしてこの交わりの中から、新たに「オルガン友の会」発足のエ
ネルギーが与えられることになるのです。

♪神戸国際大学クリスマス礼拝のお知らせ♪
2009年12/23(水)15:00-16:00 
オルガン伴奏でクリスマスキャロルを歌います。どなた様でもお気軽にご参加ください。
問い合わせ: 神戸国際大学キリスト教センター(六甲アイランド内)tel: 078-845-3103
JR神戸線住吉駅で六甲ライナーに乗り換え11分終点マリンパーク駅下車徒歩5分


アドヴェントを迎えたチャペル


六甲アイランドからの風 B 「オルガンの会」

 2006年6月のオルガン奉献式を終え11月には3回連続の披露演奏会が大盛況のお恵みを与
り、神戸国際大学では、日々の礼拝や行事でいよいよオルガンが鳴り始めました。オルガン
「ルナ」の「ママ」となった私は、ついに活動開始とばかりに気合が入り、オルガンを活かす活動
のアイディアが溢れてイメージばかり膨らんでいました。
 現実の日常生活が始まる中、そのようなイメージに溺れないように、ひとつひとつのアイディ
アを、確実に根気よく淡々と実現させ根付かせていくための地道な努力が始まりました。想い
とは裏腹に少しずつしか進まないことに焦りつつも、優先順位をつけてひとつずつと向き合って
いくことにしました。
 まず初めに手をつけたことが、オルガンを取り巻く学内の人の流れを作ることでした。幸い数
名の教員がルナに興味を示され、少しずつレッスンが始まりました。07年度を迎えるにあたり
この活動を「オルガンの会」と名付け、新入生に呼びかけたところ数名の1年生が加わり、急
に様々な事柄が回転し出しました。
 色々な意味で予期しないことばかりで夢中でしたが、その年末頃にはメンバーが少しずつ昼
の礼拝奏楽を担当するまでに至り、08年度末にはその頻度が増えました。当初全く音符が読
めなかった学生が、3年生となった今はしっかりと聖歌を弾けるようになり、この成長にチャペ
ルのスタッフも私も刺激を受けました。
 ルナは奏者のほんの僅かな心持ちの違いによって、音が突然伸び伸びと生き物のように動
き出します。それはフレーズでなくても、単音を鳴らすだけでも体感できる素晴らしい体験で
す。その瞬間は生徒もルナも、パッと目を輝かします。自分でこの体感が出来てしまうと、その
瞬間からすっかりルナの虜となって、自然に成長を促すのです。         伊藤 純子

♪神戸国際大学クリスマスオルガンコンサートのお知らせ♪
2009年12月12日(土)14:00-14:50,16:00-16:50(料金1,000円、申し込み不要、各回定員100名)
演奏:伊藤 純子(神戸国際大学オルガニスト)
問い合わせ: 神戸国際大学キリスト教センター(六甲アイランド内)tel: 078-845-3103
JR神戸線住吉駅で六甲ライナーに乗り換え11分終点マリンパーク駅下車徒歩5分


チャペル脇の学食二階より海を望む


六甲アイランドからの風 A 「ルナ」誕生

 八代学院では2002年の大学移転に伴って新しいチャペルにパイプオルガンを設置することと
なり、新校地に建物が完成する前から米国C .B.フィスク社のオルガンビルダーがこの地を何
度も訪れ、大学側や音響の専門家、オルガニストと話し合いを重ね熟考の末、新オルガンの
イメージが明確になりました。
 彼らは、100名定員のチャペルを実際より広く感じさせるために建物のつくりを工夫し、塔の
ように細長い空洞を作ったり、全ての壁を傾斜させたりし、音が心地よく回って帰ってくるような
残響を考えました。オルガンのコンセプトとしては、何より聖公会の理想的な教会音楽に最も
相応しいこと、そして偏ったスタイル(時代・国)の音楽しか弾けないのではなくどのようなスタイ
ルの音楽にでも完璧に合うこと、などが考えられました。
 結果としてこれらは全て現実となり、奏者の想いに敏感にかつ力強く応えるための、極めて
繊細なアクション、そしてチャペル全体が楽器であるかのように包まれる芳醇な響きが、与えら
れたのでした。
 05年、米国ボストン近郊のグロースターにあるフィスク社工房で、ひとつひとつのパーツから
丁寧に作り上げられたオルガンが、一旦組み立てられ、弾ける状態で公表されました。そこで
人々に祝福された後、分解され、船に乗って06年1月に神戸港入港、1月末にチャペルで組み
立て完了。その後、4ヶ月余りかけて整音作業が行われ、フィスク社員が、響きを根気よく確認
しながら音をひとつずつ組み合わせて作り上げ、6月15日ついに奉献されました。
 その翌年「生後」1年を迎える前に「幼子」は正式に「ルナ」と名付けられ、ルナを囲んで恭しく
命名式が執り行われ、その様子と響きは地域テレビでも放映されました。それは全く幼児洗礼
式のようで、神と人とに愛されるルナは輝いていました。神様の前で「教母」となった私は、それ
から育児の毎日が始まったのです。                          伊藤 純子

♪神戸国際大学諸聖徒礼拝堂オルガンコンサートのお知らせ♪
2009年11月14日(土)14:00-14:50,16:00-16:50(料金1,000円、申し込み不要、各回定員100名)
演奏:坂戸 真美(カトリック碑文谷教会オルガニスト)
問い合わせ: 神戸国際大学キリスト教センター(六甲アイランド内)tel: 078-845-3103
JR神戸線住吉駅で六甲ライナーに乗り換え11分終点マリンパーク駅下車徒歩5分


ルナと筆者


聖公会新聞連載:六甲アイランドからの風 @ 「はじめまして!」

 皆様はじめまして!八代学院神戸国際大学オルガニストの伊藤純子と申します。オルガニス
トと聞くと、どのような人種を想像されるでしょうか?直訳しますと「オルガンを弾く人」・・・しかし
演奏するだけが仕事ではありません。
 たった今「演奏するだけ」という表現をしましたが、演奏するだけでも非常に奥深く、生涯を掛
けても探りきれない、とてつもなく偉大な作業です。オルガン演奏と向き合っていく中では、オル
ガンという楽器の特異性ゆえの視点に立たされることが、多々あります。楽器の特異性は、多
岐にわたります。楽器の構造、音や響き、演奏の仕方、設置される会場の使用目的・空間、演
奏される場面・・・。個人が楽器をたしなむといった枠を大きく超え、この楽器には生まれながら
にして、外に向けての様々なミッションが、ぎっしりと内在されていることになります。
 その内に秘めた使命が気持ちよく果たされていくように、次々と引き出していくための努力と
研究を惜しまないことが、オルガニストの役割と言えるのではないでしょうか。
 つまりオルガニストとは、オルガンを活かす人、と言えると思います。そこにあるオルガンが
活かされるかどうかはオルガニストの考え方と努力次第。マニュアルも正解も無いこのミッショ
ンを、神戸六甲アイランドの地で背負って、三年半が経ちました。
 この三年半の間に、様々な壁にぶち当たりながら実際に考えたこと、行ったこと、悩んだこ
と、動かされたこと、皆様の反応が反応を呼び起こしたこと、そして中長期的展望や期待など
を、このコラムをお借りして、これから皆様方と分かち合わさせていただきたいと思います。一
年間、どうぞよろしくお願いいたします。                          伊藤純子 
               
♪神戸国際大学諸聖徒礼拝堂オルガンコンサートのお知らせ♪
 (入場無料、申し込み不要、各回定員100名様)
2009年10月17日(土)12:10-12:40 演奏:谷藤 晴美(神戸栄光教会オルガニスト)
    2009年10月31日(土)12:10-12:40 演奏:秀村 知子(須磨教会オルガニスト)
問い合わせ: 神戸国際大学 キリスト教センター(六甲アイランド内) 
tel: 078-845-3103
JR神戸線住吉駅で六甲ライナーに乗り換え11分終点マリンパーク駅下車徒歩5分 


キャンパス裏より海を望む






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