「本のひろば」に紹介されている菊地譲著の「この器では受け切れなくて」を転載しますので、お読み下さい。
まりや食堂では、1冊1200円でお分けしております。電話かFAXで注文して下さいますようお願い致します。
「この器では受け切れなくて」 ー山谷兄弟の家伝道所物語ー
雨宮栄一
およそ国家の課題に、国内の産業経済を起こし、国民の経済を潤し、可能な限り国民の間の格差を無くすという課題がある。様々な人間の生活する国である。当然のように勝ち組、負け組が生まれる。その格差を埋める役割が国家にはある。しかし国会は充分な手を打てない。それどころか現政権は生活保護費の一割削減を主張し、負け組と言われる人々の生活に圧力をかけようとしている。
現在この負け組といわれている人々が、集中して生活している場所が、東京では山谷という所である。1960年代には、2万2000人ほどの日雇い労働者が、東京オリンピックによる建設ラッシュで景気良く働いたが、今は見るかげも無い。労働者の数は減少し、路上生活者,老いた労働者が増加している。
著者である菊地譲牧師は、この山谷の地に30年余り入り込み、日雇い労働者と共に生活し、労働し、宣教のために働いてきた伝道者である。そしてこの書物は、その間、涙と汗で描いた貴重な記録である。
若き菊地譲牧師が山谷伝道を決意した経緯、一人の労働者として働いた労苦、次第に人の輪が出来上がり、「木曜礼拝」を中心にする礼拝共同体が出来上がるまでの苦労、「山谷兄弟の家伝道所」建設までの努力、しかも山谷の中で日雇い労働者の最も必要としている「食べ物」、人間として最低限を支える「食べ物」をどのようにして、彼らに支給しうるかという問題、一人一人の路傍生活者を尋ねる深夜給食に始まり、やがて最低の安さで食事を提供する「まりや食堂」の開設への苦闘、考えられないほどの安価な弁当、数多くのボランティアの支援、ともかくこの書物に記されている、三十年余りの数々の労苦の連続を、人はある種の感動なくして読むことは出来ない。
この間、菊地牧師と多くの人との出会いがある。山谷に住む人への牧会が有り、温かな配慮が必要とされる。日本の普通の教会の伝道と牧会とは、質においては同じであろうが、全く形と、それに払う努力の量は比較にならない。驚くべき労苦が伴う。寄る辺なき人の死もある。この「山谷兄弟の家伝道所」には墓がある。千葉県の片隅にある。血縁関係者から、自分達の故郷の埋骨を拒否された、六人の人々の遺骨が埋葬されている。
菊地牧師の言葉をそのまま借りると「故あって兄弟の縁を切り、家族の絆を捨て、東京山谷で自らの人生を駆け抜けた人々であった。生活史をさかのぼると、一人一人それぞれが修羅場に近い生き方をしてきている。家族を傷つけ、自らも傷ついて癒す場所もなく、山谷へと自らの生を生かすためにやって来た。多くは過去のつらさを酒で紛らし、あるものはアルコールに囚われ,ある者は一時の陶酔を求めてギャンブルへと自らの生を燃やし、寂しさを癒してきた。人の一生はすざまじくも悲しいものである。墓の中の人々は、それぞれが小説よりも波乱万丈の人生をその存在において描き切った。私達の墓はその終着点だ。それは単なるおしまいの場所ではなく、和解と癒しの場である」(180頁)その通りである。
しかもこの書物の魅力は、菊地牧師がこのような現場においても、真剣に聖書と思想を学びながら働いている所である。カミュやレヴィナスを読み、現場の中での旧約聖書のヨブ記の解説は、学者のそれとは違って人々の心を打つ。
日本のキリスト教会とキリスト者は,都心近くにありながら、日本の周囲に位置する山谷という場所で、このような宣教の業が行われていることを、この書物を通してもっと知るべきである。そこより学ぶべきである。多くのキリスト者が読まれることを,心からお勧めしたい。