シベリヤでの抑留者達とその過酷な運命


一概に抑留者と言っても 日本人だけではなく強制労働をさせられていた中には 同じくソ連の国民でありながら派閥で敗れた反スターリン派の人たち、また朝鮮・モンゴルその他のアジアやヨーロッパからも連行され強制労働をさせられていたのです。

強制労働はマイナス20度〜30度の中、時にはマイナス40〜50度にもなることがあった。
森林伐採・建設・鉄道敷設・炭鉱・鉱山労働・農業その他に従事させられ、食料や着るものもろくに与えられず餓死者や病死者が続出し、過酷な状況下で労働を強いられたのです。
1日の食事は 具のないスープと殻付き高粱のおにぎり、昼は黒パンとスープ 、晩はスープと雑穀、とても粗末な物で栄養不良のうえに下痢が追い打ちをかけました。


収容所内 (ラーゲリと呼ばれる)の建物は隙間だらけの丸太屋根の隙間から床に雪が降り積もるような粗末なバラックなので、あまりの寒さに防寒具を着ても手足が凍り また夏には南京虫が体に付き 赤痢やチフスなどの伝染病と栄養失調症等で 約6万人の日本人が命を落としました。

1947年(昭和22)から日ソが国交回復する1956年(昭和31)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われましたが、 日本に帰っても身寄りが無く現地で結婚し帰国を希望しない者や祖国に負け戦で合わせる顔がない等、帰国を希望したくてもできなかった方たちもおり 、また祖国に帰ってもシベリア帰りは共産主義者と偏見が強く、就職差別に泣かされた人が多かったのです。


60万人近くが抑留し死亡者約6万人と言われていますがソビエト領内での事で その他モンゴル 北朝鮮等近隣国での死者数は入っていません。

 この数もソ連の一方的な発表を日本政府が鵜呑みにしただけの数なので 最近ではもっとはるかに多くが抑留され 死亡者ももっと多かった等話が出ております。

 大陸では民間人も含めて最低でも十数万人が行方不明となっている・・・   との事で実際には公証数をはるかに上回り、各地で日本人虐殺があったのは言うまでも有りません

まだまだ表に出てこない事実がたくさんあります。


そして
平成21年7月、モスクワのロシア国立軍事公文書館に第2次大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本人約76万人分の資料が収蔵されていることが判明しました。
今まで厚生労働省発表数の抑留者数と死亡者数は少なすぎると批判があり、これを裏付けるものとなります。
また厚生労働省の発表よりも死亡者数は多く居たはずであり、100万人位の日本人が抑留されそのうち10万人くらいが死亡したであろう・・・と少し我々の主張していた数値に近ずきました。
これから更なる究明が進む事を願います。



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