シベリヤ抑留はなぜ起こったか?


第二次世界大戦末期にソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ協定(秘密協定)により昭和20年8月8日ソビエトは日本に宣戦布告し、それまでの日露通行条約(ポーツマス条約)を全く無視しソビエトは一方的に攻撃占領してきました。

ソビエトは満州国や当時日本が併合していた朝鮮半島北部へ侵攻し、それから南樺太や千島列島へも侵攻してきました。

ソビエトの
宣戦布告から一週間にも満たない間の戦闘で、戦闘と言っても物資もまともになかった日本は抵抗らしい事も出来ず一方的戦闘でした。
しかしそれだけで約60万人(ソビエト側発表の数)の日本人が強制連行され、抑留されました。


昭和20年の対戦終結時に海外にはおよそ660万人ほどの日本人がいました。
そのうち半分は軍人・軍属、残りは一般人と言われています。

満州では停戦会談により ポツダム宣言の受託『武装解除後在留民間人保護の成立』 をしました。
ポツダム宣言(13条からなる降伏勧告の宣言)「日本国軍隊は、完全に武装解除後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営む機会を得しめられるべし」等の内容です。

しかしソビエト軍がその通りにする事は少なく、
日本人には無法地帯となり暴行や略奪・強姦・殺害等が行なわれました。
またもやソビエトはこれに違反をしたのでした。

ソビエトに武装解除をさせられた日本軍や在満州民間人、また千島列島からも日本人男性がハバロフスクに連行されました。

集められた日本人は全く疑いもせず祖国に帰れる「東京ダモイ」の言葉を信じていたのだが、現実には汽車は東方の日本とは反対の西の方角へ、海かと思えば大きな湖でした。

そして極寒の苛酷な労働へと駆り立てられたのでした。


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