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母の死


2011年9月、母親が亡くなりました。

母はアキコ・カンダという、モダンダンサーなのですが、小さいころから、まったく育てられたこと
もなく、かといって、特にそのことを恨みがましく思ったこともなく、不思議な親子関係でした。
亡くなるつい二週間前まで、舞台に立ち続け、家庭も子育ても自分の健康も犠牲にして、ダン
スに一生を捧げた人生でした。

母親の死の前後の様子を、ブログに20余回、連載しました。まとめておきたいと思います。
よろしければ、ご高覧ください。


 〜〜以下、2011/09/25〜2011/10/17 のブログより〜〜


【はじめに】 お知らせ(2011/09/25)

母が亡くなりました。母はアキコ・カンダという舞踊家です。

 ここ、一年程、闘病を続けながら、芸能活動に力を尽くしてまいりましたが、一昨日(9/23)未
明、東京都内の病院にて、永眠いたしました。享年75歳でした。
 
先日、9月9日より11日まで行われました「花を咲かせるために〜バルバラを踊る〜」(青山円
形劇場)は、毎日、輸血を続けながら、入院先と劇場とを往復しての舞台でした。
千秋楽後、体調を崩し、復帰を目指して闘病してきたのですが、力及びませんでした。
 
7歳のときにダンスを志して以来、70年、舞台に一身を捧げた人生でした。
そのような日々を歩むことができましたのも、支えて下さいました皆様方のお陰と、心より感謝
申し上げます。


【第1回】生命のこだま…アキコ・カンダの喪に服することに代えて1…(2011/10/04)

月が変わった。
 
母親は、昨年の十一月に行われた青山円形劇場での公演直前、肺に悪性腫瘍が見つかって
以来、一年弱の闘病であった。
 
抗癌剤による入院治療が、それぞれ一カ月弱で五回。
 
八月末に発熱して、救急車で運ばれ、六回目の入院。
 
六回目の入院の間、最後の公演のために、劇場には通ったのに、ついには自宅に戻ることな
く旅立った。
 
 ……
 
七月の入院時、病室に訪れた際、母親から、
 「九月のリサイタル、この曲で踊る作品があるのだけれど、タイトルをつけて欲しい」
 と、頼まれた。
 
曲は、ヴァンゲリスの「極地のこだま」。
 
「こだま」という言葉は残したいという彼女の希望を取り入れて、僕は「生命(いのち)のこだま」
と提案した。
 僕自身、彼女の容体は分かっていたし、観客の方々の心の中で、彼女の踊りがいつまでもこ
だまのように響き続けてほしいと思って提案したタイトルだった。
 
もちろん、その気持ちを伝えることはできなかったが、彼女はとても喜んでくれた。
今、思えば、あの時点で、彼女は先々のことを予感していたのかもしれない。
 
育てられることもなく、一緒に住むこともなく、思えば、不思議な親子関係であったが、彼女の
遺作にタイトルをつけることが出来て、嬉しく思っている。
 
 ……
 
喪に服することに代えて、この一か月程のことを、少しだけ書いてみたいと思う。


【第2回】最後の入院…アキコ・カンダの喪に服することに代えて2…(2011/10/05

八月末、アキコは38度以上の熱を出して、緊急入院した。
 
それまでの治療でも、抗癌剤の副作用で、白血球の数値が低下することはあったが、
いつも順調に数値は回復し、退院してきた。
 
しかし、七月の五回目の入院では、白血球の数値が元に戻りにくくなっていた。
 
八月下旬、口の中に大きな口内炎が出来る。
八月二十三日、発熱、救急車で病院に搬送。
 
点滴による抗生物質の投与。
 
口内炎は、舌の三分の一程に広がっている。
水を飲むことも辛い。
 
本人は、身体の状態よりも、九月上旬に迫ったリサイタルのことばかり気にしている。


【第3回】免疫力低下…アキコ・カンダの喪に服することに代えて3…(201/10/06) 

担当医に、
 
「あの大きな口内炎は、虫歯菌が原因でしょうか」
 
と尋ねてみた。アキコは、八月中旬に、虫歯の治療を受けていた。
 
担当医は、
 
「虫歯のせいではありません。口内にある自己細菌が原因です」とのこと。
 
免疫力が落ちているときは、健康な人でも口内炎が出来る。
その極端なケースと考えればよいとか。
 
アキコは、吸飲みで咽ながら水を口に含むが、舌の半分程に広がった口内炎がひどく痛むよう
で飲み込むことがつらそうである。
 
喉の中にも、口内炎があるようだ。


【第4回】家族会議…アキコ・カンダの喪に服することに代えて4…(2011/10/07)

アキコの姉(僕の養母)と、アキコのマネージャーで長くダンスをともにしたきたIさんと、僕と僕
の妻の四人で、会議。
 
Iさんから詳しい現状報告。
 「アキコは九月九日からの公演に出たがっている。しかし、医者からは疑問の声がある。
 白血球の数値が悪い。感染症が心配とのこと」
 
アキコの姉は、消極的だった。
ここ十年程は、まるで双子のように、生活していたから無理もない。
 
僕は、
 
「何を迷う必要があるか。米粒程の迷いはない。アキコのやりたいようにやらせる」
 
と伝えた。
 
結婚も、子育ても、犠牲にして、最近では、自分の健康さえ犠牲にして、舞台に身を捧げてき
た。
 
料理も掃除もほとんど出来ない。
僕が食べたことのある彼女の手料理の記憶は、目玉焼き一回だ。
 
何から何まで、舞台に、ダンスに捧げてきた。
 
そんなアキコが、自分の命をかけて「踊りたい」と言っている。
 
それを、家族が止めることなんて、出来るはずがない。
 止めたら、アキコも僕も一生後悔すると思った。
 
アキコの姉が、
 
「それで、命を縮めるようなことになったら、どうする」
 
と眼をうるませる。
 
僕は、
 
「そうなったら、それもそれだ」
 
と伝えた。


【第5回】貫かせる…アキコ・カンダの喪に服することに代えて5…(2011/10/08)

僕が高校生の頃から、アキコによく言われていたことがある。
 
「私は母親としては、失格だけれど、あなたに『芸術家としては立派だった』って思ってもらえる
ように頑張っている。それが務めだと思っている」
 
いつも、何も答えなかった。なんとも答えようがなかった。
 
凄いなあと思うこともあったし、子育て放棄の正当化のように聞こえたこともあったし、なぜか
可哀想に思うこともあった。それでも、ただ黙っていた。
 
 ……
 
そういう母親を、そういう舞台人を、そういう人生を、貫かせてあげたい。
 
そう思うと、たとえドクターストップがかかっていても、彼女から舞台を奪うような選択はできな
かった。
 
アキコのマネージャーが
 「担当の先生が、公演に対するご家族の意見を聞きたいと言っている」
 と言う。
 
アキコの姉が、
 「あなたから、主治医の先生に、家族の結論を伝えてきなさい」
 と、僕に言った。
 

【第6回】弾丸の飛び交う戦場に裸で行く…アキコ・カンダの喪に服することに代えて6…
(2011/10/09)

翌日、僕と妻とで、病院に行く。

 アキコの病室に行く前に、担当の先生と話をする。

 先生の話はリアルで、アキコの病状の深刻さは僕の予想をはるかに上回っていた。

 「骨髄に転移の可能性」「白血病化の状態」「通常なら面会謝絶」

 といった厳しい単語が飛び交う。

 「ご本人は踊りたいと言っているのですが、ご家族のご意見を伺いたいと思いまして……」

 担当医の質問に、

 「踊らせてやってください。そういう人生をずっと歩んできましたら」

 そう伝えた。
 一瞬、声が詰まった。

 担当医は少し困った様子だった。思わぬ答えだったのだろうか。

 「責任は持てませんが……」

 というような趣旨のいくつかの確認の質問が続く。
 僕は、すべて「それでも結構です。よろしくお願いします」と答え続ける。

 担当医は、

 「免疫力がほとんどない状態で、劇場に行くのは、弾丸の飛び交う戦場に裸でいくようなもので
す」

 と言ったが、僕は、

 「踊っている間は、弾の方が、彼女から避けます」

 と伝えた。 (本日より、朝、夕、一日二回更新します)


【第7回】段ボールの鎧…アキコ・カンダの喪に服することに代えて7…(2011/10/09)

「分かりました。公演で舞台に立つということを、最優先課題にして、治療していきましょう」
 「よろしくお願いします」
 「それでも、医療で出来るのは、戦場に行くのに、段ボールの鎧を着せる程度ですよ」
 「段ボールを着させてやってください」
 
そんな会話で、結論が出て、公演の実現に向けて態勢が組まれていく。
 
・白血球、血小板などの輸血。
 ・病院から、タクシーで直接、舞台に行く。
 ・必要最小限の者しか楽屋に入れない。
 ・楽屋に入る者はすべてマスク着用。
 ・楽屋では本人も特殊なマスクを着用。
 ・常にウガイ薬で喉を洗浄する。
 ・公演が終わったら、すぐにタクシーで病院に戻る。
 
マネージャーで長くアキコの傍でダンスをともにしてきたIさんは、公演期間中、劇場傍のホテル
をとることにした。昼の部と夜の部がある日は、公演の合間に、そのホテルで休息をとらせる。
 
病室でアキコにもう一度だけ確認した。
 
「裸で戦場に行くようなものだってよ。それでもいいの。段ボールの鎧だよ」
 
アキコは、そんな不安よりも、踊れることが嬉しいようで、
 
「ありがとう」
 
と微笑んでいる。
 
担当の先生から、注意事項を聞いても、
 
「先生、ありがとう。先生、ありがとう」
 
と繰り返している。
 
僕も、担当医も、Iさんもマスクをかけて、アキコは口内炎が痛くて、みんな声がはっきりしない。
それでも、強い言葉で会話を繰り返しながら、公演出演が決まっていく。
 

【第8回】根拠のない盲信…アキコ・カンダの喪に服することに代えて8…(2011/10/10)

たしかに、八月末から九月になる頃、アキコの状態は悪かった。
 しかし、それても、誰も本当に亡くなるなんて思っていなかった。
 
献身的に看病するIさんは、「私が治します」と断言していたし、毎日のように食事をともにしてき
たアキコの姉は、抗癌剤治療の合間に、アキコの体重を三キロも太らせて、医師を驚かせて
いた。
 
「そうなったら、それもそれだ」
 
などと口にしていた僕も、アキコが亡くなるなんて思ってはいなかった。
 
 ……
 
家族会議と医師の協力を得て、九月九日からの公演が決まったアキコ。
 しかし、身体は思うようにならない。
 
八月末日になっても、ベッドから起きてトイレへ移動するにも、人の手を借りる状態。
 口内炎のせいで、満足に固形物も喉を通らない。
 
「これが、十日後に踊る人の姿に見えますかね」
 
半ばヤケクソに言っている。
 
ままならない自分の身体への怒りのようにも聞こえたし、
 「絶対に踊って、びっくりさせてやる」みたいな自信のようにも見えた。
 
 ……
 
一回の公演で、アキコのプログラムは、
 「生命のこだま」
 「遥かなるヴィエンヌ」
 「黒いワシ」
 「わが喜びの復活」
 のソロ四つ。一つが、5〜6分程度。
 これにカーテンコールも加わるから、30分ほど、舞台に立つことになる。
 
これが三日間で五回。
 
「出ても良い」とはなったものの、公演十日前に一人でベッドから起きられない、満足に固形物
も口に入れられないといった状態で、お客様の前に立つことができるのだろうか。十分なパフ
ォーマンスが出来るのだろうか?
 
不安に思う一方で、アキコは絶対に見事に踊りきるはずだという、根拠のない盲信のようなも
のもある。
 
土曜日の午前中に、公演を観るという、担当医師に、
 
「こんな状態でも、どれだけのパフォーマンスができるか、見てやって下さい」
 
と伝えた。
 

【第9回】病室に来るな…アキコ・カンダの喪に服することに代えて9…(2011/10/10)

千秋楽まで見事に踊りきるはずだ……根拠のない盲信はあったが、僕と妻は、初日(9/9)・中
日(9/10)・千秋楽(9/11)と、三日間ともチケットを取った。土曜日(9/10)の昼の部だけは、仕
事の関係で、どうしても見られない。
 
長男と二男は最終日のチケット。
 二男は、翌日から二週間のアメリカ短期留学なので、ギリギリのタイミングだ。千秋楽を、家
族みんなで見ることが出来る。
 
 ……
 
公演直前の日々、アキコの病室に訪れることはなかった。
 
「感染症が恐いから来るな」
 
そう合言葉のように伝えられる。
 
舞台に立つ、舞台に立たせる、……これがすべての判断基準になっていく。
 
献身的に面倒を見続けるIさんから、「今日は病室で歩いた」「今日は病室で踊った」「すこしず
つ良くなっている」といった報告が届く。
 
「邦ちゃん(本名も邦彦)に、踊っていいって言われたのが、本当に嬉しかったみたい。すごく頑
張っているよ」
 
Iさんの言葉に、『そうなのかなあ』と少し照れくさい気持ちがする。
 

【第10回】淡いスポットライトの中…アキコ・カンダの喪に服することに代えて10…(2011/
10/11)

結局、次にアキコを見たのは、舞台の上だった。
 
金曜日(9/9)の夜。
近くのマクドナルドで妻と待ち合わせて、青山円形劇場に行く。
 
受付で、アキコの長姉を見かける。
 
「舞台稽古どうだった?」
 
本当にアキコは踊れるのだろうか? おそるおそる尋ねた。
 
「なんとかやっていた……」
 
もう長姉は涙ぐんでいる。
 
そうか、なんとかやっていたか……少し安心して、劇場へのエレベーターに乗った。
 
 ……
 
客席は満席。
七時五分、五分押しで開演。
 
一部の一曲目、「幻想のマラゲーニャ」。
 
アキコが育てたカンパニーのダンサー達の華麗なダンスが続く。
 
そして、二曲目が、アキコの新作ソロ。「生命のこだま」。
 
息を詰めるようにして、真っ暗な舞台の上を凝視しつづけた。
 
淡いスポットライトの中、古い椅子に座ったアキコが浮かび上がった。
 

【第11回】生命燃やし、儚く、凄絶に…アキコ・カンダの喪に服することに代えて11…
(2011/10/11)

この公演の様子は、9/27日の読売新聞夕刊に載った以下の記事に譲りたい。
 
「アキコ・カンダ 最後の公演 〜生命燃やし 儚く、凄絶に〜」
 (頁の少し下部、右側に掲載された記事をクリックすると拡大表示されます)
 
 ……
 
初日の公演が終わって、楽屋に行こうかどうしようか迷った。
 いつもなら、当然、ねぎらいに行くところだし、
 「踊れたじゃん」
 ぐらいは、声をかけてやりたい。
 
しかし、楽屋にはいかなかった。
 
アキコが無事にタクシーに乗ったということだけを確認し、帰宅した。
 
後から聞いたことだが、昼の舞台稽古よりも格段の出来だったという。
 Iさんは、「お客さんが入ると、スイッチが変わる」と言っていた。
 

【第12回】公演二日目…アキコ・カンダの喪に服することに代えて12…(2011/10/12)

9/10(土)……公演、二日目。
 
昼の部は仕事の関係で、見ることが出来ない。
 仕事先から、「しっかり踊れよ」と一回だけ、心の中でエールを送る。
 
仕事を終えて、青山に行くと、アキコの姉から、
 「公演後、タクシーまで、荷物を持って欲しい」
 と頼まれる。
 
「昼の部はどうだった」
 と聞くと、
 
「昨日よりも、また良くなった」
 とのこと。
 
「病院の○○先生が、観にきて、号泣して帰った」
 と、少し笑いも。
 
そうか、先生、泣いてくれたか……
 「先生のお陰で無事踊れています」って、お礼を言いたかったな……
 
そんな思いを抱きながら、客席に着く。
 
アキコのダンスは確かに、初日よりも、しっかりとしている。
 緊張しながらも、少し安心して観ることができた。
 
公演後、走るように楽屋へ行く。
 
マスクをつけたIさんやOさんが、アキコの身の回りを準備している。
 僕は、楽屋の一番手前で、アキコに背を向けて、「これ持っていけばいいの」と確認。
 
荷物を準備しながら、Iさんが、「昨日、病院に帰った後、◎◎先生が待っていてくれて、聴診器
をあててくれた。とっても状態がいいですって言ってくれたよ。アキコ先生には公演が一番の薬
だよ」と嬉しそうに言う。
 
僕も「昨日よりも良かった」と短く答えた。
 
アキコが移動するときも、なるべくIさんとOさん、二人だけにまかせるようにして、僕は遠巻きに
荷物を持って移動する。広いエレベーターの中でも、アキコから一番遠くに位置する。
 
エレベーターを降りた後は、アキコ達を追い越して、道にダッシュ。
 タクシーを準備して、アキコ達を待つ。
 
アキコとは何を話したか、まったく覚えていない。
 というか、多分、ほとんど話さなかった。
 

【第13回】千秋楽…アキコ・カンダの喪に服することに代えて13…(2011/10/12)

ついに、9/11の千秋楽を迎える。
 
劇場入り口で、妻・長男・二男と待ち合わせる。
 
「しっかり見ろよ」
 
と言わずもがなのことを息子達に伝えてしまう。
 
席は、センターの前から四列目。
 マネージャーのIさんは、最後に一番良い席を僕達に用意してくれたのかなと、そんなことを思
う。
 
いとこのMさんを見つけて、アキコの様子などを伝える。
 「大丈夫なの?」
 「なんとかやっているから、見てやってよ」
 などと、そんな会話。
 
苦笑しながら伝えるけれど、個人的には、アキコのソロ「生命のこだま」は、彼女の作った無数
のダンスの中でも、最高傑作の一つだと思う気持ちもある。
 
客席センターの並びの四席。
その中でも、一番センター寄りに長男を、次の席に二男を座らせた。
 

【第14回】多分、何も考えていなかった…アキコ・カンダの喪に服することに代えて14…
(2011/10/13)

一曲目が終わり、アキコのソロ「生命のこだま」が始まるまでの、僅かな幕間が、ひどく長く感じ
られる。
 
始まらないのではないか。
倒れてしまったのではないか。
 
息を詰めて、暗闇のステージを見つめる。
静かに曲が始まり、アキコが舞台に浮かびあがる。
一瞬の安心が訪れるが、すぐに糸を張り詰めたような緊張に変わっていく。
 
瞬きも我慢して、アキコの姿を見続けた。
 
 ……
 
「生命のこだま」が終わり二男が、「ふー」と長い息をついた。
 
一部の休憩のとき、僕が二男に、
 「お前、フーフー、うるさいよ」
 と、伝えると、長男が、珍しく二男をかばう。
 「気持は分かる」
 
 ……
 
二部、「花を咲かせるために〜パルバラを踊る」が始まる。
 
二曲目が、アキコのソロ、「遥かなるヴィエンヌ」。
 
スポットライトを追うと、すっと逃げる。
そんな演出の中、アキコが柔らかく踊っている。
 
そして、8曲目、9曲目が、「黒いワシ」「わが喜びの復活」のソロの連続。
 
これでアキコのダンスを見るのも、最後かもしれない……
 
小さいころから、ひたすら見続けてきた、ときには見ることを強要されたこともあったし、反抗し
て、見にいかず、大ゲンカをしたこともある。
 大人になってからは、アキコのダンスにいくつものタイトルをつけた。請われて、いくつもの詩
を添えた。
 一緒に一つの作品を手掛けたこともある。
 
今、思えば、そんなことを思い出しながら、見ていたような気もするが、多分、何も考えていな
かった。
 

【第15回】 カーテンコール…アキコ・カンダの喪に服することに代えて15…(2011/10/
13)

カーテンコールはスタンディングオペーションだった。
 
ブラボーの声が飛び交う中、アキコが、一人一人に感謝の気持ちを伝えるように、視線を合わ
せてはゆっくりと歩いていく。
 
後から、このときの映像を見た僕の友人が「一人一人にお別れのあいさつをしているようで見
ていて辛い」と言っていた。
 
アキコはどんな気持ちで、あのカーテンコールの中にいたのだろう。
 
僕は報告していたのではないかと思う。
 
「私、踊れたよ。ちゃんと最後まで踊れたよ」
 
そう、みんなに、自分に、誰かに報告していた。
 
感謝の思いを伝えていたとしたなら、それは、今日、観に来てくれた観客の方々にだけ感謝し
ていたのではない。
もっと遥かなものに向けて、感謝の気持ちを伝えていた。
 
そんな気がする。
 

【第16回】数日前に踊った人とは思えない…アキコ・カンダの喪に服することに代えて16
…(2011/10/14)

千秋楽後、楽屋で親族と記念撮影をして、アキコは病院に戻っていった。
 
左足のふくらはぎが少し腫れていた。
ただ、いつも公演後は足がむくみがちになるから、「いつもと同じ」程度に考えていた。
 
9月11日に公演を終えてから、仕事が立て込んでいて、病院に行くことができなかった。
 無事に公演を終えることが出来たのだから、アキコの容体も順調に上向きになっていくことだ
ろうと、そんな風に思っていた。
 
Iさんや、アキコの姉からは、「足がパンパンに腫れている」「発熱している」といった話を聞く
が、それほど深刻には考えずに、日々の仕事に追われていた。
 
17日、妻が一晩、アキコに付き添う。
 
「左足の腫れがひどい。冷やしているけれど、全然、効き目がない。一晩中、痛がっている」
「熱は38度台。ときどき37度台にもさがるけれど」「もうろうとしている。昼夜逆転。薬のせいな
のか、言葉もはっきりしない」
 
といった話を聞く。
 
「数日前に、踊った人とは思えない」
 
 ……
 
思ったより悪化しているアキコの容体に、どう治療態勢を組んだものか。
アキコの姉と、18日・19日の夜に相談する。
 
 9月20日、突然、アキコの病院から電話。
 「いま、すぐにでも病院に来てほしい。相談したいことがある。四時までに」
 とのこと。
 
偶然、その日は、仕事の合間で、自宅にいた。
 
僕と妻とで、急遽、病院に向かう。
アキコの姉は、自宅待機。
 

【第17回】宣告…アキコ・カンダの喪に服することに代えて17…(2011/10/14)

四時五分前、病院に着く。
 
待合室で少し待っていると、担当の○○先生が現れる。
カンファレンスルームに行って、話を聞くが、今日は他の先生や看護師も控えていた。
 
まずは左足の状態から説明が始まる。
 
「ホウカセンエンを起こしています」
 
聞きなれない言葉に首をかしげていると、先生が「蜂窩織炎」と文字を書いてくれるが、それで
もイメージがわかない。
 
「血栓がつまっている状態。血をさらさらにしたいが、一方で血小板が少ないため、血を止める
ような治療もしなくてはならない。背反することをしなければならず、なんともしようがありませ
ん」
 
さらに、医師は、「もっと悪いことに、肺炎を起こしています」と、二つのレントゲン写真を見せて
くれた。
一つは、公演直後のもの、一つは、今日のもの。
 
素人眼で見ても分かるほどに、違いが分かる。公演直後はきれいだった肺の中に、真っ白な
雲がかかっている。
 
「全身状態が悪い。白血病化の状態。肺炎も起こしていて、正直、いつ急変して、心肺停止し
てもおかしくない状態です」
 
と言った。
 
病院に呼ばれたとき、足についての治療法を相談されるぐらいのことだと思っていた。
 しかし、医師は、
 
「これからどんどん悪くなる。もって二週間」
 「積極的な治療を考える段階ではなく、痛みの緩和などを目的とした治療を考える時期ではな
いか」
 「心肺停止した場合の延命治療はどうするか」
 
といった話をしている……
 
僕の気持ちは決まっていたが、
 
「アキコの姉と相談して、明日、連絡します」
 
と伝えた。
 

【第18回】白血球の数値…アキコ・カンダの喪に服することに代えて18…(2011/10/15)

用件がほぼ終わったところで、担当の○○先生がこんな話を言った。
 
「正直、私は、初日で終わりだと思っていた。土曜日からは、劇場に行けないと思っていた」
 
○○先生が、土曜日の公演で号泣したという話を思い出した。
 
「私も、医学をやっているわけですから、こういうことはあまり言いたくないんですけれど」
 
先生がそう前置きして続けた。
 
「どんなに治療をしても上がらなかった白血球の数値が、公演中だけは少し上がっているんで
す」
 
その話を聞いた瞬間、こらえていた涙があふれた。
 

【第19回】病室の前で涙を拭く…アキコ・カンダの喪に服することに代えて19…(2011/10
/15)

医師の話を聞いた後、アキコの病室に行く。
 
病室に入ろうとする妻を、一瞬だけ止めて、涙を拭く。
 
看護師さんが、
 
「いま、ちょっとウトウトしています」
 
と声をかけてくる。
 
病室に入ると、アキコはベッドの上で静かに寝ていた。
 
起こさないようにして、妻と二人で、ソファに座る。
 
しばらく黙っていると、付き添う予定のHさんが、病室に顔を出した。
簡単に、医師の話を伝えていると、アキコが眼をさました。
 
眼を覚ましたものの、まったく会話は弾まない。
ぼんやりとした言葉で、「足が痛い」とか「身体を起こしたい」とか、そんな言葉ばかりだ。
視線もどんよりとしている。
 
(この後、アキコと僕の最後になる会話が交わされるのだが、そのことは後日に書く。)
 
今日の医師から聞いた話を、アキコの姉に伝えて、結論を出さなくてはならない。
一時間程、病室にいて帰ろうとすると、丁度、マネージャーのIさんが病室に訪れる。
 
Iさんを、一階のロビーまで誘って、医師の話を伝える。
 
「アキコ先生、かわいそうだなあ。治したかったなあ」
 
「アキコは、公演中だけ、白血球の数値が上がっているんだって……そのあと、ガタッと落ちて
いるそうだよ」
 
「邦ちゃん(本名も「邦彦」)が、公演に出るのを賛成してくれたって、とっても喜んでいたよ」
 
Iさんと、何かを確かめるように短い会話をして、病院を出た。
 
(残り四回)
 

【第20回】それでも長らえると思っていた…アキコ・カンダの喪に服することに代えて20…
(2011/10/16)

担当医の話を、家に持ち帰る。
 
アキコの姉の部屋の呼び鈴を押して、部屋に入るが、何から切りだしていいかわからない。
 
あえて平然と淡々と話した。
 
議論する必要はなかった。
 
もしも、そのようなときが訪れれば、静かに旅立たせてあげよう。
かつて本人もそう希望していた。
 
そんなことを確認し合う。
 
 ……
 
翌日の21日、電話でその旨を病院に伝える。
 
親族にもアキコの容体を電話する。
 
あちこち電話で伝えながら、それでも、まだまだアキコは長らえると思っていた。
 
23日、未明、電話の音に目が覚めた。
 尋常でない時間の電話に、受話器をあげる前から、もう覚悟していた。
 
電話は、病院のIさんから。
 「心臓が止まっている。急いで来て」
 とのこと。
 
「慌てず急げ」
 
そんなことを妻に繰り返しながら、家を出た。
 
(残り三回)
 


【第21回】アキコと帰宅する…アキコ・カンダの喪に服することに代えて21…(2011/10/
16)

アキコの姉と、僕と妻とで、タクシーで病院に行く。
病院には、Iさん同様、長くアキコとともに舞台に立ってきたMさんも来ていた。
 
「アッコ、よく頑張ったな」
 そう言って、アキコの真っ白な手をとった。まだ柔らかく、暖かい。
 まったく家事をしたことのない指は、柔らかくてしなやかで、少女の指のようだった。
 
僕なりにお別れをしたあと、病室の隅で片付けをしているMさんに、
 「Mさんも……」
 と言ったら、
 
「大丈夫。さっき、アキコ先生に声をかけた。ダンスを教えてくださって、有難うございましたっ
て」
 と、少し微笑んだ。
 それでも、枕元に来て、アキコにじっと何かを語りかけている。
 
 ……
 
しばらくすると、アキコの長姉一家も病室に到着した。
 
「どうしちゃったんだよ」
 と僕に向かって、オロオロする長姉に、
 
「まだ耳は聞こえるっていうよ」
 と伝えたら、「まさこ」と本名を呼んで、泣き崩れた。
 
 ……
 
荷物を持って先に帰っているという、Iさん達と別れて、アキコの長姉一家と一緒に霊安室に残
った。狭い霊安室で長姉一家と話をしていると、担当医だった○○先生が、焼香に来てくれ
る。
 
「先生のお陰で、最後の舞台に立つことが出来ました。有難うございました」
 
公演以来、ずっと言いたかった言葉を霊安室で伝える。
 「最後の」を添えることになってしまった。
 
 ……
 
七時ごろ、葬儀屋さんが迎えにくる。
僕一人、アキコと同じ車に乗って、自宅に戻った。
 
(残り二回)
 

【第22回】最後のカーテンコール(…アキコ・カンダの喪に服することに代えて22…2011/
10/17)

長くアキコの最後の日々を書きつづってきた。
 
アキコが旅立ってからも、日々、いろいろなことが続いている。
 書きたいことはいくつもあるのだが、あと、少しだけ記して、終えようと思う。
 
 ……
 
葬儀万般は、僕とアキコの姉とIさんとで相談して作っていった。
 Iさんは、ずっと気丈に裏方を取り仕切っていた。
 弔問客が一段落した通夜の終り頃、Iさんは、一人で祭壇に向かって手を合わせた。
 長く遺影を見上げて、涙を流していた。
 それでも、焼香を終えると、また仕事に戻っていった。
 
 ……
 
公演の千秋楽を見た翌日、アメリカに立った二男だが、二週間の研修を終えて、成田に到着し
たのが、通夜の日の午後二時半のこと。
 特に彼を待っての日取りの設定ではなかったのだが、彼もなんとか出席できることとなった。
 二男は、成田から通夜の会場に直行。走ってスーツケースを引きながら到着した。
 喪服に着替えて、遺族席に座ったのは開式二分前。
 彼がアメリカで買ってきたアキコへのお土産は、翌日の告別式で、棺に入れられた。
 
長男と妻は、終始僕のサポートにまわって、よく動いてくれたと思う。
 
 ……
 
出棺の際、棺はアキコの弟子たちに運んでもらった。
そのように司会の人にもアナウンスしてもらうようにお願いした。
現在直系の弟子たちは、みんなで声をかけながら、しっかりとアキコの棺を運んでくれた。
 
 ……
 
喪主あいさつを終えて、霊柩車に乗る。
クラクションとともに、静かに霊柩車が走り出したとき、
会葬者から万雷の拍手が聞こえた。
 
アキコへの最後のカーテンコールだと思った。
 
(今晩、もう一回だけ書きます。)
 

【最終回】最後の会話…アキコ・カンダの喪に服することに代えて23…(2011/10/17)

今回で最終回とします。
 
長くお付き合いいただき、ありがとうございました。
 
明日からは、元のブログに戻ります。
 
 ***
 
医師から、「いつ心肺停止してもおかしくない」と宣告された後の病室。
 
「足が痛い」「水が飲みたい」「身体を起こしたい」……
 
もうろうとした口調で、つぶやくように言うアキコ。
 一時間程、病室にいてもほとんど会話らしい会話は出来なかった。
 
Hさんと妻とでアキコの世話をしている時、僕の携帯電話が鳴った。
 
S社のKさんの名前が表示されている。
その頃、僕は、雑誌掲載予定の短編小説に取り組んでいて、Sさんはその担当編集の方。
前回の打ち合わせで沢山の宿題が出て、一週間程奮闘した結果の原稿を、午前中にメール
で送ってあった。
 
電話の内容は基本的に、OKの流れ。
 Kさんには、アキコ関係のことは伝えず、もう少々の検討箇所や、今後の予定などを確認し
て、電話を終える。
 
アキコの枕元に言って、
 
「ごめんね。病室で電話して。……今のS社からの電話」
 
アキコが少し頷いたように思った。
 
「担当の人がね、すごく良くなっているから、これでいきましょうって。……いい電話だったよ」
 
そのときのアキコの顔も声も、僕は一生忘れない。
 
今までぼんやりとしていた視線に、突然、力が入った。そして、信じられないようなはっきりした
声で、
 
「良かったね」
 
と僕に言った。
 
 ……
 
これがアキコと僕との最後の会話である。
 
(2011/09/25〜201110/17)     

    


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