2004年06月11日(金) 天気:雨

 今日は台風の影響も多少あるのか,大雨と強風でした。残念ながら自転車のインプレはまた次回持ち越しです。

 昨年の今日は,ある思いを胸に山梨から夜行バスで帰ってきた日です。平成15年6月8日深夜,私が大学院を卒業してからすぐの半年間,診療所のお手伝いに行った「中村哲也」先生が永眠されました。骨髄性白血病が死因の元でした。

 私が半年間お手伝いに行った平成8年夏頃は,ちょうど骨髄移植を受けた直後で,体調が回復するまでの一進一退を繰り返している時期でした。移植後は,外部から入れた骨髄細胞と自分の体内にある元々の細胞が衝突しないように免疫抑制剤を服用します。その為の副作用は至る所に影響を及ぼします。目が異常に乾いたり,ヘルペスウィルスが出やすくなったり・・・・そのような目に見える症状だけでなく,体の方も相当気怠かったようです。日によっては歩けるくらい調子のよい日もあるのですが,悪い日は一日中寝込んでなければならない。その繰り返しでした。

 それでも,徐々にですが体調は回復の兆しを見せ,私が山梨を後にしてからは,徐々に診療も再開されていたようです。平成12年の秋にちょうど近くに行く機会があったので,お会いしたのですがかなり元気そうな様子を見受けました。お昼に,富士吉田市内にある,おいしいと評判のラーメン屋に連れて行ってもらいました。平成8年の時にも「おいしいラーメン屋があるんだ」とは聞いていたのですが,哲也先生の体調が優れないため一度も行くことができなかったラーメン屋でした。

 わずか数時間の再開でしたけど,「来年辺りからは,大学(岡山)からの応援もなしにして,1人で診療してみようかと思っている」という言葉を聞いて確実に良くなって来ているんだと安心して帰ったのがお会いした最期となりました。と思われる高熱が出て,その後はまた入退院の繰り返しだったようです。後にいただいた奥様からの手紙によりますと,肺へのGVHDと思われる機能障害に気づくのがかなり遅れたため,処置の手だてがなかったとのことでした。病気の発症から10年近く,哲也先生は必死に自分の体の病と闘いながら診療を続けてこられました。特に入れ歯の治療には力を入れられていたようで,調子が悪く寝込んでいるときも専門書を傍らに自分なりの入れ歯作成法をフロッピーディスクに書き込まれていたようです。

 そのコピーが今私の手元にはあります。志半ばでこの世を去らねばいけなくなった哲也先生の思いを引き継ぎ,自分が少しでも実践できたらと考えています。あれからちょうど一年。まだ,哲也先生に報告できるほど一人前の診療は出来ていないかもしれません。でもいつか書き込みの続きを仕上げて富士山の麓に届けたいと思っています。

戻る