加藤ミヱ子人生81年の記録            ≪フェクションブログ≫

わらび

掲載履歴:序章2013.05.28〜

■序 章
■第一章 生誕〜結婚
(1932-1953 下通り、子守、戦争、水害、文化学園、結婚)
■第二章 転勤静岡時代
(1953-1964 石屋手伝い、和装、草津、石屋火事、奥多摩、出産、大井川、東富田、西冨田、清水)
■第三章 帰郷〜石屋別居
(1964-1975 岩手合板、腹手術、子供就職、改築、小姑問題)
■第四章 高屋〜現在
(1975-2013 合板PS、夫失明、新築、手手術、子供結婚、畑、旅行、下通り問題)


■序 章

2013年春、一反歩畑の中咲誇った花々や野菜苗に手をやる老婆の顔は、土の恵みに屈託なく満足そのものであった。

「ひっこ来たよ」子供の声にふり返ると外孫娘ふたりとひ孫男子3人、それと娘の史子が畑にやって来た。

「今年のカラスは悪戯者んでな 作った野菜食散らすんじゃ 苺も危ないもんだ」ミヱ子は一旦手を休め家へ導く。

「あっそうだそうだあれ食べるか?」「あれって?」「田瀬湖のワラビよ 母さん富士登山トレーニングで毎週だ」

六月に嫁絵里子の富士登頂があり、体力強化を兼ねて付き合わされている。と言ってもワラビ取りは毎年の事ではある。

岩手では昔から山菜取りは当り前の事だったが、静岡時代近所の人間はワラビに見向きもせず、母が取って食べるのが珍しがられた。

結婚前母はあまり体が丈夫ではなく、嫁ぎ先を農家から町へ変えたのだが、現在は山登りや畑仕事を難無くこなし健康そのものである。

誰もがそうであろうが、これは81年の人生で様々な風に耐えて来て強くならざるおえなかったと言う表れである。

  

■第一章 生誕〜結婚(1932-1953)

母が生まれた1932年(昭和7年)は混沌とした日本を象徴する5・15事件がが5月15日に起きた。

折りしもその前日5月14日土曜日未明に母は誕生している。チャップリンが来日した日でもある。

3男5女兄弟の7番目、4女であった。現在6人が存命。

「5.15事件」は武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した反乱事件である。

1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。

1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こした。1932年(昭和7年)3月1日満州国が建国宣言。

1932年(昭和7年)はうるう年でロサンゼルスオリンピック開催。この年生まれたのが三浦雄一郎、野末陳平、藤田敏八、鈴木その子、

横山ノック、寿美花代、白土三平、谷啓、エリザベス・テーラー、滝田ゆう、フランク永井、大島渚、有馬稲子、露口茂、冨田勲、桂由美

〈5月14日佐原健二〉船村徹、ジョー・ザヴィヌル、青島幸男、岸惠子、小林亜星、石原慎太郎、五木寛之、萬屋錦之介、

田中邦衛、フジ子・ヘミング、仲代達矢などがいる。


岩手県北上市二子町(旧和賀郡二子村)才の羽々2−1の生家はその日、田植シーズン真盛り。

父親高田福蔵はかまど別れした次男であったが、本家より田畑は多く働き手の子沢山に恵まれ、農業や土木頭として家族を導いた。

母親スノは江釣子八幡の宮司の家が実家である。8人以上であろう出産と農業家族の裏方として、精魂尽くし64歳で他界。


「ほれガンバレ あと少しだ」近所の産婆の声にも慣れたもので、「オギャー」「おー元気な女の子だ」と下通りの実家で生を成した。