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2017年4月8日・9日一泊二日、上越妙高駅から車で約50分、周りはまだ、雪がある「休暇村 妙高」での泊まり。その夜、高田城の夜桜を満悦。同時に高田城の逸話に興味を感じました。

高田城は松平忠輝の築城以来、7家、17人の城主がいます。

越前松平家の松平光長は57年3か月にわたり城主をつとめ、その間には1665年(寛文5年)に起きた「寛文の大地震(高田地震)」などの災害にも遭遇し本丸の櫓や御殿も倒壊しましたが、修復しています.。

この光長の時代には家老の小栗美作が藩政を取り仕切っていましたが、権力を掌握しすぎたこともあり光長の跡継ぎを巡る御家騒動、いわゆる「越後騒動」が勃発することになります。

その結果、高田藩は改易処分となりますが、この一件以来、高田藩は「懲罰的な転封先」とされるようになります。

じっさいその後に城主となった、稲葉正住は小田原藩から、戸田忠真は佐倉藩から、松平定重は桑名藩から、榊原政永は姫路藩から左遷されています

歴代当主

↑高田城                徳川家康の六男・松平忠暉が築城し、義父の伊達政宗が普請総裁となって工事に当たった。

忠暉は文禄元年(1592年)に生まれ、8歳のとき伊達政宗の娘、五郎八姫と婚約。

13歳で忠暉に嫁いだ五郎八姫は結婚わずか10年、高田入城2年、忠暉は25歳の時、元和2年(1616年)伊勢朝熊へ配流の身となり、五郎八姫は伊達家に移る。

忠暉はその後、五代将軍綱吉の代の天和3年(1683年)まで、92歳で世を去る。

高田城
城図
ソメイヨシノ桜
ソメイヨシノの特徴は、花びらが5枚あり、咲き始めた当初は淡い赤色なのですが、満開に近づくに連れ徐々に白くなっていきます。樹の高さはおおよそ10mから15mとなっており、葉は花が咲いた後に生えてくるという特徴を持っています。
 
八重桜

明治42年(1909年)、旧薩摩軍第13師団の入城を祝い、在郷軍人団が城跡に2,200本の桜を植樹したのが始まりです。現在桜は4,000本を数え、そのほとんどがソメイヨシノです。たくさんのボンボリに照らし出され、お堀の水面に映る様子は「日本三大夜桜」の一つと称されるほど幻想的である。

因みに「弘前の夜桜」・「上野公園の夜桜」を三大夜桜と称する。

八重桜ですが、実は品種の名前ではありません。八重に咲く桜の「総称」です。つまり、八重咲きする桜をまとめて八重桜特徴は、なんといっても他の桜とは花びらの数や花の形が異なります。開花時期はソメイヨシノの約2週間後、つまりは4月上旬から5月頃にかけて咲くということになります。
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