日本の文化財とは何か
2012/08/20:暫定2版

1.文化財(あるいは文化遺産)とは一体何か
   日本の文化財(私の興味の範疇でいえば、歴史的建造物・仏像・神像・遺跡及び遺物・仏器・仏具・経典及びそれらを含む景観など)とは一体何なのであろうか。
基本的には、それは、日本民族が長い歴史の中で生み出し、護持し、現在に伝えてきた民族の活動の成果物を云うのであろう。
そしてその成果物は民族が生きて、活動してきたことを証明する価値を有するものであろう。しかもその価値は有形なものもあり、無形なものもある。
以上のように文化財とは民族の営みの価値ある結果であるとするならば、文化財とは民俗全体の「什宝」「宝物」と云うべきものである。

 当然、今に伝来する文化財は、それを発願する人、それを企画する人、また製作する人が存在して、さらには資金提供をする人などもいて、形を成したものである。
しかしそれらの文化財は何もないところに、突然生み出された訳ではない。
それは当然文化の継承があったわけで、それは過去からの連綿とした民族の営み、要するに「文化の伝統」があって、それを継承する形で、生み出されたものなのである。
以上の意味で、今に伝来する文化財は民族の歴史・文化が育んだものであり、それ故、民族の「什宝」「宝物」といえるのである。
そして、新たに生み出された創造物のうちの優れたものは新たな文化財として、民族の歴史・文化の中に組み込まれ、後世に伝えられていく。以上が民族の発展・文化の創造つまりは歴史と云われるものなのであろう。

なお現在でも信仰の対象であり、寺社の奥深く秘蔵されてきた「什宝」「宝物」であっても、それは同じことで、一見その信仰集団の「什宝」とも思われるが、本質的には、民族の「什宝」「宝物」であることには変りはない。

※明治維新の復古神道家・国学者の言説を現実社会に適用した神仏分離の結果は、まさに民族の「什宝」「宝物」の破壊活動と云った側面を持ち、この意味では復古神道家や国学者は日本民族に対して罪深い行為をなしたと云えるであろう。
 
2.文化財の所有者は誰か
   文化財とは以上のようなものであるとして、ではそのような日本の文化財の所有者とは誰なのであろうか。
それは日本民族そのものであることは自明のことであろう。
その意味で、特に重要な文化財は、「国宝」や国指定の「重要文化財」、地方公共団体が行う「指定文化財」の扱いを受ける、即ち、法的にも、民族の「什宝」といった扱いを受ける。

ところが、近代の法制では、文化財の所有はほとんどがそれを捧持してきた寺社や、博物館などの公共機関、ほんの一握りの個人・法人などとなっているのも事実である。法制上では民族全体の所有とはなっていないのである。
つまり、このことは、現代が、長い人類の歴史の中で最適解として導き出してきた帰結としての、自由や個人が尊重される社会(市民社会)が到来し開花していることを示しているのであろう。つまり、文化財と云えども、現下の社会では、「個」の尊重(個の財産権の明確化)また維持管理上の要請などから、基本的には所有は自立した人格としての市民が関わりを持つというルールなのであろう。

しかし、文化財の法制上の所有は「個人」であるとしても、文化財とは民族の歴史・文化の結実であるとするならば、本質的にはその所有は民族全体に帰するものと考えるべきものであろう。つまり、文化財の真の所有者とは、日本民族全体なのである。
近代の法制上、文化財を現在「私有」している「所有者」とは、近代の市民社会形成の歴史の過程で、たまたま、現在の所有者に、民族が「仮託」しているものと考えるべきなのである。
寺社であれば、たまたま、代々捧持して来たなどの理由、公共機関であれば、民族の代理人として「公金」を用いて取得したという理由、個人であれば、例えば、資本制生産社会の成功報酬の意味などで 蓄財をなし、その財で文化財を蒐集したという理由などで個人が所有しているが、それは、便宜上、 日本民族がその所有を「個人」に「仮託」していると考えるべきなのである。
決して、現在たまたま所有している個人の「私有物」ではないのである。
文化財とはあくまで「公共物」なのである。

※民族とは抽象的であるが、具体的には我々市民個々人の集合が民族と理解すべきであろう。
 

3.文化財の公開について
  以上のように、「文化財」の本質は、民族の「什宝」「宝物」というべきもので、その所有は民族全体に帰するものなのであるが、
文化財とは信仰上の理由などで特に秘せられたもの(秘仏など・・これも伝統という文化財である。)また「保存上」の理由で不都合な場合などを除き、基本的には「文化財」の最終的な所有者である民族全体に広く公開されるべきものなのである。

繰り返せば、民族全体の文化財と云う意味で、文化財の公開は、現在、拝観料を取る取らないの区別があるにせよ、また期間限定などの制約はあるにせよ、基本的には、広く民族一般に公開されるのが当然でかつ健全なことと思われる。
当然、文化財の保護の観点から、それを損なわないために、公開にはある種の制限が付随する、あるいは現在の所有の法制の下では、ある程度の経済的負担が付随することも理解はできる。

※文化財を財力があるが故に購入し、個人所有として秘蔵し、公開をしない例が散見される。
確かに文化財といえども、現在の法制では指定文化財であればある種の制限があるにせよ、所有権が認められ、所有物をどのようにしようが自由なのが原則なのであろう。
しかし、文化財の本来の所有者は民族全体であると本質に立てば、公開を拒否するのは「物欲の権化となる」という以外の何ものでもなく、そもそも文化財を所有する資格がないというべきなのであろう。

※文化財の公開・非公開を所有者の「思想」あるいは「恣意」で「許諾」を与えるという態度をとる所有者(実は仮託された者)も一部存在する。
彼らは「許可願い」を出せば、「審査」の上、「可否」を連絡するなど主張する。
これは文化財の本質を忘れた「思いあがり」というべきであろう。
「戦前」の「検閲」は国家権力が「臣民」に対して行使したが、この例では「所有者という一個人」が市民を「検閲」する構図なのである。
 

4.文化財そのもの(現物)とその複写物
   以上のように、文化財の所有は本質的には民族全体に帰するということであるならば、当然、所有者である市民はその文化財に自由に接することができるのが基本であろう。
それは、文化の継承・発展・引継のための一つの不可欠な要件であるからである。

しかし、文化財そのもの(実物)の公開には、一般的には、減価あるいは消滅などの危険を伴う。
また信仰上の理由などにより、ある種の制限があることは理解できる。
(例えば「秘仏」が通常は公開されないのは、「秘」ということ自体も歴史・文化的価値であり、「仏体」そのものの価値と相乗しての文化財であるからである。乱暴にも、公開を強要して文化財の価値を破壊するようなことをしてはならないのは自明のことであろう。)
さらに、減価の惧れのある文化財については、管理上の観点などから、それが善良な所有者である限り、現在の所有・管理者に許可を求めなければならないことも理解はできる。

一方、文化財の複写物(写真・図版・印刷などの形をとる複写物・・・・実物では当然ない)については、我々市民が利用するに当っては何の制限も無いことが基本であろう。
複写物は文化財そのものではなく、まさに複写物の故に、文化財そのものの減価や消滅などの惧れがないからである。
我々市民は祖先が築いた文化に接し、その文化を継承し発展させ、次の時代に引継いで行く義務がある。
まさに文化とは受け継ぎ、次の世代に受け渡すべきものであろうと思うからである。

ところが、文化材の複写物の利用についても、現在の所有者が「複写物利用許可」を求めるケースが一般化している。
それは彼等が日本の文化の凝縮である文化財を私物化し、何か自分の所有物のように勘違いしている故と思われる。
文化財とは現在の法制では所有者の個人所有の形態をとるが、実はそれは民族から仮託されたものであって、本当の所有者は日本民族全体であることを理解していないからなのである 。

※複写物の利用について、その利用許可などが必要である理由は全く理解できないが、仮に「複写物利用許可」の制度があったとしても、その利用許諾の可否を与える権利は仮託された所有者にはなく、日本民族が行うべきことあるいは歴史が判断すべきことと思われる。
 

5.著作権もしくは知的所有権について
   知的所有権あるいは著作権については、それを保護するという主旨のいわゆる「著作権」法がある。
著作権などがどうして権利なのかよく理解できないが、知的所有権などという権利は資本制生産制度の「申し子」ともいうべきもので、少なくとも「文化 を創造し、よって人類の知的幸福に寄与する」文化創造活動とは何の関係もないものと思われる。
これ等の権利は知的生産物を「商品」として認知し、その生産者に対して、生み出した商品(絵画、音楽、文学作品、コンピュータソフトウエア等)の独占権を付与し、独占権を持つ商品の販売によって、それらの生産者に一定の果実を保証し、さらにそのことによって、その他の生産者の意欲を刺激し、究極的には、経済的な「富国」を目指すという資本制生産社会の論理(経済的に巨利を得たものが成功者であるという論理)を象徴するものなのであろう。

文化財の価値とは、その著作物が民族が連綿として活動してきた「存在証明」としてどれくらい歴史を凝縮しているか、またどのような歴史の積重ねであるか、さらにはどのくらい知的幸福に寄与するかなどの「抽象的価値」なのである。
それは決して、どのくらいの貨幣と交換されるかという物差でその価値が決まる「商品価値」ではないのである。
本質的には、文化財とは資本制生産論理から派生する著作権や知的所有権などとは別次元のものなのである。
 但し、文化財も現下の資本制生産社会の只中に存在する以上、「商品価値」の物差で測られることがあるのも宿命であろう。
とは云うものの、現在大量に生み出されている、またこれからも生み出され続けるであろう知的生産物(知的所有権の対象物)は現在は「商品価値」としての評価であるが、長い時の経過とともに、優れたものは将来 「文化財」へと転化していく候補である側面もあることを忘れている訳ではない。
 

6.報道機関の著作権は誰に帰属するのか
   国家権力や世の中に存在するあらゆる権威などに内在する虚構や自己保身を暴くためには「市民の知る権利」は重要な権利である。
当然権力や権威の横暴を「知る」ためには、情報収集が必要である。権力や権威は都合の良いことは宣伝するが、悪いことは隠蔽あるいは偽るものなのである。
国家権力や権威などの要するに閉ざされた世界は絶対に腐るものなのである。であるから常に監視が必要なのである。
 しかし市民一人一人の能力や情報収集に割ける時間や行動できる空間には限りがあり、到底、巨大な権力あるいは権威の思惑・行為などの全部を知ることは不可能 であろう。この強大な権力や権威の世界に対して、市民が太刀打ち出来ないとなれば、「知る権利」など無いに等しいものとなる。

 日本の戦前の報道機関は国家権力に屈服し迎合し、国家の宣伝機関に成り下がった経験を持つ。
けっしてこの轍を踏んではならないのである。

 では、どうすれば、市民の知る権利をある程度保証できるのか。
それは、市民の代理として、ある程度の能力を備えた専門機関に「取材」(情報収集活動)を委ねる方法が有効なのであろう。
かくして、市民社会は、報道機関(新聞社など)に取材の自由と取材した素材を報道する自由を付託したということなのである。
個々人では取材できない場所に立ち入り報道機関が取材できるのも、以上の付託の結果であり、市民の知る権利の代理人としての権利を行使できるということであろう。
このことは、決して報道機関が特権を持つということではなく、実は市民が持っている取材の自由を報道機関が代行しているのに過ぎないということなのである。
そういった意味では、報道機関が取材の結果得た成果・素材は、基本的には市民社会(具体的には市民個々人)に帰属するものである。

※報道機関の取材結果(記事や報道写真)について、著作権を楯に、転載や使用を拒み、市民が自由に使用できない風潮がある。
使用に当っては許諾が必要であると云う。さらに、何を勘違いしているのであろうか偉そうに「審査する」などという態度もある。
使用に当っては厳しい制限や法外な使用料を要求する場合もある。
 これは随分な思い上がりであろう。
報道機関の取材の成果(成果物)は、市民社会に帰属するものなのである。
報道機関はその取材の特権が市民社会からの付託の結果であることを忘れ、その特権を私物化しているものと断ぜざるを得ない。
著作権は報道機関に帰属するのではなく、著作権は報道機関に「知る権利」の具体的行使を付託した市民社会(市民個々人)に帰属するのである。
報道の自由という権利の行使で市民社会に報道(公開)した瞬間、いわばその素材は著作権フリーになり、自由に市民社会の一人一人が使用できるというのが当たり前の論理なのである。
 

7.文化財の複写物の公開の意味とは
   文化財の複写物が広く市民社会に公開(出版・放送・Web公開など)されたという意味は、市民社会において、市民が複写物を自由に享受・使用・再配布が出来る状態になったことを意味する。
これは報道機関の報道がなされた瞬間に、報道機関が取材した成果・素材は市民社会が「享受」できるようになるのと同一なのである。
これはある意味では印刷手段の進化やInternet技術の進化の結果であるが、この技術革新は、文化財の一部特権階級からの独占を排し、広く市民世界に開放して行った功績を持つ。
技術革新及びそのことを梃子にした、急速かつ広範な情報伝播は誰にも止められないし、また誰も止める権利などないのである。

文化財やその複写物の所有権は市民個々人に帰するのである。
文化財の写真など(複写物)も「写真の使用許諾」を要求する風潮が蔓延する。
これは文化財やその複写物の所有権は市民個々人に帰することを忘れているのである。
近代法制上の文化財の所有は特定の個人に属するが、この特定の個人の所有は民族(市民)からの仮託であることを理解していない「思い上がり」なのである。
ましてや、「現在の仮託された特定の個人」がその使用の可否を判断するなどとは、 特定の個人が市民個々人を「検閲」することである、決して許されることではない。
「使用の可否」は事後的に市民社会が判断することなのである。そして今に生きる市民社会の判断の誤りは将来歴史が判断することなのである。