2001年3月2日歴史講座「平安の祈り(白川金色院跡)」

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要 目
1.日時:2001年3月2日
2.場所:宇治市歴史資料館
3.講師:宇治市歴史資料館 浜中邦弘氏
要 旨
1.平安後期の礎石建物(仏堂跡)検出
  ・1996−1997年の発掘調査において、平安後期の一間四面の仏堂跡を検出。
   「文殊」と伝承されるまた江戸期の文献で文殊堂の描かれていたであろうと推定される茶畑で発見のため、
   当時は文殊堂跡?発見と報道される。
        <一間四面堂という呼称について、詳しく解説あり
   (正確には平安後期の1間四面堂跡と室町期にその上に再興された1間四面堂跡とを検出。)
  ・地蔵院文書「白川別所金色院勧進状」<寛正4年(1463)>によれば、
   康和4年(1102)四条宮寛子が白川別所金色院落慶供養を行ったという。
   しかも当勧進状によれば、本尊は大聖文殊菩薩で、堂の規模は7間四面であったと伝える。
  ・但し、発掘調査によって全く同時代の文献にあらわれないこの地に平安時代の仏堂が存在したことが判明し、
   「勧進状」が全くの荒唐無稽の創作でないことも確認できたものと思われる。
  ・勿論、この勧進状は康和4年から約360年後の資料であり、白川金色院に関しては、同時代の資料には一切出てこない。
   また「勧進」という性格上、この360年後の後世の「勧進状」に誇張がある可能性は大であることは否定できない。
   しかしながら、また創建当時の同時代の記録を全く欠く状態ではあるが、
   検出した遺構と「勧進状」でいう「7間4面堂」という堂の規模とは、全く整合が取れない。
  ・以下は全くの想像ですが・・・・
   「勧進状」での「7間四面」という堂の規模に注目すれば、文殊堂跡は別の場所にある可能性もありうる。
  ・現地で7間4面の堂が存在したと考えられる平坦地は、地形から見ると、福泉坊跡のすぐ北が候補地として考えられる。
   (現状は発掘出来ていないところで、かつ いつ出来るかは全く不明ではあるが)
  ・この平坦地は南北に長方形で、東が山である。
   この地形に存在したとするならば、堂は西向きとなろう。
   当時流行の西方極楽浄土を再現した「阿弥陀堂」は東向きであり「阿弥陀堂」でないであろう。
   西向きで「身舎(もや)」が7間とすると、東方瑠璃光浄土を再現した「7体薬師堂」ではないだろうか?。
   (勿論文献的にも遺跡的にも裏づけのない、全くの自由推測ではあるが・・・)
  ・以下は私の想像であろが・・・
   思えば、私たちの身近で言えば、平安期の現存するほとんど唯一の九体阿弥陀堂である
   山城・浄瑠璃寺の本堂(桁行11間梁間4間、平安期の用語で言えば9間四面堂)を想定していただければよいだろう。
   身舎(もや)が9間で九体の阿弥陀如来を安置し、堂は東面する。
   勿論、西方・極楽浄土の再現を願ったものである。
   つまり浄瑠璃寺本堂より2間小さい規模の薬師堂が想像される。
  ・以上は遺跡としては全く裏づけのない「自由推測」であるが・・・楽しいことと述べる。

2.1998年発掘調査において「経塚」を発掘
  この経塚については第6回発掘調査(1998年)のページに記事を追加。
  末法を迎えるにあたり、平安期には全国広くに多数の経塚が作られ、(主として)法華経が埋納される。
  ここ白川の地にも平安貴族の願い(末法の後、気の遠いほど長い時間の後に現れるとされる弥勒菩薩の救い)
  を込めた祈りがあったのであろう。

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