佐  渡  国  の  社  ・  補  足

佐渡国の社・補足

「宝暦の寺社帳 下巻」に見る佐渡の社

佐渡における社の特性について

1、修験系の活動が活発であった。
祭神(社)数から見れば、佐渡国に於いても、中世から近世初頭にかけて多くの修験の活躍があったと思われる。
おそらく修験は、地頭層・支配層・草分層などの権勢に取り入り、村々の鎮守・守護神などを祭祀したものと思われる。
本来、これらの修験系の社は、明治の神仏分離で「神社」であるように強制されたが、実質は日本独自の山岳仏教とでも云うべきものであったと思われる。

 ※佐渡371社中、修験と思われる社は熊野権現46、白山権現46、羽黒権現10・・・を数える。
  (北山権現・小田原権現・伊豆奈権現なども実態は不明であるが、修験の可能性が大と思われる。)

 ※佐渡に於ける修験の一端は次の例で見ることが出来る。

○近世の佐渡に於ける修験
近世の当山派(醍醐三宝院・真言)触頭は相川夕白町妙楽山大行院であった。大行院は袈裟下70ヶ院をもつ。
文禄年中(1592-95)大行院元祖、渡海し、西三川に住居し、金常寺と号す。
のち鶴子に移り行歳院と号す。
慶長年中相川に転じ般若院となり、のち夕白町に移り大行院となる。
慶長年間、金襴袈裟事件を起し本山派定覚院と争い、家康の裁定で大行院が勝利し、勢力を伸張す。
延享年中、太神宮の別当となる。
相川には以下の修験が知られる。
奈良町万宝院・江戸沢一学院・下戸良蔵院・鹿伏玄養院・紙屋町密教院・柴町一乗院・濁川本学院・坂下町安養院・紙屋町不動院・柴町和光院

本山派(京都聖護院・天台)触頭は河原田千手院であった。袈裟下は150ヶ院と云う。
相川には以下の修験が知られる。
上相川九郎左衛門町定覚院・大工町法教院・江戸沢大福院・六右衛門町教学院・大間正善院
なお、地域的に大佐渡側には吉野系の当山派が多く、小佐渡側には熊野系の本山派が多いと云われる。
かくも隆盛であった修験も、明治の神仏判然の処置、奥平謙輔の強権・暴圧、修験道廃止令で、殆ど修験は職を停止する。

○佐渡後尾村の修験
後尾村に残る寛文十二年(1672)の訴状に、「後尾村立ちはじまりの氏神、熊野権現・日野尾権現・ゆするぎ権現・羽黒権現・十二権現・五社御座候」とあり、中世の頃佐渡への教線を拡大した修験の多くが入村し、修験の活動をしたと思われる。
後尾には現在、智挙(教)院・金剛院の2家の山伏家が残る。ともに当山派である。
享和三年(1803)の由緒書上帳(石花区有)では、金剛院は一時当山派の佐渡の触頭を勤めたという。
智教院の山伏岩本快善(明治43年没)は、明治の頃、後尾の文弥人形座の太夫を勤め、一座をひきいていたと云われる。


○修験伊勢常学院
本山派(聖護院末)山伏であった。明治40年ごろ廃絶と云う。廃絶時には大工町にいて「熊野山聖王寺、織田常学院」と号する。
明暦2年(1656)の宗門帳によれば、
当時は上相川九郎左衛門町に在住であった。
寛永8年(1631)「熊野山伏・伊勢常学院」初代は紀伊熊野山から渡海、34歳であった。山伏賀左京(35歳)も同行。
同年、伊勢清くん(47歳)・同国慶宝(48歳)・同国清景(32歳)・伊賀利貞(45歳)・同国智養(34歳)の五人の比丘尼も来島とされる。→相川柄杓町の熊野比丘尼を参照(すぐ下の項)
文政9年(1826)の「相川町々墨引」では「修験・常学院」は既に大工町に移るという。

なを、金井町泉の後藤家は、常学院の遠縁とされ、常学院の「那智参詣曼茶羅」「熊野観心十界図」の二軸、本尊如意輪観世音菩薩立像・懸仏・熊野山の山号図・神楽道具などを伝える。

○相川柄杓町の熊野比丘尼
かって相川(上相川台地の下方で、その最南西部)に柄杓町があった。(現在は無人・原野に帰る)
町名は熊野の比丘尼が団まって一町をつくり、勧進のさいに持ち歩いた柄杓に由来すると云う。
『慶長十八年(一六一三)の相川地子銀帳に、「山先柄杓役」という税目が見えることが『佐渡四民風俗』に記されている。山先役は山先町の遊女から、柄杓役は比丘尼から取り立てた売春税で、相川を勧進した熊野比丘尼が、落ちぶれて公認の遊女に転落していくようすがうかがわれる。「柄杓役」という税目は、のちに港町の小木遊女に課す税目にもなった。公認されない娼婦に課せられるのが、柄杓役だった。元和二年(一六一六)以降、比丘尼の売春は禁じられるらしく、すぐ上隣りの上相川九郎左衛門町に集団移転した。』
明暦2年(1656)同町宗門帳(教育財団文庫蔵)には、「熊野比丘尼、伊勢清室、年46」をはじめ、30人の比丘尼の生国、来島(出生)年などが記録されている。伊勢常学院はこの比丘尼に同居と云う。
柄杓町には修験の万宝院・三光院、日蓮宗法華寺があったが、いずれも廃絶する。

○佐渡坊ヶ浦村の修験
畑野から長谷寺に向かう街道の途中、山塊が平野に落ちる所に坊ヶ浦村がある。南には行者山(本宮山)というほぼ独立した峰があ り、この山頂には役の行者を祀る小祠がある。
山麓には御滝(落差約10mの小瀑)があり、明治維新までは白山系および羽黒系修験の梵天頭行人派の寺坊が散在していたと云う。(現在は御嶽教の道場があるという)
ここは殆ど平野部と云って良い場所であるが、活発な修験の活動があったようである。

2.武士が佐渡の支配層となるにおよび武人系の社が多く勧請される。
源氏系の八幡菩薩、あるいは北条氏系の諏訪明神などが多く勧請されたと思われる。
 ※佐渡371社中、諏訪明神42社、八幡大菩薩30社を数える。
  中世佐渡を支配した本間一族は基本的に北条氏与党と思われ、諏訪明神が多く勧請された理由の一つと思われる。
  一般的に、北条氏は源氏の八幡神に代えて、諏訪明神を勧請したとされ、北条氏の支配地には諏訪明神が多いとされる。
  承久の変後、北条氏は大仏氏及びその被官本間氏を通じ、佐渡を支配したと思われる。

3.その他
山王権現19社を数えるのは、基本的に本間氏の支配までは、天台系寺院がかなり勢力を持っていたためと思われる。
 (上杉景勝の佐渡侵攻により、天台系祭祀は上杉氏の宗旨である真言系祭祀に改められていったという事情があるとされる。)
現在延喜式内社と唱える社は「寺社案内帳」などの文言から判断するに、殆どは近世までには退転していたと思われるも、国学者や復古神道家によって、 実態のないものがでっち上げられたのであろうと推測される。要するに、延喜式内社というのは殆どが眉唾ものと推測される。


補足項目

金北山真光寺

「佐渡国寺社境内案内帳」:
山城国地蔵寺末、開基弘仁2年、・・金北山別当、縁起・什物天正年中上杉景勝当国の地頭と一戦の砌紛失・・・
末寺:石名村檀特山清水寺、平清水村如意山多聞寺、岩谷口村岩谷山弥勒寺、小田村明星山重泉山寺、南片辺村宝内山大興寺、北狄村 狄石山胎蔵寺、入川村延命山地蔵寺、大倉村円甲山長久寺、田野浦村光明山西方寺、高下村金剛寺、入川村宝蔵寺、千本村医王山薬泉寺、南片辺村正福寺、姫津村薬王山万福寺、小川村無量寿山極楽寺、小川村中宮山金剛寺、上矢馳村乗福坊、上矢馳村菊池山蓮華院

潟上村薬王寺(牛尾神社)木造薬師如来坐像

「台座2敷茄子」に以下の墨書銘がある。
 上 面「絵師青木郷住僧
      称名寺別当勝蔵坊
       生年六十七歳
   応永十二乙酉歳三月日 「前」(異筆)        ※応永十二年(1405)
   弟子治部公光円也
   善光寺住呂(侶)対馬公
       栄範也」

 下 底 心棒穴から周縁に向かって縦書き。
    「当寺 開山 河原 家跡 慶学 生年 五十一之     
     歳也 大永七天 丁亥 八月廿八日」          ※大永七年(1527)
        芯穴に添って丸く「薬師堂□□□」と墨書銘文あり      

 台座5反花 墨書銘 心棒穴から周縁に向かって縦書き。
 「當寺 薬師 十二神天 再興 衆守益□ 心身安楽
     所也 明暦元年 乙未十二月 八日 別当 五衛門       ※ 明暦元年(1655)
     宮太夫 戸之内 甚左衛門 繪師 大坂 弥兵衛
     施主 三歸老」

なお伝承では、現在の牛尾神社境内は、かって天台宗医王山(享和3年「薬師堂由緒書」では瑠璃光山)薬王寺の屋敷跡で、この薬師如来を祀る薬師堂は、その奥の院であった と云う。別当伊澤家(吾潟)は、薬王寺の僧が帰俗し、かって伊澤は医王山に因み医澤と書いたとも云う。
また薬師堂は牛尾神社拝殿に向かって左、倉の脇に現存する。現在は中央に天神(菅原道真)、左に薬師、右に聖徳太子が各々厨子内に祀られる。堂宇は茅葺きで文政 9年(1826)建立の棟札がある。
薬師像周辺に十二神将像(像高約40p)が、バラバラに壊れた状態で置かれているようで、本尊薬師像と同時に作成されたどうかは不詳。享和3年(1803)「薬師堂由諸書」 には脇侍として日光・月光菩薩、十二神将とある。

潟上村後藤家太子堂(牛尾神社)木造聖徳太子立像

聖徳太子立像胎内墨書銘

 胎内側 :「(丸に蓮華模様図)文和二年七月七日   佛師観鑚房 生年廿六」    ※文和2年(1353)
 胎内背側:「願主願妙生年五十七 奉造「體(たい・く・からだ)者ヵ」
   右願ハ心中ノ諸願皆令満足」
  
この太子像は潟上村後藤立庵家太子堂本尊で、後藤氏が佐山シズ氏に屋敷を売却した際、堂を取りこわし、像を牛尾神社へ奉納という。(『潟上郷土志』)※なお後藤家は、潟上城主喜本斉の典医と伝える。
なお佐渡では谷地、筵場、この潟上の太子が三太子といわれる。
 

大石村熊野権現棟札

文化6年(1809)6月、社人藤井甚太郎によって繕写、滅字点朱された棟札(棟札裏面)
熊野権現建立年号は元亨2年(1322)8月11日とあり、願主のうち本間一族と推定される左兵衛尉惟員、僧築後房光賢、本間六郎宣光、本間小太郎直泰、本間太郎法師丸、平左近尉平忠泰等の名がある。※六郎宣光は建武3年(1336)の宿根木浦合戦に戦死した宣光と同一人と推定される。

当地には八百比丘尼の伝説が残り、八百比丘尼は当地の田屋家の娘と云う。田屋家は大石に現存し、田屋家は大石熊野権現の社人であり、元亨2年の棟札の「藤井宗正」は祖先と云う。屋敷内に元禄検地帳に載る薬師堂を持つとも云う。

真輪寺:真野宮:真野村

天暦5年(951)法輪によって開基とするも不明、真野川両岸に12坊が展開し、奥に阿弥陀堂(真輪寺本堂)があった。
阿弥陀堂は順徳上皇配所跡と云う。真言宗真真野山と号し、国分寺末であった。
真輪寺は順徳帝山陵守護として、順徳帝木像を安置してきた。
あるいは真輪寺及び12坊は、経塚山修験の本拠地であったとも云われる。
慶長5年の検地帳:「まの」名請人として、円蔵坊・南陽坊・愛前(染)坊・山之坊・大徳坊・妙定(浄)坊・大知(智)坊・法(宝)光坊・観智(知)坊・大乗坊がある。
元禄7年の検地帳:上記慶長5年検地帳の諸坊のほか、上光坊・隆昌陰がある。
宝永7年(1710)真輪寺十二坊絵図写には真輪寺・南陽坊・大智坊・多聞坊(多聞坊分多兵衛とあり当時退転)・観智坊・円蔵坊・大徳坊・愛染坊・上之坊・宝光坊・隆昌院・妙浄坊がある。
文化3年仁和寺宮から三重宝塔が寄進。(国分寺蔵)
明治初年廃寺、阿弥陀堂も取壊されたと思われる。※隆昌院のみ後に復興と思われる。
明治2年真輪寺は真野宮とし、僧は神官(真木山氏)となる。順徳上皇を主神とし、菅原道真・日野資朝も祭神に加える。
明治7年県社となり、順徳帝木像は摂津水無瀬宮に遷座。明治天皇より下賜の剣を神体とする。
明治31年社地を拡張、大正9年社殿新築、昭和16年社地拡張整備(鳥居、神橋、神門、社務所を新設、参道・神域を拡張)。順調に国策神社の道を歩む。

橘三喜

※以下はWeb情報を総合

寛永12年(1635)〜元禄16年(1703)、
肥前国平戸に生まれる。平戸藩国学者。名は光義、また美津与志、号は為証庵など。
駿河府中浅間社の神主宮内昌与から吉田神道を学び、自ら宗源神道五十六伝(宗源神道五十七伝?)と称して一派をなすという。
※宗源神道五十六伝などとは浅学にして、意味不明、あるいは全く分からない。
諸国を廻り<延宝3年(1675)から23年かけて全国の一宮を参拝し「一の宮巡詣記」を著す。>種々の「悪行」を重ねる。

隠岐一宮比定については、次のような所業(「悪行」)を行う。

隠岐国一宮は現在、長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触にある「天手長男神社」とされている。
これは、延宝4年(1676)橘三喜が隠岐国一宮に比定したものと云う。
「天手長男神社は壹岐國宗廟たりといへども、跡かたもなく、剰へいひ傅ふる事もたしかならず」(「一の宮巡詣記」)という状態であったが
「しかれども考合する事ども、又は一人の老婆かたり傅ふる事據有て、田中の城山竹薮の中に分入、そのしるしを求むるに、神鏡一面、又は二座の右體を堀出しぬ。其外上代の土器中に埋れる事、其數をしらず。」(「一の宮巡詣記」)と評価し
「壹岐國廿四社の内、すたれたるをば右社をたて、各其神體神號を記し、後世に傅へ度よし、國主の仰に任せ、其所の古老の云傅へを聞、舊記を考へ記し置所左のごとし」と使命感に燃え、若宮社なる式外小祠を天手長男神社として比定したと云う。
要するに、三喜は、天手長男神社は「天手長男(あまのたながお)」<たながお(たなかを)>という社名から「田中触」にあるものと推定した。
三喜は、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡一面、弥勒如来の石像ニ体座を堀り出し、石社を建て顕彰した。
元禄元年(1688)松浦藩主の命により、本殿・拝殿が造営される。
※弥勒如来2躯などを発掘したとは眉唾であるが、この像は盗難に逢い、後に一体は発見されて奈良国立博物館にあるとも云う。

※天手長男神社は、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府のことであると推定され、境内社に壱岐国総社もあり、興神社が天手長男神社であるとする説が有力となっている。
 (さらに三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと推測される。)
また合祀されている天手長比賣神社も橘三喜の比定によるが、天手長比賣神社の所在も全く不明と云う。
さらに、同じく合祀されている物部布都神社も、「田中触が物部村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年では渡良浦の國津神社が物部布都神社であったとされる 。

佐渡に於ける橘三喜の所業(「悪行」)として、以下が散見される。

◇橘村三宮神社
「佐渡国寺社境内案内帳」:「開基大永元年、社地八畝一六歩除、社僧定福寺」とある。
祭神順徳天皇第三皇子成嶋親王とする。明治三十九年荒沢神社合併。
由緒によれば、順徳天皇第三皇子成嶋親王を祀る三宮村三宮神社(親王大明神)より、橘光行(三喜)が当地に来て勧請し、石造の御神体を彫刻して当社を創立したという。
確かに延宝4年(1676)橘三喜が来島し、社壇を開いて、各地の神社の社号を改めるなどをする。
一方
三宮村親王大明神(三宮神社)は別当長徳寺、開基長徳元年( 995)とあり、親王大明神の勧請は慶長八年(1603)という書付がある。
要するに、三宮村と橘村の両三宮神社には関連性はないと思われる。
元来、橘村は近接はするが地形的に宮の浦・橘・差輪の集落(村)かから成り立っていて、元禄初年に、宮の浦・橘・差輪の三ヶ村が合併した時、産土神として三宮として成立したものと思われる。(貞享4年(1719)新境取極め文書には、橘村・宮の浦村は別村となっているという。)また三宮(さんぐう)大明神の元宮は宮の浦の北、長手岬にあったと伝える。
以上であるとすれば、当宮の祭神は、強引に、橘三喜によって、成嶋親王(第三皇子千歳宮)に付会されたものと思われる。

 参考:橘村北隣に高瀬村があり、字浜端に「三宮神社」が現存する。
この社は元禄検地帳・寺社境内案内帳にその名の記載を見ない。
明治十六年「神社明細帳」には、「寛文九年創立、当村ノ産土神タリ。祭神成嶋親王・伊弉諾尊」とある。
明治39年、浜端にあった熊野神社を合祀、祭神伊弉諾尊とは十二権現社の明治以降(熊野神社)の祭神であろう。橘村と同様、当村は佐々木・宇田・榎田の三集落によって成立していると思われるが、各集落の小宮が合併して三宮神社となったかどうか、また祭神が成嶋親王とされた経緯は不明。

◇金丸本郷・引田部神社
当国延喜式9社の内、縁起も無之、社地24歩。御神号大巳貴命。
祭神は社伝で大巳貴命と云う、明治の神社明細帳では猿田彦命とするが、これは延享年中(1744-)橘三喜が納めた神号である。
「大日本地名辞典」では阿倍氏一族引田氏(当地開拓者)の祖大彦命を祀るとする。
また神社正面から社殿真後は金北山であり、金北山を神体とした大彦命を祀る社であった可能性もあるとされる。
要するに当社は「縁起も無之」という訳で、よく分からないというのが実態であろう。
それでも、式内社であるとは復古神道によって後世適当に付会したものとも思われる。
なお、別当の修験勧性院は明治維新で神職(宮本氏)となる。

◇河内村飯持神社
当国延喜式9社の内、御神号若宇賀能売神、気化神なり、御膳持須留若宇賀能売神と見えたり、神不知。延宝年中橘三喜社参の節、小き祠の有けるを拝し奉納の和歌あり。社地6畝15歩御除。
 「万民の みたまの水を うけ持の 神の社は かすかなれども」
※橘三喜の頃(延宝年中)には小祠があった程度で、橘三喜が何か細工(捏造)をしたものと思われる。

相川大山祇社神官:安岡成政(安岡肥前、歌人):元和8年(1622)〜元禄5年(1692)
以下のような話がある。
寛文12年(1672)3月橘三喜、諸国一宮巡詣で渡海、相川大山祇社神官安岡成政(安岡肥前、歌人)と親しく交わり、神道論を論じたと云う。

炭焼藤五郎・戸河権現
「佐渡奇談」に「炭焼藤五郎が事」という項がある。
慶長以前、下相川村に、炭焼きを生業とする藤五郎がいた。藤五郎は親孝行で正直者で、貧しい者を憐れみ人望があった。慶長以後、相川は発展するが、人は藤五郎の家の近くに多く住み、「愛敬する事恰も父母の如く」という状態であったという。
藤五郎の死後、人々は神に祀り、これを「藤五郎権現」と呼んだ。春秋二度の祭りを行ない、旱魃に雨を祈り、霖雨に晴を祈り、流行りの病あれば必ず祈願を乞うたが、「其感応響の声に随うが如し」であったという。
延宝3年(1657)、橘三喜が、宗源神道五十七伝と唱えて渡海、島内の多くの者が門人となって教えを乞う。三喜は「気に乗じて無稽の説を語り」などして、「藤五郎権現」の名が賎しいので変えたいと申し出たとき、三喜がいう通り「戸川大権現」と神名を改め、さらに社殿の改築を行なった。
ところが、其の後は何を祈っても聞きとどけられなくなり、いきおい人々の尊敬心も薄らいで、ただ春秋の遊山のときに酒を酌む所となってしまったというものである。
「佐渡人名辞書」には「永享三年(1431)の頃、駿河国の住人戸川の大臣元耀当国に渡り卒去す、藤五郎は其家臣にて云々」とある。
※炭焼とは文字通り炭焼を生業とした場合だけではなく、鉱脈(金銀)の探索に係りを持ったようである。炭焼藤五郎伝説とは炭焼黄金伝説・成功譚を示す ともいわれる。
※奇しくも、橘三喜の所業も語られるが、これは失敗譚であり、はからずも三喜の「いかさま」を皮肉ったものになる。


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