近  江  金  貝  遺  跡

近江金貝遺跡(最古の三間社流造の遺構出土)

2008/10プレス発表:

近江金貝遺跡で、平安前期の三間社流造の神社本殿と思われる掘立式建物が確認された。三間社流造の最古の遺構は建保7年(1219)の讃岐神谷神社本殿であるが、これより200〜400年前の最古の確認例となる。これまで神社建築は神明造など(掘立式)と三間社流造など(礎石建物)と の2系統に大別されていたが、これで神明造から三間社流造に発展していた可能性が浮上した。
三間社流造復原図:大上直樹大阪人間科学大准教授作成とある。
・・・以上プレス発表はかなりセンセーショナルなものであった。
しかし、一般的には神社関係の由緒・祭神などは、ほぼ100%、近代の天皇教に毒されて入りと思われ、特に慎重に考察しなければならないであろう。

2008/10/04「現地説明会資料」より

建物3はその発掘遺構からみて、「階段で高床の本線に入る、三間社流造の神社本殿である可能性が極めて高い掘立式建物」であろう。
建物3の規模:
南東を正面、約6m×7m。2間×3間の身舎に庇が付く。身舎の柱間は約2m、庇部分は約3m。庇中央2つの柱穴の内側に近接してそれぞれ柱穴がある。これは階(きざはし)の親柱と推定される。
立地:
微高地に立地し、附近には9〜10世紀と推定される多くの建物跡があり、この地は領主の館あるいは施設であったと思われる。建立時期:確定的なものは出土せず、附近の建物時期と同時期であろうと判断するのが最も妥当とされる。

金貝遺跡建物3平断面図:下図、三間社流造本殿の平面配置とされる。

近江金貝遺跡
建物3遺構(西南より)   建物3遺構(南より)   建物3遺構(東南より)   建物3遺構(北東より)
建物3柱穴(正面中央間)   建物3柱穴(正面中央間)   建物3柱穴1   建物3柱穴2

金貝遺跡主要遺跡平面図:丸数字の建物跡は平成19年度新川発掘調査意で判明した遺跡。

ではなぜ”この場所に”また”この時期(平安前期)に”この建物が出現したのか。
明確な説明は出来ないが、附近にある河桁御河辺神社(神崎郡の川桁神社の論社の一つ)の本殿が三間社流造である。
当社殿は河桁御河辺神社の前身とは考えられないであろうか。
 ※しかし、そうだとしても、式内川桁神社は平安初頭に廃絶したという事実が残るだけであろう。
 なぜ掘立式の三間社流造の社殿であったのかの回答にはならないであろう。
参考:河桁御河辺神社;本殿は三間社流造、慶長15年(1610)再建、境内に延慶4年(1311)在銘の石燈籠(重文)があり、少なくとも中世以降の歴史があるのであろうと推定される。

式内神崎郡川桁神社が平安期に廃絶したことは可能性として十分考えられるであろう。
もしそうだとするならば、当遺跡が三間社流造の本殿であったとして、式内川桁神社跡と云うことは多少は有り得るであろう。
(古代寺院が多く廃絶したように、式内社の多くも廃絶したと考えるのが自然であり、近世末から明治初頭の式内社探しは狂気であり、
その狂気は多くの神社の改竄を生んだものと思われる。)

参考:多くの三間社流造の社殿が現存するがが、当サイトに掲載の中から例示する。

近江苗村神社西本殿:国宝、鎌倉後期と推定、但し向拝は一間
紀伊野上八幡神社若宮:重文・弘治3年(1557)もしくは元亀3年(1572)
  ・・・野上八幡神社本殿:重文・弘治3年(1557)もしくは元亀3年(1572)もあるが写真不完全
紀伊広八幡宮本殿:重文、応永20年(1413)頃
甲斐大井俣窪八幡宮摂社若宮八幡本殿1:重文、応永7年(1400)あるいは15世紀後期か
陸奥弘前熊野権現本殿:重文、慶長18年(1613)、写真やや不完全
常陸筑波山中禅寺日吉社:重文、寛永10年(1633)、常陸筑波山中禅寺春日社:重文、寛永10年(1633)
山城椏本八幡宮社殿:重文、明応3年(1494)、但し向拝は一間とする、写真やや不完全
山城荒見神社本殿:重文、慶長9年(1604)、山城枇杷庄天満宮社:寛永2年(1627)、写真やや不完全、山城燈明寺御霊神社:重文、室町期
尼崎本興寺三光堂:桃山期、丹波與野神社本殿:慶長8年(1703)、大和薬師寺八幡宮本殿:重文、慶長8年(1603)
摂津平野熊野権現第ニ殿:重文、永正10年<1513>修造


2008/10/12作成:2008/10/12更新:ホームページ日本の塔婆