河 内 誉 田 八 幡 宮

河内誉田八幡宮

河内誉田八幡宮

☆西国三十三所名所圖會:巻之5:長野山誉田八幡宮(・・僧院15宇、・・)
「・・本地堂(護国寺と号す。・・)、観音堂、・・この余、薬師堂の跡、多宝塔の跡、大師堂の跡、護摩堂の跡、輪蔵の跡、・・・等あり。奥の院(宝蓮華院と号す。・・)、阿弥陀堂、・・」
 誉田山稜図  誉田八幡宮図:高良社横に「塔ノ跡」とある。
かっては多くの仏堂があり、多宝塔もあったようです。図では多宝塔跡などが描かれる。

☆2005/11/05追加:
社伝によると「欽明天皇の勅願によって御陵前に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請した」と云う。
あるいは「初めは応神天皇陵の後円部の頂上に社殿が建立されていたが、永承6年(1051)後冷泉天皇、現在地に社殿を造営、誉田八幡宮と称した。」と云う。
社伝は以上のように説明するが、誉田八幡宮の成立は何時頃であろうか。
「八幡神とは何か」飯沼賢司では以下のように考察する。
弘仁41年(823)宇佐八幡宮に「大帯姫(神功皇后)細殿」が第3殿として造営される。これは弘仁11年の「託宣」によるものとされる。
これによって宇佐宮は八幡神・比売大神との3神の祭祀となる。
この造営は、この頃緊張関係を増した対新羅対策として、八幡神を再び護国神としてよみがえらせ強化する朝廷の意思が強くあったものと思われる。
奈良期から平安初頭までは八幡神=太上天皇とする意識は見られるが、文献の上で、八幡神を応神天皇とするものは見当たらない。
ところが承和11年(844)の「弥勒寺縁起」では「・・大菩薩御神者、是品田天皇御霊也・・・」とあり、以降対新羅神としての神功皇后信仰の高揚とともに、八幡神=応神天皇霊との認識は流布していったものと考えられる。
「平安初頭、大菩薩として、・・修行の世界に入った八幡神は、国家神として復活はしたが、「軍神」としての・・力を喪失し、・・・・護国の神としての役割を果たすことはできない(なくなった)。(この頃対新羅の緊張の高まりの中で)対新羅神として登場したのが、・・神功皇后霊であり、この霊の登場によって、八幡神は応神天皇霊と認識され・・・再び軍神としての側面を復活させることができた・・・・」
※大帯姫(神功皇后)祭祀までは八幡=太上天皇霊の認識であったが、大帯姫信仰の高揚とともに、八幡神は胎中天皇である応神天皇であるという認識に変化していったものと思われる。

 要するに、欽明天皇の八幡神勧請云々は、多くの古寺で「行基開基」、「弘法大師開創云々」などとする類であろう。
八幡神=応神天皇霊の認識が流布した後、誉田山(延喜式で応神陵との認識があった)に八幡神が勧請されたと考えられる。
社殿で云う「永承6年(1051)後冷泉天皇云々」が時代的には違和感がない認識と思われる。
誉田山が応神天皇陵という認識があり、さらに八幡神が応神と結びついてはじめて、誉田と八幡は結びつくのであろう。

建久7年源頼朝、社殿、伽藍を修復。
戦国期の兵乱で、伽藍は焼亡・荒廃したと云われる。
豊臣秀吉、社領200石を寄進。天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失。
豊臣秀頼、社殿伽藍を再興。徳川幕府、社領200石を安堵。
神宮寺は長野山護国寺と号し、多くの堂宇、坊舎15坊などを有す。
明治の神仏分離で護国寺伽藍は棄却される。唯一南大門・石塔残欠などのみが神宮寺の遺構として現存す。
  旧護国寺南大門  石塔残欠

☆誉田山古墳
かっては誉田山墳丘上に六角宝堂(創建は不明)があり、墳丘上まで参詣が可能であった。
 誉田山測量図:「古代天皇陵をめぐる」藤田友治ほか、(末永雅雄「日本の古墳」より
この測量図には、円墳丘上に六角の遺構と参道跡(もう1本は不詳)が明瞭に見みて取れる。
「巨大古墳の世紀」森浩一、岩波新書黄164、1981 より
延久4年(1072)の石清水田中家文書に「大菩薩御舎利の処」とあり、この文書は長久5年(1044)の国符を引くという。要するに、少なくとも平安中期には誉田山古墳が「応神陵」と認識されていたようで、古墳の被葬者が特定個人と結び付けられ近世まで伝えられた稀有の例であった。
(勿論このことが、誉田山古墳が応神陵であるということにはならない。応神天皇そのものの実在を疑う学説もある。)
文久の改修以降、拝所は所謂「前方部」に文字どうり「取って付けられた」が、それ以前は所謂「後円部」(南)に参道があり、頂上に六角の宝殿(奥の院)があった。一般の人も参詣したが、文久の改修以降、この関係は断たれ、明治16年、宝殿も取除かれたと云う。
 誉田八幡宮放生橋1    同   放生橋2;鎌倉期とされる 。
 文久の修理以前はこの奥が拝所であり、かっては、墳丘の「御旅所」まで渡御があったと云う。
現状、墳丘の参道に続く石橋(放生橋)から奥はフェンスにより「立入禁止」になっている。
 (※宮内庁による、国民の財産の私物化であろう。)
なお「古墳」(森浩一、保育社、昭和45年)の「応神陵旧拝所」の掲載写真では、石橋手前にはフェンスは無く自由にもう少し奥まで立入が 可能であったと思われる。昭和45年頃と比べて、戦前への復古が一歩進んだ模様である。

 河内国誉田八幡根本社の図:天保9年:誉田八幡宮蔵と思われる。
この頃、多宝塔は失われていたと思われる。
 誉田八幡宮境内図: 幕末頃?:「社寺境内図資料集成」
この図によれば、南大門を入って右手に多宝塔、放生橋を渡り右手に三重塔が存在したようである。
そして、その他多くの堂宇が並んだ様が描かれる。
 


2006年以前作成:2007/03/06更新:ホームページ日本の塔婆