面と向かって言って欲しい言葉がある。
些細なことだからこそ、言って欲しいのだ。



   「紡げ言の葉」




「なー、名無し」
「何だ?」


とある昼下がり。
うららかな陽光は大地に満遍なく行き渡り、穏やかな風が草木を揺らしていた。

川の中ほどまで進んだ名無しは、本日の夕飯となるであろう魚に狙いを定めている。
頬杖をついた姿勢のまま、仔太郎は声を掛けた。


「ちょっとおいらの名前、呼んでみろよ」
「どうした、いきなり」
「いいから!」


片眉を上げ、振り返ればこそには頬を膨らませた子供が一人。
拗ねたような表情で名無しを見上げていた。


「何だ?腹でも減ったのか?」
「違う!名前を呼ぶくらい大したことないだろ?ちょっと呼んでみろって」
「いやに食い下がるな」
「名無しがおいらの言うこと聞かないからだ!」
「本当にどうしたんだ?らしくないぞ」


ここまで仔太郎がしつこく言い募るのは珍しい。
駄々をこねるような性質ではなかった。

ならば何か理由があるのだろうか。
名無しは構えていた木の棒を下ろすと、体ごと仔太郎の方へと向き直った。
黙って先を促す。
観念したのか、仔太郎は足元の草を毟りながら口を開いた。


「あれから結構経つけど、名無しはおいらのこと名前で呼ばないじゃないか。結局、おいらの目の前で名前呼んでくれてないだろ?だから…」


話しているうち、益々仔太郎の口はへの字になっていく。
仕舞いには語尾を濁して、飛丸の首へと抱きついた。
自分でも柄にもないことを口にしている自覚があるから恥ずかしいのだろう。
そんな仔太郎を前にどうしたらよいのか分からず、名無しは首に手を当てて天を仰いだ。

本当に名前を呼んで欲しかっただけだとは思わなかった。
それだけならすぐにでもしてやれることではある。
だがそれが難しい。

確かに大事なことだが、正直なところ照れ臭かった。


「大変なことを頼んでいるわけじゃないんだ。名前くらい、呼んでくれたっていいんじゃないのか?」


そんな名無しの心中などお構いなしに仔太郎は言い募った。
むくれた顔のままじとりと名無しを見つめている。
ここは腹を括るしかないようだ。


「…分かった」
「本当か?!」
「ああ。いいか、ちゃんと聞いているんだぞ」
「当たり前だろ!」


仔太郎の顔がぱっと輝いた。
ここまで喜ばれては後には引けない。
覚悟を決め、名無しは息を吸い込んだ。


「こ・・・・・・」


一文字目で名無しは詰まった。
注がれる仔太郎の視線が痛い。
たった一言だというのに、ここから先を口にしようとするだけでどうしようもなく恥ずかしくなってしまった。
紅潮する頬を押さえきれず、たまらなくなった名無しはくるりと後ろを向く。


「…また、今度な」


唖然とする仔太郎を振り返らず、名無しは再度川へと入っていった。


「なっ…引っ張っておいてこれか!?」
「それより夕飯の魚だ!」
「ちゃんと聞いてろって言ったの、名無しじゃないか!」
「だからまた今度だ!」
「またっていつだよ!」
「そ、そのうちだ!」
「本当だろうな!約束しろよ、約束!」
「しつこいぞ、お前!」
「言わない名無しが悪いんじゃないか!」


あまりの騒がしさに魚も逃げてしまったことだろう。
賑やかな二人のやり取りを聞きながら、飛丸は一つ欠伸をした。


(2008/05/10)


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