願わくは、ただ―



   『プサロー』



放課後、陽介は珍しく実習棟をうろうろしていた。
探しているのは勿論相棒である。

折角バイトのない曜日だというのに担任であるモロキンに捕まり、何故か延々説教をされた。
解放されたのは空が橙に染まった時刻。
部活をやっていた生徒達も徐々に帰宅し始めている。
今日ほど無益な放課後もないだろう。
あるのは疲労感だけである。
ふと出雲が吹奏楽部に顔を出すと言っていたことを思い出し、寄ってみることにした。


実習棟に人気はなく、がらんとしていた。
上履きが床を踏む音がやけに響く。


「ん?」


一階へ降りてきたところで陽介の耳にピアノの旋律が流れ込んできた。
優しく穏やかだが神々しい音色。
どこかで聞いたことはあるが、題名は知らない曲だった。
耳に馴染む心地よさに誘われるまま、音楽室の扉に手を掛ける。
そっと開いた扉の向こう、夕焼けに染め抜かれた室内に目的の人物はいた。

出雲はピアノの前に座っていた。
長い指が鍵盤の上を滑り、淀みなく旋律を紡ぎ出す。
部屋を覆う茜色に染まりながらも銀灰の髪と白い肌は沈むことなく、溶け合い、引き立てあっている。

その光景に、陽介は暫し見入った。


「花村?」
「んあ!?」


顔を上げた出雲が突っ立ったままの陽介に気付き、声をかける。
逆光でその表情は判然としない。
うっかり見惚れていた陽介は大いに慌てたが、気まずそうにしながらも音楽室に入っていった。


「あー、お前吹奏楽部だもんな。あんまり上手いからびっくりしたわ」
「吹奏楽にピアノのパートはないぞ。俺トランペットだし」
「へ?そうなの?」


照れ隠しに笑えば「花村らしいな」と返された。
夕日を映して銀鋼色の瞳が弧を描く。
妙にどぎまぎする胸を静めようと、陽介は言葉を探した。


「まだ部活?にしちゃあ人いねーけど」
「公演の打ち合わせに出た後輩の子を待ってた。戻れないかも知れないと言ってたけど、いつも自主練してるから付き合おうかと思って。花村こそ珍しいな」
「俺は説教。なんか知んねーけどモロキンに捕まった」
「それはご愁傷様」
「もーマジ勘弁してくれっつの」


うんざり顔の陽介は、ピアノ椅子の端に腰掛けた。
足元に鞄を置いて、出雲の手元を覗き込む。


「つーかお前ってピアノまで弾けんのな。マジで多芸過ぎ」
「子供の頃に習ってただけだよ。今はやってないし、今日は気紛れ」


目を伏せ薄く笑いながら、指先で撫でるように鍵盤を叩いた。
軽い調子で先程まで弾いていた曲の続きを奏でる。
ピアノの前に座る姿はなかなか堂に入っていた。
視線が引き寄せられる。
つくづく何でも出来る男だと、嫉妬とも憧憬ともつかない感情が頭を過った。

羨ましい、と思うことが度々ある。
僻みではなく賛辞として、こいつには敵わないと陽介は思っていた。
千枝は天然の魅力と評していたが、物静かなのにどこか人を引き寄せる魅力を持ったこの男を相棒と呼べるのはとても誇らしく、同時に不安になるのだ。
自分には肩を並べるに足るものがあるのか、と。


(って、こんなこと考えてる時点で負けか)


自身の心の闇と向き合い、以前よりも成長したというのにどうしても迷いは生まれる。
だが今この胸中にあるのは、影とは違うもっともやもやとしたものだった。
これとも向き合わねばならないのか。
それはまだ先でもいいだろうと、勝手に結論付ける。
だというのに


「綺麗、だな」


零れ落ちた言葉は純粋な感想。
はっとして口に手を当てるが取り消せるはずもない。
どうしようどうしようと廻る思考は慌てるばかりで。
嫌な汗が背を流れた。


「あ、いや。そのー、だな」
「綺麗だよな。俺もこの曲好きなんだ」
「へ?ああ、うん」


本当はパイプオルガンの方が合うんだけど、と微笑まれ、つられて笑い返す。
しどろもどろに言い訳を探しているというのに、当の親友殿は違う受け取り方をしてくれたようだ。
助かったような、肩透かしを喰らったような気分だった。


「お前って普段クラシックばっか聞いてんの?」
「男は黙ってジャーマンメタル」
「いかつっ!いかつ過ぎんだろ、それは!」


ノリのいい陽介の切り返しに、出雲も声を上げて笑った。
背を預けられる仲間だからこそ、他愛のない時間が酷く愛おしい。
逢魔が刻はゆったりと過ぎてゆく。


不意に流れる間延びしたメロディーと閉門を告げる校内放送。
時計を見れば六時を回るところだった。


「校門閉まるな。そろそろ帰るか」


部活で残っていたとはいえ、見回りの先生に見つかるのも面倒だろう。
特にモロキンに説教を喰らったばかりの陽介は。

そう思って鍵盤の蓋を閉じようとした手は、陽介によって阻止された。
揃って蓋に手を掛けている図というのも間抜けだ。
ポールが残光を弾いて光った。


「あと一曲!なんか弾いてくれよ。な?」
「いいけど、見回りでモロキンでも来たら厄介じゃないか?」
「確かにそれは困るな…」


でももう少しだけ聴いていたい。
クラシックなんてさっぱり分からないけれど、今はただもう少しだけ聴いていたかった。
頼むよ、と片目を瞑ってお願いする。
出雲は両目を瞬いた。

正直なところ、出雲は自分のピアノの腕をあまり評価していない。
指が長いこともあり譜面どおりには弾けるが、音楽という点では何か足りないと思っていた。
器用貧乏なタイプなのだ。

それゆえ、あまりクラシックには興味のなさそうな陽介に喜んでもらえるのは嬉しかった。
演奏の腕云々ではなく気に入ってくれたのだろうと素直に思える。
自然、口許が綻んだ。


「じゃあリクエストにお答えしてラスト一曲。何がいい?」
「俺、ピアノの曲とか分かんねーよ。お前の好きなのでいいぜ」
「分かった」


一つ息を吸ってから、指を滑らせる。
聴いてもらうなら自分の一番を。
哀愁を感じさせる曲調は陽介には似つかわしくないけれど、知っている曲の中でも自信を持って弾ける曲にした。

技巧ではなく聴いてくれる相手への感謝を籠めて奏でる。
陽介は大人しく聴き入っていた。


「なんかお前っぽいな」
「そうか?」
「うん。なんとなく」


やっぱり曲名なんて分からなくて、気の利いた感想も出てこない。
感じたままを口にすれば、出雲が小さく微笑んだ。
また、どきりとする。

心中は曖昧なまま。
また胸に去来するもやもやは決して不快なものではなく。
宵闇迫るこの空間が続けばいいと、最後の白鍵から離れる指を名残惜しく見つめていた。


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一曲目は「主よ、人の望みの喜びよ」、二曲目は「ベートーベンピアノソナタ第14番第1楽章」のつもりで書きました。
音楽関係からっきしなので、間違いが多々あるかも知れませんがご容赦を。
こそっとご指摘いただけると助かります。


(2008/09/03)


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