あの山に近付いてはいけないよ
怪物に喰われてしまうからね




   『異類恋情譚』




山間の村の小さな家に二人の兄妹が住んでいた。
兄の名はフィール。妹の名はドロシー。
両親は既に他界しており、隣家の夫婦の世話になりながらも二人きりで慎ましく暮らしていた。


「お兄ちゃん、やっぱり危ないわ。あの山に行かなくても裏山でお仕事すればいいじゃない」
「裏山でばかり木を伐っていたら仕事にならないだろう?」
「でも…」
「それにあの山に怪物がいるなんていうのは迷信だよ。険しい山だけど行ってみようと思うんだ」


日頃は妹のお願いなら大抵聞いてくれる兄だったが、今回ばかりは聞いてくれそうになかった。
兄が生活のために敢えて“あの山”に行こうとしているのは分かっている。
それでもドロシーは大好きな兄に危険な目に遭って欲しくなかった。


「そんな顔しないで、ドロシー。すぐに帰ってくるから」
「本当?」
「ああ。仕事が終わったらすぐ帰ってくるよ。それまでおばさんたちのところで待っていて」
「きっとよ。すぐに帰ってきてね」


フィールはしゃがんで妹の頭を撫でてやる。
泣きそうなのを我慢しているのか、ドロシーの腕の中で飼い猫のトトが苦しそうに鳴き声を上げた。



翌早朝、フィールは裏山よりも北の果てにある山へ向けて出発した。
村の外れまで見送りに来たドロシーがいつまでも手を振っているのに後ろ髪引かれながらも山道を進んでいく。

良い木材を見つけられればそれだけ自分たちの暮らしが楽になる。
村人たちは皆優しくしてくれるので、生活には困らないがそれに甘えてばかりもいられない。
唯一の肉親であるドロシーを守らねばという気負いがフィールを仕事にのめり込ませていた。



どれくらい歩いただろうか。
日も暮れかかる頃、フィールは漸く北の果ての山に辿り着いた。


「うわ…近くで見ると本当に高いんだな…」


怪物が出るとの噂を信じてしまいたくなるほど、その山は不気味な雰囲気を漂わせている。
木は鬱蒼と生い茂っているのに、生き物の気配がまるでなかった。 だがここまで来て引き返すわけにはいかない。
村ではドロシーが待っているのだ。

今夜はこのまま麓で野宿をし、明日から仕事に取り掛かることにしよう。
早速野営の準備を始めたフィールだったが、突如巻き起こった風に吹き飛ばされそうになった。
冬も近いこの季節に吹く風にしては奇妙な風である。
辺りが真っ暗になった。
目を開けているのかさえ、分からなくなる。


「あぁ?何だ、お前」


闇の中、一つだけ鋭い光を放つものがあった。
フィールはその光に、目を奪われた。











「ここは…」


ぼんやりと開いた目に、先程の光は見えなかった。
未だ霞む視界の中、自分のいる部屋の輪郭が次第に明らかになってゆく。

そこは廃屋のような、薄暗い部屋だった。
寝かされていたベッドもぼろぼろで、使っている形跡がない。
埃くさいそれから身を起こすと、フィールはのろのろと歩き出した。

大きなドアを押し開け、部屋の外の様子を伺う。
凍えるほどに冷え切った廊下からは何の音もしなかった。
どこからか差し込む月明かりだけを頼りに、壁伝いに廊下を歩くも人の気配は感じられない。
それでもどこか確信めいた直感がして、ひたすら長い廊下を進んでいった。


指先が冷たくなった頃、ようやく一つの扉に辿り着いた。
僅かに開かれたそこに手を掛け、押し開く。


「何だ、生きてやがったのか」


サンルームと思しきそこにいたのは、麓で出会った例の光の持ち主であった。
灯りのない部屋の中央、お世辞にも綺麗とは言えない大きなソファに寝転がっている。
起き上がった黒い影はゆったりとした歩調でフィールに近付いて来た。
金の髪が鈍く月光を弾き、淡く輝いている。


「あなたは…」
「何だっていいだろ?」


見上げるほどに大きなその人物はつまらなそうに返した。
視線を落とせば右胸には深く走る傷跡が赤く浮かび上がっており、その存在感に気圧され思わず後ずさる。

男は金属とも違う硬質な何かで覆われた左腕を伸ばし、フィールの顎を掴んで上向かせた。


「おまえ、この山に来るなんて死にてぇのか?」
「僕はただ木材を取りに来ただけだ」
「その度胸は買ってやる。が、知らねぇわけじゃねぇだろ?」




この山に住まう怪物の話を




「じゃあ、あなたは…」


怪物は片頬を歪めて笑った。
獰猛な笑みに、フィールの背筋を戦慄が走る。


「分かったならとっとと帰るんだな」
「そ、それはできないよ」


手のひらをきつく握り、負けじと睨み返した。
そうだ。このまま帰るわけにはいかないのだ。
ドロシーが待っている。手ぶらで帰ることなど出来ない。


「強情なヤツ。ま、好きにしろよ。俺には関係ねぇこった」


怪物は手を離すと、ソファに戻ってまた眠ってしまった。














翌朝、フィールは目を覚ますと山の木々を調べ始めた。
あの男は好きにしろと言ったのだ。出て行く義理もない。
だが流石にこのまま勝手に部屋を使わせてもらうのは申し訳ないと一言断ろうとしたが、屋敷のどこを探してもあの男はいなかった。
仕方なく黙って屋敷を出て、下調べを開始する。


「なかなか丈夫そうな樹があるな。これで村の人も喜んでくれる」


少しは暮らしも楽になるだろう。
村で待つドロシーの笑顔が脳裏に浮かんだ。


「こんな樹のためにわざわざ来たってのか?物好きなボウズだな」


音もなく男が降り立った。
その姿は神々しくさえあるのに、言動は酷く粗暴だ。
物好きと言われ、生活のかかっているフィールはむっとする。


「『俺には関係ない』んじゃなかったんですか?」
「俺も物好きなんだよ」


男は悪びれることなく答えた。
子供っぽいその言い方が可笑しくて思わず笑みを零せば、今度は男がむっとする。


「ったく、怖いモノ知らずなボウズだな」
「あなたは悪い人じゃない。だから怖くないよ」
「怖くない、ねぇ…」


途端に男は肉食獣の顔になり、フィールの喉元に左手を掛けた。
鋭い鉤爪は柔肌を薄く裂き、一筋の赤を滴らせる。


「ボウズ、ちったぁ警戒心ってモンを持った方がいいぜ?」


昨夜見せたものより酷薄な笑みは、より惨忍な印象を与える。


怖い、恐い、こわい
それだというのに


「こわくないよ」


フィールの瞳には、一点の曇りもなかった。
男は苦々しげに顔を歪めると、そのまま立ち去ってしまう。
後に残されたフィールは鋼色の瞳を不安げに揺らし、張り詰めた空気を掻き消すように細く息を吐き出した。


「こわくない、かぁ…どうしてあんなことを言ってしまったのだろう…」


誰に問うでもなく呟く。


「本当は…こわいのに…」


あの人は自分に危害を加えたりしないだろう。
何故かそんな気がする。
それでもあの男は恐かった。

金の瞳に見据えられただけで体が竦む。
言葉を返すだけで咽喉が震えて声が掠れそうになる。
男が言うとおり彼が怪物であったとしても、これほど恐いと思わないであろう。

自分はあの男だから恐いのだ。
彼を恐いと思う自分が恐いのだ。
どうして恐いのか分からないことが恐いのだ。


「あの人には、恐いものなんてないんだろうな」


意思の強い眼。強靭な爪。
恐いのに一緒にいたい。

あの男に特別な感情を抱いていることに、フィールはまだ気付いていなかった。











フィールがこの山にやってきて一週間ほどが経った。
その間、男はフィールに特に係わることもなく、顔を合わせたときに言葉を交わす程度であった。

木材として持ち帰れそうな樹の選別も終了し、伐採も粗方終了したフィールはどこか浮かない顔をしていた。
仕事は終わったのだ。すぐにでも妹の待っている村に帰るべきである。
だが、フィールはここから立ち去り難かった。

あの男は出て行けなどと言わないだろう。
けれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。
自分はここの人間ではないのだ。
村での生活が自分にはある。
ドロシーも待っているし、村の人々も心配しているかも知れない。
それでもここにいたいと思ってしまう自分の我が儘さを、フィールは許せなかった。

一人悶々と悩んでいたフィールの元に、男がやってきたのは出会った日と同じ月の明るい夜のことだった。


「ボウズ」


そのときの、男の瞳が悲しげに見えたのは月明かりの所為だろうか。
自信に満ちた瞳の翳りに、フィールの胸中を不安が過る。
男は視線を合わせぬまま言葉を紡いだ。


「おまえ…いつまでここにいる気なんだ?」
「え…」


遂にこのときが来てしまったのだと、フィールは悟った。
いつまでもいられないと分かっていながら、それでもここにいたかった。
だがそんなのは自分の独りよがりでしかなくて。


「おまえさ、やっぱ警戒心が欠けてんじゃねぇの?」


言葉の意味が分からず目を瞬くフィールに、男は殊更感情を消した声音で言った。


「俺はいつだっておまえを殺せる。おまえが樹を伐るのより簡単にな」


無機質に見据える金の瞳は、左腕の爪より冷たく光る。
そこには越えられない壁があった。
自分達は程遠い存在なのだと思い知らされる。

それでも。
この、二人で過ごした奇妙な一週間。
彼がどうであれ、自分はとても幸せだったから。


「いいんだ」


例え相容れない存在であるとしても。
ここにいたいと思った気持ちは嘘じゃない。

こんな気持ちは初めてだった。
風のない湖面のように静かで、澄み渡っている。


「あなたになら…殺されてもいいって、思ったよ」


フィールは穏やかな顔で微笑んだ。


「な…」


そのときの男の表情を何と形容しよう。
愕然とした顔は男には不似合いで、できればいつものように人を食ったような顔でいて欲しいと思い、フィールは鉤爪にそっと触れた。

もし村の噂どおり怪物が人を食べるのだとしたら、自分はこの男に食われるのだろうか。
そうしたらずっと一緒にいられるなどと、狂気じみた考えが浮かぶ。


「あなた、怪物なんでしょ?だったら僕を食べればいい。そのくらいしか泊めてもらった恩返しはできないけど」


男は表情を消したまま、フィールを見つめていた。


「そうか」


右腕に僅かに力を込めると、フィールの鳩尾に叩き込む。


「な、んで…」


意識が途切れる寸前に見た顔は、今にも泣き出しそうなものだった。


「何で…そんなこと言うんだよ、ボウズ…」


気を失ったフィールの頬を撫で、苦悶の表情で呟く。
そのままそっと抱き締めた。


この一週間、男はとても幸せだった。
今まで一人が辛いと思ったことはないけれど、この少年がいる日々はそれまでの気が遠くなるような長すぎる歳月のどのときよりも充実していた。
このまま続けばいいと、そう思った。

だが、手に入れた幸福は酷く儚いもので。二人の時間は長くは続かない。
きっと、引き留めたなら彼はここにいてくれただろう。
この山に閉じ込めたまま、二人きりで暮らす日々。
それは蠱惑的な魅力を持った選択だったが、そんなことはしたくなかった。

この少年には帰るべき場所があるのだ。待っている人がいるのだ。
自分のエゴでここに留めておくわけにはいかない。


「ボウズの名前、聞いときゃよかったな…」


惹かれた強く真っ直ぐな瞳に口付けを一つ、落とした。













「…ぃちゃん…お兄ちゃん…」
「ドロシー…?」
「お兄ちゃん?!気が付いたのね!!よかったぁ…」


フィールが目を覚ますと、そこには涙を浮かべたドロシーの顔があった。
ドロシーは堪え切れなくなったのか泣きながらフィールに抱きついた。


「ぼくは…どうして…」
「村の入り口のところに倒れてたのよ。全然帰ってこないんだもの…すごく、すっごく心配したんだから…!」
「倒れてた…?」


ではあの人が運んできたのだろうか。
あの人はどこに行ってしまったのだろうか。


「お兄ちゃん?!」


フィールは起き上がると、ブーツを履くのももどかしげに家を飛び出した。












悲鳴を上げる心臓にも構わず、フィールはあの屋敷を目指して走った。
低木で腕を擦り、落ち葉に何度か足を取られながらも懸命に走り続けた。

月が天上を過ぎた頃、漸く屋敷に辿り着いた。
真っ先にサンルームに飛び込む。
だがそこに目的の人物はいなかった。

そのまま屋敷中の部屋を見て回る。
自分の荒い呼気以外は、何も聞こえない。


「どうして…どうしていないんだ…」


どこにもあの男はいなかった。
悄然としてサンルームに戻り、あの男が寝ていたソファに腰掛ける。
暗い室内で、ローテーブルの上に置かれた何かがきらりと光った。


「これ…」


そこにあったのは、あの男が身に着けていたペンダントだった。
部屋と同様冷え切ったそれを手に取り、そっと撫でる。


「名前も呼べないなんて…悲しすぎるよ…」


熱い雫が一つ、ペンダントを濡らした。



(2006/12/3)

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