咽喉がひりつく。肌がざわつく。
幸村は誰にも告げず野営の陣をそっと後にした。




     『ウオボロス』




夜の静寂が耳に痛い。
目を瞑っているのすら煩わしくて、乱暴に上着を羽織って起き上がった。
そのまま誘われるように歩き出す。

昼間の熱がまだ燻っているようだ。
身を刺すような風すら生温く感じた。
熱は冷める気配を見せず、己の内側を焼き尽くすかの如く駆け巡っている。
もっと、頭の芯まで凍り付くような静寂が欲しい。
微かに聞こえる水音を頼りに歩を進めた。

林を抜け、開けた場所に出る。
月明かりに照らされた川は静かに、だが止めどなく流れていた。
血潮を髣髴とさせる暗い流れの奏でる音が、幸村に安堵を与える。
引き寄せられるように川へ入ろうとした刹那、


「水遊びにゃちぃと早えんじゃねぇのか?真田幸村ァ」
「…伊達政宗」


折角熱を追い遣れると思ったというのに。
よりによってこの人物と鉢合わせてしまうとは。

この埋め火の根源。奥州筆頭・伊達政宗。
倒したいと求めて止まない男。
幾度刃を交えても飽き足りない好敵手。

軽く睨みつけてみたが効果があるはずもなく。
数歩離れた場所に腰を下ろしていた政宗は、立ち上がると幸村の隣に並んだ。
腹の奥底の焔が、ちりりと燃え盛った気がした。


「貴様が何故斯様なところに?」
「夕涼み、なんてな」


大した理由はねぇよ、と返す政宗の表情は日中のような狂気染みた激しさはないものの、幸村を見遣る眼光の強さだけは相変わらずで、興奮が背筋をぞろりと撫で上げる感覚に身震いがする。
酷く咽喉が乾いた。
静か過ぎる夜の闇が現実感を薄れさせていく。
まさに今日、命の遣り取りをした相手と二人きりで話しているという奇妙な状況もまた余計にこのときが紛い物であるかのような感覚を呼び起こしたのかも知れない。


「大将ともあろう者が随分と無防備だな」
「Ha!俺の首を獲れるヤツなんざ、いやしねぇよ」
「俺が貰い受けると言っただろう?」
「へぇ…言うじゃねぇか」


挑発的な幸村の発言に、政宗は楽しそうに声を上げて笑った。
その余裕のある態度が癇に障る。
こちらは昼間の戦闘の所為で悶々とした思いを抱えているというのに、原因たる政宗の態度は忘れてしまったかのように飄々としたものだった。

あのときの興奮を引き摺っているのは自分だけなのか。
知れず幸村は唇を噛み締めた。


「…失礼する」
「あぁ、さっさと帰った方がいいぜ。でないと」


竜に喰われちまうからな


瞳の奥底が暗く、粘質的な光を湛えて幸村を見据えていた。
昼間対峙したとき以上にねっとりと絡みつくその視線がいっそ心地よく、知らず口角が上がっている。


「武田の虎はそう簡単には喰えん」
「なら試してみっか?」


六爪を操る指が自分へと伸ばされるのを、幸村は酷く興奮した心持ちで待ち受けた。






川音に紛れて湿った吐息が聞こえる。
密やかに、だが熱く激しく二人の獣が交わりあっていた。
幸村の腰の上に跨った政宗は、胸元に舌を這わせ、腰紐を手早く解いている。
湿った草叢を背に、己の肌を這い回る政宗の手の感触を味わいながら、幸村は政宗の表情を伺っていた。

これほどゆっくりと独眼竜の顔を見たのは初めてであろう。
伸びた前髪で遮られているが、端整な眉目が夜目にもはっきりと見て取れた。
その切れ長の眸が自分だけに向けられていると思うと、戦場で刃を交えたときとはまた一味違った興奮が胸中を駆け巡る。


「随分と性急だな、独眼竜」
「トロくせぇのは嫌ぇなんだよ」
「っ…はっ…」


肩口に歯を立てられ、思わず息を漏らした。
歪に唇を吊り上げて笑う男の顔は月で逆光になり、その胸中を容易に測らせない。
これほど近くにいるというのに、酷く遠くにその存在を感じた。

日中、斬り合った折は立場こそ違えど近い人種なのだと思った。
戦場に己を見据える姿が、先を求める姿が、似ていると思ったのだ。

だが実際はどうだろう。
この男の心は水を握り締めるようで、形が定まらず捉えられない。
捉えたと思った刹那、すり抜けてゆく。

追いかけても追いつけない。
ゆえに倒して追い越したいと、そう思ったのだろうか。

幸村の手が政宗の下肢に伸びる。
布地を押し上げる部位を握り、上下に動かした。
政宗の唇からも熱っぽい吐息が零れる。


「マグロはやめにしたのか?」
「なすがままというのは性に合わん」
「Ha!よく言った」


せいぜい楽しませてくれよ、と指を袴の中へ潜り込ませた。
図らずも互いに合わせるように手を動かす。
好敵手の前で自分を慰めているような倒錯的な快楽に、身も心も溺れていった。

奇妙な同調は更なる熱を生み、呼吸さえも同調させる。
ぶつけた視線はそのままに、舌と舌とを絡め合う。
つくづく奇妙だ。
そうどこかで理性が囁くが、この昂りの前では無役だった。
日中の死合い以上の貪欲さで互いを求め合う。


「くっ…はぁっ…」
「っ…ん…」


欲望が白く弾ける感覚を味わいながら、二人はもう一度だけ口付けた。






幸村が手早く着衣の乱れを直しているのを、政宗は紫煙を燻らせながら見つめていた。
口元には相変わらず歪な笑みを浮かべている。
それを見ないようにしているにも係わらず、袴の紐を締める手が少々もたついた。

熱は胸を焦がさんとばかりに今もちりちりと蜷を巻いている。
この感覚が煩わしくもあり、心地よくもある。


着替えを終え、幸村は無言のまま立ち去ろうとした。
そんな幸村の背に、政宗が気だるく声を掛ける。


「なぁ、アンタだって足りねぇんだろ?」


確信めいた質問の言葉に、幸村は睨み返すこともできずに立ち去った。
政宗は吸い口に歯を立て小さく笑った。



闇の中から竜が喉奥で笑う声が聞こえてくるようだ。
夢中で走って漸く野営地近くまで戻ってくる。
乱れた呼気と頬の熱さが先程の行為を思い返させ、幸村はその場にへたり込んだ。

出会ってしまったからには引き返せない。
近くにいても遠くにいても、あの男は己が内に巣食っているのだ。
この存在を追い出せるのか、住まわせたままでいられるのか、それはまだ分からない。
ただ


「ああ、足りぬな」


斬り合おうと抱き合おうと。
いくら互いを求めても足りはしないのだ。

結び目の緩んでいた後ろ髪を縛り直し、幸村は立ち上がった。
真っ直ぐ前を見据える瞳には今まで以上の活気が満ち満ちている。

足りぬなら、満足がいくまで求め続ければいいのだ。
お館さまがご上洛する上で障害となるであろうあの男とは再び戦場にて対峙することとなる。
機会はいくらでもあるのだ。


「奥州独眼竜…この真田源次郎幸村が、喰らう」


我が身を食むような歯痒さを乗り越えて。
越えるでもなく倒すでもなく、己という存在を刻み付けてみせよう。

辺りを白く染め抜き始めた日の光の中、幸村は己が心に誓いを立てるのだった。



(2007/06/06)

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