『水難童難』



「海水浴…ですか?」


その言葉に小十郎は片頬を引き攣らせた。
梵天丸はそんな傅役の変化に気付かぬのか、小十郎の隣に控える時宗丸に視線を遣りつつ先を続ける。


「先程時宗と読んでいた書物に海のことが書いてあってな、行ってみたくなったのだ」
「ですが輝宗様からお許しがいただけるか」
「父上にはもう了承を得ておる。鍛錬にもなるしな。…本当は竺丸も連れて行ってやりたいが…母上がお許しにはならんだろうから…」
「梵天丸様…」


自分を厭う母に溺愛されている弟の竺丸への気遣いを忘れない梵天丸の優しさに、小十郎は言葉を詰まらせた。
泣きそうなのを堪える小十郎の形相に、時宗丸はぎょっとして後ずさる。
正直なところ怖かった。


「我らだけで行くのは心苦しいが、土産に貝を採ってきてやりたいのだ」


そんなことを言われて「駄目です」と言える筈もない。
三人は数名の供を連れて海水浴に出かけた。





「うっわーすっげー!!!見て見て梵天丸さま!でっけー!!!」
「これ時宗、はしゃぐな」
「お二人ともいきなり入っては危のうござるぞ!」


海を見るなり着物を脱ぎ捨て入ろうとする幼子二人を、小十郎は必死で追いかけた。
時宗丸にはしゃぐなと嗜めた梵天丸も顔には出さないがすっかりはしゃいでいる。
主の楽しそうな様子に小十郎は目を細めたが、駆け出した勢いのままに海に入ろうとする二人を寸でのところで捕まえ、準備運動をさせた。

体の筋を伸ばし、手足を数回回すと二人は勢いよく海に飛び込む。
脱ぎ捨てられた着物を畳み終えた小十郎も着物の裾を帯に挟んで海へと入った。


「どうした小十郎、泳がないのか?」
「私はこれで十分です」


膝下まで波が打ち寄せるところで止まった小十郎に、梵天丸は怪訝そうな顔をする。
激しい水飛沫を上げて泳いでいた時宗丸も動きを止めて首を傾げていた。


「ねぇ、梵天丸さま。小十郎さんてさ…」


小十郎の不審な態度を横目に、時宗丸が梵天丸に耳打ちする。


「ああ。俺もそう思っていた。だから…」
「なーるほど。さすが梵天丸さま!」
「声が大きいぞ、時宗」


子供らの内緒話は耳に届いていないのか、小十郎は遠くを見つめていた。
正確には梵天丸たちが泳いでいるところの少し先、岩場の下辺りを。


(クソッ。これだから海には来たくなかったんだ!)


忌々しげに舌打ちし、険しい目つきを更に険しくしたそのとき。


「うわぁ、大変だぁ。梵天丸さまが溺れてるぞぉ」


酷く棒読みな時宗丸の声が耳を打った。
小十郎が視線を戻すと、梵天丸が水飛沫を上げてもがいている姿が目に飛び込んでくる。
頭は海面に沈んでおり、小さな手も波に飲み込まれ、時折見え隠れするばかりだ。


「梵天丸様!!!」


草履を脱ぎ捨てると、小十郎は海に飛び込んだ。
泳ぐ、というより走るように波を掻き分け梵天丸の許へ辿り着く。
両脇に手を差し入れ引き上げれば、主は涼しい顔をしていた。


「なんだ小十郎。泳げるじゃないか」
「小十郎さん早っえー」
「梵天丸様…まさか…」


小十郎に抱え上げられたまま梵天丸は言う。


「すまない、小十郎。お前が海に入りたがらないからてっきり泳げないのかと…」
「それで溺れたふりをした、と?」
「小十郎さん、ごめんなさい」


怒気を漲らせた小十郎に、梵天丸は神妙な顔つきで謝った。
時宗丸もしょんぼりとしてしまっている。
小十郎は一つ嘆息すると怒気を静めた。


「もし小十郎が泳げなかったらどうするおつもりだったのです?貴方は伊達の当主となられるお方なのですぞ。悪戯のつもりが本当に溺れてお命でも落とされたら…」
「それでもお前が助けるだろう?」


妙に自信に満ちた梵天丸の言葉に、小十郎は絶句する。
これほど絶対的な信頼を寄せられて、心揺さぶられない家臣がいようか。
だがそれはそれだ。ここは厳しく嗜めねばならぬと心を鬼にしようとした矢先、「それにな」と梵天丸が言葉を続けた。


「苦手なものをなくせと言ったのはお前ではないか。だから泳げぬのなら泳げるようにさせようと思ってだな、芝居を打ったのだ」
「その芝居で小十郎は肝が冷えましたぞ」
「でもさ、小十郎さんも泳げんなら一緒に泳ごうよ!梵天丸さまとあっちの岩場まで競争するんだ」


時宗丸が指した岩場に目を遣ろうとした小十郎の顔がまたも強ばる。
珍しい傅役の表情に梵天丸は首を傾げたが、その疑問を口にする前に小十郎の体は反転し、砂浜を目指していた。


「あ、小十郎さん!もうちょっと泳ごうよ!」
「駄目です。もう上がりますよ」
「まだよいではないか」
「悪戯した罰です」
「え〜、けちぃ」


時宗丸が口を尖らせるが効果はない。
梵天丸を抱きかかえたまま、小十郎はさっさと海から上がってしまった。





夜、宿から海を眺めていた梵天丸は、控えていた小十郎を振り返って言った。


「小十郎、知っているか?おなごの腹には海があって、皆そこから生まれてくるのだそうだ」
「海、でございますか?」
「ああ、海だ。だからお前も海を嫌ってやるな。此度泳いで思ったが、海は恐ろしいがとても優しいところだ。だから嫌ってやるな」
「梵天丸様…」


海よりも深い色の主の瞳を見つめ返す。
梵天丸は薄く笑ってまた海へと視線を戻した。


「まぁ、お前は川も苦手なようだがな。嫌いなものや苦手なものを好きになれとは言わないが、そういうものはない方がよいだろう?」


無理強いする気はないがな、と梵天丸は付け足す。


このお方には敵わない。
小十郎はそれを嬉しく思った。



(2007/8/30)



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