血に噎せ返る闇の白が、右の眼玉を絡め獲る



     『桜鬼』



片倉小十郎は羽織を片手に廊下を急ぎ足で歩いていた。
入り組んだ板の上を数度折れ曲がり、城外れの小さな庭へと出る。
視線を巡らせれば、咲き誇った桜の樹の下に小さな背が一つ。
思ったとおり、目的の人物はここに居た。


「梵天丸様」


声をかけると首を少し巡らせて、小十郎を仰ぎ見る。
表情は硬いままだった。


「春とはいえ、夜は寒うございましょう」


そう言って持ってきた羽織を肩にかけてやる。
無言で見上げてくる梵天丸に小さく笑みを見せ、小十郎は頭上を覆い尽くす白い天蓋を仰ぎ見た。


「夜桜、でございますか?」
「…春は苦手だ」
「まだ苦手でらっしゃるか」
「そう簡単に慣れるものでもないらしいな」


そう返した梵天丸の左の眸は夜空より澄んでおり、右の眸は眼球の殆どが飛び出していた。
4つのときに患った疱瘡の残禍である。
高熱と膿疱によって潰れたそれは醜く濁り、何も映さない。
小さな指を伸ばし、触れる前に引っ込めた。


「春は…腐臭がする」


その言葉に小十郎は胸を衝かれ、幼い主を振り返る。
梵天丸は静かに桜を見つめていた。





梵天丸の父・輝宗に徒小姓として仕えていた小十郎が、梵天丸の近侍として仕えるようになったのは18になった年からであるが、二人が出会ったのはもう少し前のことである。
小十郎が初めて梵天丸と言葉を交わしたのは、暖かい春の日のことであった。

その日小十郎が雑務を片付けていたところ、城の一角が俄かに騒然とした。
やってきた小姓仲間に何事かと尋ねてみれば、病で臥せっていた若君の姿が見えないとのことだった。
城中総出で探しているらしい。
「若様が自身のお姿をご覧になる前に見つけ出せ」と厳命され、小十郎も捜索に加わることとなった。

いくら城が広いといっても病み上がりの、しかも子供の足ではそう遠くへは行けないだろう。
そう踏んで家中の皆々は部屋の近くで梵天丸が隠れられそうな場所を徹底的に探していた。
ならば自分は遠くの方を。
そう思ったのは予感だったのか。
小十郎は人気のない城の外れへと向かって行った。


城の外れに作られた小さな池のある中庭で、穏やかな風に桜の白い花弁が踊っている。
花びらは弧を描いてひとつ、ふたつと池に沈んでいった。
薄緑の水面に六花の如く降り積もってゆく。
まばらな白に覆われた池の傍に小さな人影があった。
城中が血眼になって探している梵天丸、その人である。

久しぶりに見る若君の姿に、小十郎は思わず息を呑んだ。
その姿は病後の所為か随分と細く小さく、頼りなかった。
今までここまで近くで姿を見たことがなかったとはいえ、以前はこれほど危げな気配を漂わせてはいなかったように思われる。
伊達の若君である梵天丸の姿は幾度か見たことがあるが、母親譲りの勝気で利発そうな容貌をしていたというのに。


「梵天丸さ…」


駆け寄ろうとした小十郎は、梵天丸の徒ならぬ様子に思わず足を止めた。
梵天丸はしゃがみ込み、一心不乱に水面を覗き込んでいる。
細い肩がぶるぶると震えていた。
意を決し、そっと近づく。


「…梵天丸様、お探し申し上げておりました。暖かいとはいえ風に当たりすぎるのはお体によくありません。部屋に戻りましょう」


優しく声をかけるが梵天丸は振り向きもしなかった。
小十郎の言葉など耳に入っていないようである。


「あ、ああ…あああっ…」


気でも触れたのかと思いたくなるような声を漏らし、顔に手を伸ばし掻き毟りだした。
慌てて両腕を封じるが、子供とは思えないような力で抗う。


「梵天丸様!お止め下さい!!!」
「ぅああっ!!!あああああっ!!!」
「なりません!梵天丸様!!」


渾身の力で抱き締め、爪が顔を傷付けないように小さな手を握り込んだ。
自然顔と顔が近付く。
梵天丸はびくりと体を竦ませ、より一層暴れ出した。


「嫌だ!見るな!見るなぁあああああっ!!!」
「梵天丸様!」


ああ、自分は間に合わなかったのだと、小十郎は悟った。
母に似た白い肌にはかさついた膿疱の痕が生々しく爪痕を残していた。
顔立ちの整っている分、凄惨さが際立つ。

そして。
右の目が半分ほど飛び出していた。
小十郎の視界から逃れようと暴れるたびずるずると這い出してくる。
黒目がちだったそれに以前の澄んだ色はなく、空ろな光を鈍く反射していた。
それはまだ4つの子供にとってはあまりに酷い現実だった。


「父上から…母上からいただいた体だというのに…失くしてしまった…。戦でもなく…ただの…ただの病で…!」


顔を俯けたままの梵天丸から切れ切れに嗚咽が漏れ聞こえてくる。
血を吐くばかりの悲痛な叫びが透明な雫となって瘢痕の上を流れた。
その姿はあまりに痛ましい。


「梵天丸様…」


小十郎は胸が潰されそうだった。
このお方は優し過ぎるのだ。
幼子ならば変わり果ててしまった自分の姿に恐怖し泣くのだろう。
だが梵天丸はこの病の所為で父を、母を悲しませることを恐れ泣いているのだ。
その心根のなんと素晴らしきことか。
目頭が熱くなるのを必死で堪えた。

しかし、このままではいけない。
例え辛くとも、伊達を継ぐものとして乗り越えなければならないのだ。
なおも暴れる梵天丸の顔を両手で包み、正面から見据えて一喝する。


「泣いてはなりません、梵天丸様!人の上に立つ者は己がことで涙を流してはならぬのです!」


小十郎の声に、身を捩って逃れようとしていた梵天丸の動きが止まった。
一介の小姓が言うことではないと自覚はある。
たった4つの子供に酷なことかも知れないが、ここで言わねばきっと自分は後悔するだろう。
絶望に染まった左の瞳を見開いて顔を上げた梵天丸に、語気を和らげ更に語りかけた。


「貴方の涙は貴方が背負ってゆく人々のためにあるのです。今は流してはなりません」


その言葉に、あとからあとから溢れてくる涙を堪えようとする梵天丸がいじらしい。
抱き締めたい衝動を堪え、言葉を重ねる。


「それでも、涙を堪えたことも忘れてはなりません。貴方は鬼になってはいけない。人でなくてはならないのです」


人を統べる者は人であれ。
鬼になるのは他の者でいい。


「…ですから、今だけは、今だけは思い切りお泣きなさい。桜しか見ていませんから」


噛み締めていた唇から慟哭が迸った。
声を上げて泣く梵天丸の肩を抱き、握り締められた袂の重みを己の中に刻む。
自分の方が余程泣きそうな顔をしていたかも知れない。

これが二人の、後に奥州双竜と呼び称される主従の本当の出会いであった。





「…俺はこの眼に囚われているのかも知れないな。恥じるつもりも恐れるつもりもないが、忘れることなど出来はしない」


なかったことには出来ないのだ。
この眼を背負って、生きてゆかねばならないのだろう。

あの日以来、梵天丸は人前で泣かなかった。
虎哉禅師の教えである「ひねくれ者たれ」を実践し、『伊達の若君』を完璧に作り上げている。
しかし右目のこととなるとまだ気持ちの整理がつかないのだろう。
特に母親である義姫に対しては申し訳ない気持ちが強いのか、母と顔を合わせるのを避けていた。


「だがこれも俺の業なれば、共にゆくのも悪くない」


夜風が二人の間を吹き抜ける。
心地よいそれに目を細めると、梵天丸は踵を返して桜の下を後にした。
小十郎が静かに付き従う。

代われはしないと分かっていても。
その苦しみの一端でも引き受けたいと思うのは傲慢なのだろうか。
欠けた右目に、主の一部になりたいと思うのは僭越なのだろうか。


その眼が業だと言うならば
貴方の枷となるならば
この小十郎に下さいませんか?


言えぬ言葉は口の中で苦く、溶けた。


(2007/04/01)


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