たとえ一瞬でも、指先が触れたなら
「Catch you!」
木々を渡る風が髪を撫でてゆく。
雨上がり独特の濃厚な緑の薫りに目を閉じ、香港は背を預けていた大樹を仰ぎ見た。
日々是雨降りでお馴染みのイギリスの家だが、一日中雨の日というのは案外少ない。
降ったり止んだりがかえって鬱陶しい気もするけれど、こればかりは我慢するより他なかった。
然程快適さはないが、屋外の空気はやはり心地よい。
香港は雨が止むとこうして外に出ることにしていた。
お気に入りなのは広大なイングリッシュガーデンの外れにあるこの大木だ。
湿り気を帯びた幹はどこか、自分の家の湿度の高さを思い出させるからかも知れない。
何も用意していないので優雅なティータイムとはいかないが、庭を眺めて穏やかな午後を過ごすのもよいだろう。
そんなことを考えていると、日頃紳士の振る舞いについて口喧しい人物のものとは思えないような荒々しい足音が近づいてきた。
「おい香港!何やってんだばかぁ!」
「アンニュイに浸ってる、的な?」
「だからってそんなとこに登るな!さっさと降りろ!あとフランスのヒゲヤローんとこの言葉使うな!」
「注文多くね?」
「お前のせいだろうが!」
そう、香港がいるのは大木の枝の上。
枝自体はしっかりとしたものだが、如何せん地上からの距離が随分とあった。
イギリスが心配するのも仕方がないだろう。
だが、ここで大人しく木から下りるような香港ではない。
慌てるイギリスが面白いのか、右へ左へ体を揺らしてみせた。
枝がしなり、数枚の葉を散らす。
鉄棒の要領で跨いだままぐるりと半周すれば、天地が逆転した視界の中、眉毛を飛ばさんばかりに目と口を大きく開いたイギリスが木へ登ろうとしていた。
「ま、待ってろ!今助けてやるから!」
「いや、この程度じゃ落ちないし。つーかもう下りるし」
言うが早いか、枝から脚を離す。
「わっ!ばばばばばばか!」
イギリスは慌てて木登りを中断し、香港を受け止めようと芝生に身を投げ出した。
親切とは、時にかえって邪魔になってしまうこともある。
真っ逆さまに落ちるかに見えた香港だが、宙で一転して体勢を変えていた。
華麗に着地しようとした先には、身を挺して受け止めようとする海賊紳士。
イギリスはきつく目を瞑って衝撃に備えるが、待てども予想していた重量を感じない。
そろそろと目を開くと、頭上から香港が覗き込んでいた。
「ビビリ過ぎじゃね?」
「ほ・・・・おま・・・・!」
驚きのあまり口をぱくぱくさせるばかりのイギリスに、わざとらしく嘆息してみせる。
香港は落下の際、更に一回転してぎりぎりのところでイギリスを避けて着地したのだ。
雑技団級の軽業である。
「いきなり降りて来るんじゃねーよ!」
「降りて来いっつったの、イギリスじゃん?」
「誰も落ちろとは言ってねーよ!そもそもお前はなぁ…」
反省の色など更々見えない香港に、イギリスも漸く立ち直ったのか芝生から勢いよく身を起こした。
延々と説教を始めようとするイギリスに辟易し、くるりと踵を返すと香港は脱走を開始する。
「あっ、こら待てばか!」
「待ったらそれこそバカっしょ」
暖かな日の光の中、温かさとは無縁な追いかけっこが開始された。
飛鳥の如き香港をイギリスが捕まえられるはずもなく、健闘も空しくイギリスの敗北に終わる。
荒い息を吐き、「もう年か…」と呟きながらイギリスは芝生の上に寝転んだ。
「功夫が足んないんじゃね?」
「るせーよ」
先程と同様、頭上に立った香港はイギリスを見下ろした。
金糸の髪が風にそよいで揺れている。
それは酷く遠くの景色に見えた。
所詮交わるのはひと時だけ。
追いかけたところで手に入りなどしないのだ。
こんなにも近くにいるというのに。
あと一歩が踏み出せない。
触れそうで触れ合えない距離感がもどかしく、心地よかった。
いつか、追いかけてもらえるようになるのだろうか。
そんなときが来たならば、この距離を埋めることが出来るだろうか。
「功夫が、足んないよな」
せめて指先だけでも伸ばせたらいいのに。
交わる時を、触れ合う瞬間を、望まずにはいられなかった。
(2009/11/26)
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