任那について

任那について               2010年1月26日

 名称の考察                  平松 健

 

はじめに

 任那という言葉は日本史を始めた人は誰でもミマナと読むものと決めているが、普通ならニンナかジンナぐらいでミマナとは読めない。漢字源でもこの二つの音しか載っていない。なぜミマナと読むかという素朴な問題である。

1 天皇名説

@日本書紀垂仁二年(ミマナと最初に読ませた記録)

 「(中略)ここを以って汝が本国の名を改めて、追って御間城天皇の御名をとりてすなわち汝が国の名にせよ」とのたまふ。よりて赤織の絹をもって阿羅斯等にたまひて、本土に返しつかはす。故、其国を名付けて弥摩那国と謂ふはそれこの縁なり」

是以改汝本国名。追負御間城天皇御名。便為汝国名。仍以赤織絹給阿羅斯等。返于本土。故号其国謂弥摩那国。其是之縁也。

A伴信友(中外経緯伝)

書紀の崇神/垂仁両天皇紀の本文や分注がそのまま信用された時代の説として、崇神天皇の名前のミマキイリヒコイニエノミコト (紀に御間城入彦五十瓊殖尊と書き、また水開城之王と書き、記に御真木入日子印恵命と書く)の頭音ミマをとり、ナは名で、「天皇の名を国の名」に負うという意味に解した。

ミマナを漢字で任那と書く理由は、我が国よりの指定によるもの、すなわち、「皇朝より彼国に置かれたる宰に命せつけて定めさせ給へる」ものとしている。漢宇の理由づけとして、任の字はジンまたニンの音で、ニンのニはミと通う音であるから、彼国にて任の字を訛ってミンとよみ、そのミン()をミマに当てたのであろうとした。

 

 現地語説

白鳥庫吉

任那はnimraで王または主君を表すnimという語にraという助辭が加わったもの(「歴史」創刊号1947,12)

 鮎貝房之進

ミマナをそのまま原音とせず、それは原音の日本訛りとして考える。(即ち原語を朝鮮語で解こうとする企て)ミマと任の字とを別途に考え、任の字は朝鮮語のnim(主・王の意味)( は現代語では様、장군님は将軍様と金正日を呼ぶことで有名)を表し、那の字はra(国の意)(nara나라が国を意味することは有名。また韓国語辞典では羅の字を韓語ではナまたはラと発音している。)の転呼であるとする。(雜攷第七輯上巻44頁)。その傍証として、任那の故地とされる今の金海の船着場の名として與地勝覧に著録される主浦(min-kai)を指示している。(注nim-nae ,님내を転写したものとする)(日本書紀朝鮮地名考1937)

インターネットの補足説明

任那の語源については、『三国遺事』所収の『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae ,님내)を転写したものとする。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はmma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnm化した結果成立したものと推定されている。

 

末松保和 任那興亡史

ミマナのミマをミマキのミマに関連させた書紀の説明(伴信友の中外経緯伝)が、紀中、他に類例が多い地名・国名の起原を説く「語呂合わせ」に類する方式の一例に過ぎないとみている。事実に逆であつて、はじめ韓地に、漢字で任那と書かれる国があって、それを日本で、ミマナと読み、また、ミマナと呼んだ、とも言い得るとする。任字の音のニン・ミン相通の説など、逆に任那を、ミマナと読み得る証とすべきであるかも知れない。しかし一概にそう決めるのは速断に失するであろうとして確定的なことを言っていない。

一つの可能性として考え得るのは、ミマナと言ったのではあるまいかということである。何故なら、日本にかおける、ミマナ(彌摩那・彌麻奈・三間名)という呼び方をミマキの天皇の名から来たとするは、後人の附会として採らぬとしても、よびかたそのものは原音を伝えるものであるかもしれぬからである。その原音としてのミマナに充てるに、任那の二字の字音を借りたとすることができる。

もう一つミマナをそのまま原音とせず、原音の日本訛りとして考えることもできるとして鮎貝房之進の説を引用している。

いずれも一説に留まるであろうが歴史的裏付けが可能であるという点で考慮に値する。そのためには名義から離れて地域を解かねばならないとして、任那の成立論を説く。

直木孝次郎 任那は元来金海の近くにあった最初は一小地域の地名である。日本から加羅へ渡って行く上で重要な地点になるので日本では加羅全体をさすようになった。金海のことを任那と言ったのかも知れない。

三品彰英 鮎貝氏の主浦説を発展させ、主浦はこの地方の聖地であり、古代国家の祭政の場であった主浦がニムナであり、聖地の名が国名として用いられたとする。

鈴木靖民 伽邪の地域を任那と言うのは歴史的にふさわしくない。

任那は本来名月山を源流とする川が海に流れ込む港あるいは浦という意味からでた小地名で主浦とも書かれるが、別名で言うと臨海と同じ意味となる。つまり、ニムカイ→ニムラ→ニムナというように変化する。直接的な意味は南の浦とか前の浦という意味で、この地域一帯の名称となり任那という国名にひろがった。(鮎貝房之進の説として引用して賛同=巨大古墳と伽邪文化 角川選書1992)

 日本古典文学大系

任那をミマナ(弥摩那・弥麻奈・三間名・御間名)とよむことについては、諸説あって、原名は断定し得ないけれども、任那なる漢字が、韓国人のつけた、ある地名をあらわすために充当されたものであることは疑いない。とすれば、ミマナは原名の日本訛りとして、原名に比較的近いものであるかもしれない。垂仁二年の条の分注によれば、御間城天皇の時にはじめて朝貢したから、天皇の御名(御間城入彦命)をとって、ミマナ国としたとあるけれども、事実はむしろ逆であるかもしれない。

 

3 日本語説

@現地語説の問題点

鮎貝氏は、東夷伝に出てくる弁辰12カ国の内の弁辰彌烏邪馬国にあて欽明紀任那十国中の稔礼(にむれ)国も同一であろうとした。そして任那の現地比定は「東国與地勝覧」の主浦を当てている。この地は現在慶尚南洞昌原郡熊東面竜院里といわれ、1076年編纂の駕洛国記に始祖王妃来臨の伝説を伝える各種の遺跡があるという。主浦の名前はこの、王妃来臨に由来すると言われる。

問題は三国遺事には主浦なる単語は出てこず、来臨の地は乗岾(スンジョム)となっている(駕洛国記)。

主という字をニムという意味に取ることはできるが、主という字の発音はジュ(であり、浦はポ(であって、両者にミンの発音もナエの発音もない。その関係でいろいろの学者が鮎貝説を脚色して説明しているよう思われる。

Aミマナは日本語である。(古田武彦説)

ア ミマナの「ミ」は「御」。「マ」は「真」。「ナ」は、那の津の「那」。水辺の地をしめす日本語である。倭人がこの地にいた証拠である。倭人はこの地を本当に美しい水辺の土地だと呼んだわけである。

 イ 何故、しかし、任那という字を当てたか。

「任」は「アタル」「イダク」「ノセル」など、多様な意義をもつが、ここには妥当しえない。ところが、「ニンベン」を除き、「壬」とすれば、「ミズノエ」であり、「北方」の方位をあらわす。壬、北方に位す。(説文)

とある通りである。

任那は「倭の側の命名による用字」であり、九州北岸部(たとえば筑紫など)博多湾岸から見れば、ピッタリの「命名」と「用字」となる。即ち九州から見て正に北に、美しい水辺の国がある。倭の領土であるから倭の本国から見て北なのである。それ故、北の那を意味する、任那という字を当てたわけである。中国人や朝鮮半島側の人々による「命名」や「用字」ではありえない。

ウ 他の例

有名な志賀島の金印において「倭」が「委」と刻され、三国志の魏志倭人伝でも、朝鮮海峡の「渡海」のさい、三回の中、二回は「渡」だが、一回(最初)は「度」が使われている。卑弥呼も、倭人伝ではこの表記だが、最初に出てくる帝紀(正始四年)では「俾弥呼」である。この時代はこのような用字上の、自由さの存在した時代であった。(現在は固定)

要するに人偏やサンズイをとっても、逆に付いていても同じ意味があるということである。

エ 日本語地名の存在する意味

(A)「日本語地名」(任那)が、五世紀初頭の高句麗の金石文「好太王碑」に出現している。

B)同じく、三国史記にも、この「日本語地名」が、歴史的名称として出現している。

C)同じく、中国側の、歴史書「宋書」にも、この「日本語地名」がくりかえし出現している。

このように、朝鮮半島に「日本語地名」が残っていると言うことは倭の領土がそこにあったということに他ならない。

(参考)

日本書紀にある任那十国(欽明二十三年)

加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞飡国。稔礼国。

       以上